《ゲーテの詩の巧みさ HEIDENROESLEIN》

瀬谷こけし
Morgenschön !
画像
20.8.2016, InTautenburg.




 初回の授業で「ドイツには朝がある」などという途方もないことを言ってしまったので、そしてその際その考えを補強すべくゲーテの「morgenschön」という造語のことを説明したので、昨日の授業でその語の出てくるゲーテの詩を短くだが紹介することにした。知る人はみな知っているようなことだが、その詩は「野ばら」。シューベルトの曲などで知っている人も多いはずの詩だ。目的がドイツの「朝」のイメージのことだったので、紹介したのは第一聯だけだ。それが以下だ:


HEIDENRÖSLEIN

Sah ein Knab’ ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah’s mit vielen Freuden,
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

 詩の分類で言えばこの詩はバラードに属するだろう。詩節の最後にリフレーンがつくし、内容は物語的な語りになっている。
 改めて読んで、ゲーテの巧みさに目を開かされた。それはここだ:

>War so jung und morgenschön,

少年が荒れた野原のなかでかわいいバラの花をみつけて駆け寄ってゆき、その発見、出会いをよろこぶという話の中の「それがこんなにも若く、朝の瑞々しい美しさだったので…」というところだ。ここでゲーテは「so」を入れている。この「so」はもちろん暗黙の「so…daß」の構文の力で次行の「Lief」以下を因果的につなぎ、引き寄せているのだが、しかしそれ以上にこの「so」は、「こんなにも」と、かわいい野ばらをみつけた少年の経験の現場に、否応なく読者のこころも巻き込んでしまう措辞なのだ。こんなにも若く朝のように瑞々しく美しいバラをみつけたその現場に。この三連からなる「野ばら」の詩の中で、読者がこのバラードの物語のなかで心を着け、共感すべき場所はまさにこの場所、一本の小さなバラが「かくも若く、朝のごとくに瑞々しく美しく咲いている」というところなのだ。「so」(=こんなに、かくも)と言われても、それがどんなかということを、読者は(この)少年のように視覚によって共感することはできず、ただゲーテの言葉によって、なるほどそんなに瑞々しくまた美しかったのだな、と共感し、納得するしかないのである。

 わが国の歌論において、ダメな和歌の分類項目のひとつに「無着心所」とういものがある。歌のどこにも心を寄せられる場所のない歌のことだ。ゲーテのこの詩では、まさに心を着けるべき場所が提示されており、それが「War so jung und morgenschön」というここのところなのだ。

 バラードにおいても、あるいはまさにバラードだからこそ、心の着けどころを、さりげなく、しかしきちんと示しておかなければならない。それを、軽々とやって見せるゲーテの言葉の能力には、やはり感心するほかない。そして、「morgenschön」という、ドイツの風土のなかでこそ強く共感される朝(Morgen)の光の力強く、花たちの新鮮で瑞々しい美しさを引き立たせる言葉を発明するゲーテの、感覚と言葉を総合する力にも驚嘆するほかない。ドイツには朝がある、ということを、「Guten Morgen!」という挨拶言葉とともに心に留めておいてほしい。




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