《比叡山の雪》

瀬谷こけし

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  昨夜は少し強く冷えていたようだ。朝おそく起きて外を眺めると比叡山に雪があった。積もっていたというより白い粉、パウダーシュガーを振りかけたほどの感じだが。雪は当然北へ続き、横高山にもつながる。玉体杉にも降ったようだ。

《速水御舟「洛北修学院村」の二つの山》

瀬谷こけし

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 昔関心があって、というよりその秋の紅葉の美しさに感嘆して、修学院離宮の裏の小山の名称を調べたことがあるが、その調べた地図には東山と出ていた。その地図が何であったかは今は詳らかにしない。この山のことを離宮では「おちゃやま」とか「ほんざん」とか呼んでいるらしいことを、3月2日に離宮で案内をしている人から聞いたが、それをあとで確認することはしていない。案内のパンフレットには名前が出ていない。「上離宮背後の山」と書かれているばかりだ。この山のことをここでは東山と呼んでおくことにしよう。
 そして速水御舟だが、彼はその「洛北修学院村」の中で画の上部に二つの山を描いている。手前の山が中央に立ちその左後ろに明らかに比叡山とわかる山が描かれている。この叡山の手前の山はやはり離宮裏山の東山なのだろうか? これまでわたしはそれを疑うことなく、この二山のことを考えていた。だがそうだとすると、この二山がちょうどこのような位置関係に立つ場所というのはどこなのだろう? 結論的に言えば、比叡山と東山がこのような位置関係に見えるのは、両山の山容および頂点の位置関係を考えれば、鷺ノ森神社の北入り口の付近としか考えられない。当時その付近に個人の住居が何もなかったとしても、この神社北入り口から半径30mの範囲に入るとみてまず間違いない。それでほとんどこの問題は解決したことになるのだが、御舟の画をよく見ていると、少し不安が残るのだ。それは、描かれた「東山」の頂がすこし窪んでいて、もしかしたら二つの頂のある山の頂が近づいて、東山に見えているだけなのではないか、という危惧だ。つまり、現実には東山の南東側には南北に稜線の延びたクレフシ山型の山があるが、その山を前に比叡山を後ろに見る地点というのは存在しないのか、御舟はむしろその二山を描いたのではないか、という疑問だ。その山はおそらく葉山と呼ばれていた山ではないかと思うが、それは曼殊院の裏山であり、また関西セミナーハウスの裏山にもなっている山だ。ここではその山を葉山と呼んでおく。
 5日の日に、その可能性を点検すべく、少し動きまわったのだが、今のところの結論を言えば、麓に梅田雲浜の𦾔蹟の石碑の立つ高さ20mほどの小山の稜線からは、葉山と叡山が御舟の描いた二山とよく似た関係に見えるのではないかということだ。--これはまだ推測で、わたし自身まだその稜線に足を踏み入れていない。武田の農園の南西に隣接する小山のことだ。その稜線の西側には今もお堂や石の十三重塔が建っていて(一燈寺葉山観音)、その下の南手には林丘寺宮墓地があって、宝篋印塔や無縫塔が並んでいる。
 このあたりも寺は多く、寺域の中から見れば他にも比叡葉山の二山が御舟の画のごとくに前後ろに見えるところがあるかもしれないが、それらは調べるにしてももっと詰めてからということになるだろう。まずはとりあえずの報告だ。


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《山中智恵子 『黒翁』より》

瀬谷こけし

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 山中智恵子の第十三歌集『黒翁』(1994年発行)の「さらばすばるよ」と「星を踏む」より数首ずつ(「>>」は際立った秀歌と思う歌)。

