《魚を釣ると魚を捕る angelnとfangen 『ツァラトゥストラ』を読む》

瀬谷こけし
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 問題にしたいのは些事かもしれない。ごくごく小さな問題かもしれない。しかしこのようなごくごく些細なことに重大な問題が隠れているかもしれない。少なくとも、ドイツ語を読まない読者の誤解を招く可能性はなくはないのだ。いまここで直接に問題にしようとしているのは『ツァラトゥストラ』第四部、「蜜の供え物」の中の次の一文だ。
>> Fieng wohl je ein Mensch auf hohen Bergen Fische? (Za, IV, „Das Honig-Opfer“, Z.32, S.297, Bd.4, KSA)
 ここのところの日本語訳を、二つ紹介しておく。どちらも参考にするに足る、大変すぐれた読解を示す訳書だ。
1) かつて、高山にのぼって、魚を釣った人間がいただろうか? (氷上英廣訳、岩波文庫)
2) かつて高い山で魚を釣った人間がいるだろうか。 (佐々木中訳、河出文庫)
 ここですでに拙訳を示しておきたい。
3) かつて高い山の上でよく魚を捕らええた人間がいただろうか? (拙訳)
 [Fieng]が[fangen]の過去形[fing]の別綴である事、[Bergen][Fische]が 複数形であることなどは特に注記するまでもないことだろう。そして[fangen]の基本的な意味が「捕獲する」であって「釣る」ではないこと、「釣る」は普通のドイツ語では[angeln]を使うことなども周知のこととしよう。そしてこの言葉の出てくるところがZaが「世界」を「海」と見て、深海にすむ希少な「人間魚」を捕まえようとし([Menschen-Fischfänger]として)山の上に餌を供えたところだという文脈も理解していることとしよう。にもかかわらず1)2)の訳はニーチェの言おうとしている主旨を誤解させてしまう可能性が少なくないと思えるのだ。それは[fieng]を「釣った」と日本語にすることから生じるのだ。つまり、ここで「魚を釣った」は「魚釣りをした」と同義だという連想が自然に働くのではないだろうか? つまり「釣り糸を垂らした」ということが「釣った」であって、それは「魚を釣り上げた」を意味しないのである。ところがニーチェがここで言おうとしているのは、「魚を釣り上げたこと」「魚を捕まえたこと」であって、「単に酔狂で釣り糸を垂れてみた」ということとは違うのである。---Zaはここで、高い山の上で、本気で人間(魚)釣りを試みているのである。そのような事情であるので、この章に少なからずでてくる[fangen]とか[Fänger]とかは、「釣る」「釣り人」等でなく「捕る」「捕獲者」と訳すことを勧める。


ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)
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ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
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