>>さらばわれもブラック・ホールに沈まむか春の夜闇のかぐはしきゆゑ    「さらばすばるよ」
>さらば昴よ 谷村新司歌ひゐるこの宇宙(コスモス)も砕けはてむか
>葡萄峠とふ峠のありし雪深きむらさきの世をまた越ゆべしや
>>眠る鳥の静けさを恋ひ高麗(こま)びとは鳥の形代柱に架けし
>狂女には忘れな草がよく似合ふ沐浴のときひらめくことば
>>われもまた非職の兵仗たづさへむ飛礫の巷はたのしくあらむ
>>プレアディスより螢は生まれてみなづきの胸にすだけりあはれ見ぬ恋
>禹歩(うほ)にして宇宙(コスモス)歩むひたみちに世紀の鬱をはらはむとして   「星を踏む」
>星を踏むわがこころあり禹歩といふその逍遥のはるかなりしか
>星踏むは空の旅人逝く春のこころの底の鬱より出づる
>バビロンに人の霊魂(たましひ)売られゐしとはかなき夜の黙示録あり
>>契りきなかたみに月は蝕(は)えにつつみごもる獏も知らぬ夢さへ
>知るや命こゑを列ねてゆく雁のそのつかのまの髪のあはれを

 禹歩とは古代中国(夏)の聖王にちなんだ歩き方で、「左右合、右左合」の三歩格(三拍子もしくは六拍子)を繰り返す。夜その練習にセブンイレブンまで買い物に行った。なかなかうまく歩けない。こんな歩き方をしていると消防団などから呼び止められてしまそうだが。ワルツのできるヨーロッパ人はわりと得意なのではないかと思う。そうたいした時間の歩きではないが、走りにせよ速足にせよ、二拍子での歩行は、歩行から間を取るというゆとりを奪っているということを感じることはできた。歩行だけではない、身体の動かし方の多くが二拍子の体系に組み込まれてしまっていることはないか?
 まずは歩行から、三歩格のゆとりを取り戻してゆきたい。

(歌集『黒翁』は1994年5月13日、山中さんから郵送でいただいた)


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《修学院村》

瀬谷こけし

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 27日のこと。ある駐車場をみつけて原付を止め、三脚を立てて写真を撮っていると、道から話しかけてくれる人がいた。尋ねられてわたしは比叡山ではなく東山の写真を撮っていることを言ったが、この東山も昔は赤松が揃って美しい山だったのだと教えてくれた。そしてこのあたりは修学院村といって、むかしある画家がこの辺をよく描いていたのだと教えてくれた。画家の名前がよく聞き取れなかったが。名のある画家だったかもしれない。修学院村のこのあたりをよく描いていたと言っていた。速水御舟も東山を前に、後ろに比叡山を置いて修学院村を描いている。


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御舟の《修学院村》。参考までに(色調、カラーバランス、サイズ等独自編集)。
 御舟のこの作品は1920年の制作だったはずだから今からほぼ100年前。東山を中央の背景にもってくるところさすが御舟と言っておこう。まさにこの東山こそが修学院離宮が背にしている山なのだ。そもそも「東山36峰」と言われるものも、この離宮の裏山の「東山」を範にして名付けたものではないか。後水尾天皇の感覚の素晴らしさがうかがわれる。


《契沖を読む 00》

瀬谷こけし

 先日日本歌人の高岡哲二さんから『宇陀・室生寺 ふたたび』という本をいただいて読んでいたら、契沖について割かれているページがあった。室生もしくは室生山に契沖は大きな思いを懐いていたというのである。出典は僧義剛の『録契沖遺事』の由である。それは室生山の南にある巌窟があって「師(=契沖)は其の幽絶を愛した」というのである。彼はどうやらわが身以上にその幽絶の境に魅せられたに違いない。形骸を捨てるにふさわしい場所だと思い(以為堪捨形骸)、頭を石にうちつけ、地面に倒れ脳血が地にまみれたことがあったようだ。しかし命終にいたることはできなかった。契沖の頭の中にはサッタ太子とどこか通う捨身の理想があったのではないだろうか。「其の幽絶を愛す」という表現には幽絶の境の魅惑がありありと表現されているように見える。その幽絶の境を彼は室生山の南の巌窟に見出したのだ。人跡はなくとも鳥獣は自然のままにいたことだろう、どこかツァラトゥストラの洞窟に似ていなくもない。そこで彼は上る太陽にまみえることはなかったのだろうか。---なかったのかもしれない。

 実はわたしは院生のころ契沖の全集が出るのを知って、無理をして全巻を買ったのだが、これまで一度もまともに開いたことがなかった。万葉集を読むにも、その後の優れた注釈書だけで十分だと思っていたのだ。だが今や高岡さんから思わぬ縁をいただいて、万葉集をというよりむしろ契沖を読んでみたくなったのだ。たいしたものが書けるわけでもないと思うが、わたしの契沖を読むという試みにお付き合いくださる方があれば幸いである。


===2019.3.1 補====
『契沖全集』第16巻に従い「血」一字を補う。

《早春 穏やかな光》

瀬谷こけし

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 風もほとんどないような早春の穏やかな日差しがあった。野菜がなくなってきたこともあって桧峠を越えて修学院の八百屋に行った。宝ヶ池通りのスーパーまでだと往復で4千歩ぐらいなのだが、修学院までだと何歩ぐらいなのか、それも知りたかった。ほとんど風一つないような陽気が昼過ぎまで続いていた。修学院の八百屋まで約3千歩。これなら普段歩いてもオーバーなことはない。野菜は、大原の里の駅にゆくなら別だが、そうでないなら八百屋の方がいい。あともう一つの用は、リカマンで少しナッツを買っておくこと。キャベツやらも買うと結構ものが大きくなるが大きなトートバックを持って、肩から掛けられるようにした。リカマンでも少し買い物をし過ぎたが。

 比叡山の隣、修学院離宮の裏山に「東山」という固有名を持つ小山がある。形のよい山で、以前は手もよく入っていて、紅葉は京都でも一番美しい山だと思っていたのだが、最近は少なからず荒れて見える。そんな山もこの時期は木々の枝先が赤くなって、もう早春の色合いになっている。大学に合格した時、父母が、三月末か四月初め、入学式の前に一度様子見がてら京都に来て、一緒に大原の寂光院に行ったことがあった。その時も木々の枝先が赤くなっていて、寒い中ではあったが、もうすぐ春なのだという気配を感じたものだった。

 買い物の後、もう一度、今度は原付で外に出て、東山の木々の赤みを帯びた早春の色を撮りに出かけたのだった。まずは風一つない浅き春の日差しを。

《エルマー f=5cm 1:3,5》

瀬谷こけし

















 今日京都は春一番が吹いていた。朝起きて外に出ると天気は良いのだが時々強い風が吹く。気象庁の定義がどうであれこれが春一番なのだ。---だがそうなると、バイクで出かける気がしなくなる。転倒の危険もあるし、そうでなくても横からの突風に当たれば必ずハンドルは取られる。それで中々でかけれれなかったのだが。

 考えていたのはライカ用の「Leitz Elmar f=5cm 1:3,5」と刻まれているレンズをマイクロフォーサーズのLumixGX1に使ってみたらどうだろう、かえって最近のレンズにはないよい感じの描写ができるのではないだろうか、ということだった。それで3時半を周り風も止んできたころにバイクに乗って以前よく通っていた市原の原っぱに行った。それで何枚か写真を撮っていた。GX1用の標準ズームレンズと、これは以前よく使っていたY/Cマウントのマクロプラナー60mmとをもっていった。メインはあくまでエルマーの描写を見ることだった。撮ってみると、50mmF3,5のレンズはとても面白い。ピントの合っているところはライツのレンズらしくシャープに解像されている。だがコントラストは低く、逆光にも弱い。それでも使ってみたいと思うレンズだった。コントラストの弱さが、かえって最近のレンズにはない味わいをもたらしてくれている。マクロプラナーはカラーコントラストも強く、使い慣れた発色なので安心して使えるが新味はない。LumizGレンズもカラーコントラストの高いレンズで、今日のデジタル時代の標準的なレンズと言ってよいものだろう。ライカ用のエルマー、きっとよい使い方があるだろう。

《バイクを起動させて大原・古知谷へ》

瀬谷こけし

 午前中何と好い日だろうと感心するような春の日で、午後から冬眠させていたバイクを起こすことにした。ACから電源を引いてきてブーストしなければならない。かなり手間取ったがそれでも目覚めてくれた。目覚めたら、まずは大原に野菜の買い物。その前にガソリンを入れて満タンにしておく。運転は何も問題なく順調。ここのところよく歩いて体づくりをしているので、バイクも問題なく乗れた。腹筋がきつくなることもない。午後二時半を回っていたと思うが、大原ではこの時間では珍しくまだ玉子が買えた。これはかなりのめっけものだ。残念なことは午後からは空が曇ってしまったことだ。それなりに準備はして行ったのでバイクで寒いということはないが、膝頭にはパッドを入れて防寒をしておいた方がいい。このまま戻るのも少しもの足らず、バイクならではの気安さで大原をまわって見ることにした。まずは古知谷へ。古知谷の阿弥陀寺。以前はしきりと行きたい気がしていたのだが、弾誓上人の即身仏を見たいと思っていたのだが、今ではもう開帳もしていないということを知って、関心が遠のいたのは事実だ。子育ての時期に向いた話でもないというところもあったかもしれない。注連寺にせよ新潟の弥彦山にしろ、家族で行こうと思ったことはない。古知谷もそのつながりだ。だが弾誓上人は魅力がある。信州の大石の上に頭を載せただけの石仏も魅力だ。--こうした関心は五来重の仕事への関心と相関するが、『東北学』(多分創刊号)に書いた「玉依姫という思想」という論文で五来を批判して以来、彼に対する関心を失ってしまったところがある(五来はむやみに柳田の「清光館哀史」の弁護をしていたのだ)。

 だが、五来を離れて、弾誓上人の事蹟を考えて見るのは無意味なことではないだろう。そうした探究を再開すべき時かもしれない。今年は何かを始めよう。


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権現山山頂にはまだ雪が残っている。

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《宮沢賢治「銀河鉄道論」 書評の予告》

瀬谷こけし

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 『宮沢賢治研究アニュアルVol.28』に渋谷百合絵の「「銀河鉄道の夜」の文学的達成---祭の祈りを〈描く〉ということ」という論文が掲載されていて、17日東京に行く時新幹線の中で読んでいたのだが、とても感心した。祭式の意味についてのこのような解釈は今まで見たことも聞いたこともないものだったからだ。--だが、その後考えているうちに、この考えには賛成できないという思いが湧いてきた。それで反論のようなものを書きたくなっている。それは「無限性を含む願望の祭式的な回収に対する反論」ということになるだろう。「銀河鉄道」で言えば「ほんとうの幸い」という無限性を含み、曖昧さにどこまでも付きまとわれる願望を描写の中に取り込むことによって回収し、その願望も成就したとする仕組みを賢治の「銀河鉄道」はもっているという読解を渋谷は示すが、このような回収方法は願望の精密化と言う概念的かつ実践的な努力を見失わせてしまうと思うのだ。葬式でいえば、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、そして会葬者がみな死者の冥福を祈れば、それで「死者の冥福」という無限性を含み曖昧な願望が吸収され、それでその死者の逝去に関する本質的な問題の解決が着くという発想とよく似たやり方だ。--この考え方を批判したい。

 もう一点は、銀河鉄道の中でジョバンニの「さびしさ」が解消されかおるとも普通に話せるようになるきっかけとしての「工兵隊の発破」という男性的で、生者(魚)の殺害を含む行為の実行者にジョバンニが自らを近づけることによって、かおるたちへの優越感が持て、それによって「さびしさ」が解消されるという着想を賢治が(とりわけ第一次稿では)顕著にもっていたことを見落としてはいけないと私は考えるのだが、渋谷はその地点を明確に押さえていないと見えるという点だ。

 この二点について、ブログで短くまとめてみたい。

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補足:新校本全集第10巻本分篇、初期形1、pp.22-23。

「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛りだされて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもう踊りだしたいくらゐ愉快になって云ひました。「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒や何かゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかなが居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひました。
「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。


《区役所・大垣書店・リカマン》

瀬谷こけし

 18日は結局二万歩を越えた。山へ入れば別だが普段の歩きでは二万歩に達することは滅多にない。それだけ歩けるということ自体健康の証なのだろう。最近は以前は車を使っていた区役所にも歩いてゆくようになった。そうなると幾つかついでに寄るところを決め大体のルートを決める。今日は区役所の次には大垣屋書店に行った。『アサヒカメラ』を買うためだ。その次は『リカーマウンテン』。チーズその他いくつか買いだめしておきたいものがあったからだ。それから桧峠を越えて家に戻ると一万三千歩。散歩としてもちょうどよい。そしてこうして歩くといろいろな発見があって楽しい。松ヶ崎浄水場の北側に西行きのこんな細い流れがあることを知らなかった。昔ながらの町には細い地元の人しか知らないような道があって、行き止まりというものがほとんどないのだが、新興住宅地になるとそうした細道が閉ざされ、行き止まりになってしまうことがある。これは歩いていてあまり楽しくないことだ。上記の細流もどこから来てどこへ流れてゆくのか結局分からなかった。「春の小川」は次々に暗渠にされてゆくのだろうか? 三面コンクリート張りの川も人間が上下するためのハンドルなどが取りつけてなければ危険な場所になることが多いだろう。今日も地面から伸びてくる「壁面のアーティスト」を何人か発見することができた。バンクシーもいいが、地中のアーテイストもいい。


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《野バラとともにオルタ村》

瀬谷こけし

 3年前の3月9日、ホテルへの帰路暗い道を歩いていて、コートの右腕あたりを何かに引っ掛けてしまった。多分バラの棘。表地が軽く薄い生地だったので簡単に破れてしまった。セロテープでも貼っておけば実用上大した問題はないのだが、しかし北イタリアの田舎町ではセロテープをみつけること自体が難しい。ともあれそれ以外は問題もなく、ホテルに戻りついた。到着は夜の7時ぐらいだった。

 翌日軽く朝食を済ませて、同じ道をたどってモンテサクロへ向かった。野バラをみつけた。そしてその野バラは山の方から湖の方になだれ落ちるように連なっていた。もっとも、今は舗装道路によって(州道229号線)そのなだれ落ちる姿は想像するしかないが、道幅ニ三メートルの馬車道しかなければそうとう悩まされていたことだろう。

> Und voll mit wilden Rosen, hänget...

というヘルダーリンの詩の[hänget]の意味が何となくつかめた感じがしたのだ。多分ボーデン湖の湖岸にもそういう雰囲気の所はあったにちがいない。

 オルタの村の家々も、湖への傾斜の中に何かにひっかかって支えられている。


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《ここも世界の空の下…》

瀬谷こけし

 これは深尾須磨子作詞の郡山女子大学校歌の最も美しいところだが、この後に「この福島に人類の光ひかり光をかざす」という歌詞をつけて歌えないものだろうか(校歌の「この学び舎」を「この福島」に換えて)? 昨日ふとみつけて読んでいた「『東北地域学』補助プリント--東北地域学への案内--」という冊子、これは京都造形芸術大学通信教育部で開講していた「東北地域学」の補助プリントとして、その要となる五冊の本(1.芭蕉『おくのほそ道』、2.柳田国男『雪国の春』、3.岡本太郎『岡本太郎の東北』、4.梅原猛『日本の深層』、5.赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』)の読み方を記したものだったのだが、その「あとがき」を私が書いた日付が2011年3月10日だったのだ。いわばヤマトによるエミシ蔑視の思想とその逆転への道筋、といった趣旨で「東北地域学」を構想していたのだが、それが、その「あとがき」を書いた翌日に、この構想自体が、福島原発事故によってはじけてしまったのだ。---しかし、この構想はまたやり直さなければならないのではないだろうか? まさに福島に人類の光をかざさなければならないのではないだろうか? そのためには上記の歌と、木村弓(もしくはナターシャ・グジー)の歌で「いつも何度でも」の歌と、シュトックハウゼンの直観音楽演奏と、そして1969年4月9日演奏の『短波』のCD演奏、これを基軸としてかかげることができないだろうか。そんな企画を福島県田村市のあぶくま洞の中で実行することはできないだろうか? 
 そんなことを思いついたのだった。

(本稿は2019年2月7日にFBに掲載したものを一部変更したものです)


https://youtu.be/9O4SMw_8Om0




https://youtu.be/d4Kijkkz4f0





https://youtu.be/uQ_vGr9U3QY





《モンテ・ローザ》


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 2016年3月10日。もう3年も経ってしまった。モンテ・ローザはノヴァーラ辺りからでも見える山だが、このオルタ湖の南端から山越しに見える姿が鮮烈だった。ニーチェもこの白いモンテ・ローザを見たのだろうか? モンテ・サクロからは見えなかったので、多分ニーチェは見ていない。彼がこのあたりにいた5月初め(1882年)でも姿はまだ真白かっただろうと思うが。

《ベッリーニ公園(カターニヤ)の流水紋舗道》

瀬谷こけし
 シチリアのカターニヤにあるベッリーニ公園の舗石が、縦長の石をたくさん並べて流水を象っている。石には砂岩系の石も、エトナ山から飛んできた安山岩系の石も使われているように見える。いわば枯山水庭園の趣向を舗道の舗石に用いているのだ。この素晴らしい着想。最近の無様な日本風石庭とは天と地ほども違っている。
 若い芸術家たちにはぜひこういう着想を学んでもらいたい。


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《ヴィジュアルアートが…》


瀬谷こけし

 ヴィジュアルアートが音楽よりもいいと思えるのは、前者だと数秒もかからずに評価ができるところだ。音楽となると数秒で評価できるものは少ない。そんなこともあって、最近はインスタグラムに少し力を入れている。形への敏感さは一見しただけでわかるし、過度な彩色で見かけを盛ろうとしているものも直ちにわかる。例えば100人の作家を評価するのに10分もあれば足りる。このスピィーディーさがヴィジュアルアートのよさだ。対して、ひとりのヒラリー・ハーンを発見するために、何年かかるだろう。トゥチュク(ハンス)(Hans Tutschku)さんからハーンの名前を聞いてから、彼女のシャコンヌ(バッハ)を聴くまでに3年以上かかっている。ユーチューブではいまいちだ。CDを買って彼女のシャコンヌ(パルティータ2番)を聴けば、30分もかからずに今世紀最高のバイオリニストを発見できるのだが、なぜかなかなかそこにたどり着けなかった。







ヒラリー・ハーン デビュー! J.S.バッハ:シャコンヌ ほか
SMJ
2016-12-07
ヒラリー・ハーン

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《松ヶ崎・宝ヶ池》

瀬谷こけし
 7日は一日中曇りだった。薄い色の雲ばかりで雨が降る気配はなかった。区役所に用があって出かけその後松ヶ崎から宝ヶ池に出て帰った。この松ヶ崎の山のあたりも、通学部の担当だったころは、貴船のホタル見学と同様よく夜に学生を連れて行ったものだ。---通信教育部担当になってからは、京都市内ではなく、むしろ日本の各地に連れて行って現地での授業をすることが多くなったが、どこに行っても歩くことは重視していた。歩かないと目に入ってこないことはたくさんある。今日の行程で約一万二千歩。健康にもよい動き方になっているようだ。松ヶ崎山では、台風21号で折れたと思しき樹がまだほとんど手も入れられずに残っていた。またある神社では明治39年建立の石碑があった。裏を見ると予想通り日露戦争の死者の名が刻まれていた。

 ともあれこんな曇りの日でも春は少しずつ進んできている。


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《モンステラの傷痕》

瀬谷こけし

 室内で撮っていたので途中から三脚を使った。と言ってもこの等倍近辺の近接撮影では、しかもデジタルカメラでは、すべてが未体験の領域になる。絞りの変更、露光の増減、ピントの位置調整等すべてで像が激しく変わる。最後は飛行機から撮る写真に似てきた。(Macro-Planar 60mm, Lumix GX1)


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 *2019.2.2追記:
 撮りながら石内都の『Scars』を思い出していたが、どうだろう? わたしは石内のよき理解者ではない。