テーマ:芭蕉

昨日、光田和伸の『芭蕉めざめる』を読み終わった

光田和伸の『芭蕉めざめる』読み終わる。なかなか勉強になる。中でも芭蕉の一笑への関係というか思いが一番心に残る。「奥の細道」の旅の途中、金沢でなぜあれほどの慟哭を漏らしたのか、という疑問があった。   塚も動けわが泣く声は秋の風 この句だ。 それが納得できた。一笑は芭蕉にとって、ひとりの若い有望な弟子というより心の友だっ…
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月とり落す (『芭蕉七部集』「冬の日」)

  つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな  歌仙『冬の日』の第三巻の発句である。詠んだのは杜国。  この句、わたしにはなかなか分かりにくい。安東次男の『芭蕉七部集評釈』を片手に少しさまよってみよう。  まず疑問だが、「とり落す」のは「何を」なのだろう? 「月を」なのか、「月が」なのか? また「つつみかねて」は「何…
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松本城の「玄番石」

松本城太鼓門一の門枡形の「玄番石」(写真右端の大石)。撮影は2010年10月23日。    ひとり世話やく寺の跡とり  越人   此里に古き玄番の名をつたへ  芭蕉 (連句「鴈(かり)がねも」より、『芭蕉七部集』岩波文庫)    *松本城歴代城主については: http://north-alps.…
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更級姨捨山 棚田近くの紅シジミ

 この写真は再録になるが。  今年の十月二十四日の朝のこと。棚田から少し離れたところ、長楽寺に向かう道を歩いていると、視野の隅に、一瞬シジミ蝶が見えた。だがすぐに急下降して、土手の陰に消えた。七、八メートルほど離れたところだ。  「シジミ蝶だったはずだが」と思いながら近づいていった。だがすがたが見えない。下りていった…
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木枯しの身を

琵琶湖はわたしにとって、(松尾)芭蕉を感じるためのもっとも身近な場所だ。木枯しの、しかし生暖かい木枯しの吹いた今日、滋賀に行った。  拙句:   木枯しの身を嘆かする秋の有れ  「嘆かする」という言い方は伊東静雄の「遍照さする」に倣った。普通なら「嘆かせる」でいいところだが。あえて「嘆かしむ」とする必要もないだろう。竹…
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『和漢三才図絵』の桟/木曽の桟

 『和漢三才圖會』〔上〕(平成一一年八月三〇日、和漢三才圖會刊行委員会発行、東京美術)の中の「桟」の図を引用させていただく。芭蕉の木曽の桟の句を理解し、また説明するための必要なものだからである。引用を御了解頂きたい。   「桟」について、平凡社版『和漢三才図絵』(巻34)は以下の現代語訳を示してくれている。 >思う…
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更級への旅 2010年10月22-25日 木曽の桟

 高速道路を中津川で下りた。そこからは下道。旅の第一の目的は木曽の桟。芭蕉の、   桟(かけはし)やいのちをからむつたかづら の句を読めるようになりたかったからだ。つまり、よくわかるように。というのもわたしにはこの「いのちをからむ」のなかの「をからむ」の措辞がよく分からなかったからである。『更級紀行』の中の句である。 …
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芭蕉元禄七年の「月山」

 芭蕉の発句を一年一年で区切って鑑賞評価してみれば、明らかに元禄七年のものがもっとも素晴らしい。もっとも元禄二年の奥の細道の道中詠を一応カッコに入れる必要はあるが。ともあれ元禄七年の彼の作品の緊迫感は比類が無い。その緊迫感は、わたしにはどこかフルトヴェングラーの指揮するベートーベンの最終楽章を思い出させるものだ。わたしには、この芭蕉…
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明日、更級に

更級に姨捨山の月を見に行くことにした。二十三日が満月。旧暦にして芭蕉のひと月おくれの旅になる。九月半ばに天生峠の写真を撮ろうと旅に出てから、旅が病みつきになってしまった。高速道路の土日千円というのも大きく後押ししてくれている。 そして何度か旅をしていると、自分なりの旅のスタイルというものが出来てくる。ともかく宿を定めないで旅…
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歴史という救いの場

芭蕉の仕事をみていると、歴史は最も深い感覚によってなされた仕事にしか興味を示さないというのは本当のことだと感じる。 それが真ならば、歴史は救いの場になる。 これにまさる救いの場はないだろう。
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師走の句

  拙句。やや気が早いが。 銭を乞う尼来て京の師走尽  わが家には年末になるとどこから来るのかわからないが、老尼が来て物乞いをする。気がつけば必ずなにがしかの銭を包むが。たまに京にいながら、それに遇わない年があると、元気なのか、気にかかる。京にはまだこんな風習が残っている。ごく短い祝言のようなものを唱えてくれる。これ…
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秋の一日 膳所・義仲寺へ

 芭蕉が亡くなったのは元禄七年、旧暦の十月十二日。日も穏やかな一日の午後四時頃のこと。場所は大阪南御堂の前の貸座敷。その夜船で伏見まで送られ、翌日には膳所の義仲寺に運ばれ、夜中に埋葬される。今日、その義仲寺に行ってきた。塚に参る。  境内にはいろいろな石碑があった。芭蕉の木さえ幾本か育てられていた。義仲の墓ももちろんここにあり、そ…
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拙句 枯野の夢に

  飛びゆかむ夢の枯野のその空のなか (鳥になって、というのは山中智恵子的な解決法だが。わたしの場合、きっと猛禽類だろう。きっとガルーダがそれだ。猟師としての登場は、ひとつ可能な解決法だが、わたしの場合まだできない。芭蕉が死の床で見た夢の思いが、わかりすぎるほどわかる。わたしはその芭蕉の夢を継いでゆきたい) …
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鑑賞 奥の細道 月山の句

ここで鑑賞を示しておきたいのは、芭蕉の奥の細道の中の次の発句だ。   雲の峰幾つ崩(くづれ)て月の山  この句は羽黒山から、月山、湯殿山への順礼を終えて坊(宿坊)に帰ってから、阿闍梨の求めに応じて、短冊に書いたものだという。それを『奥の細道』の中に再録している。その三句と、曾良の一句を示しておく。   涼しさやほの…
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芭蕉の月山の句 --- 諸家の「解」を見る

  雲の峰幾つ崩て月の山 芭蕉 尾形仂氏の評釈: 「盛夏の炎天に空高く立のぼっていた雲の峰が、いくつ崩れて、この月光に照らされた雲間に神々しくそびえ立つ月山となったのであろうか。まことに天の一部が崩れて地上に築きあげたかと思われるばかりの雄大森厳な山の姿であることよ」(角川ソフィア文庫『おくのほそ道』) 穎原退蔵氏…
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芸術時間 「芭蕉と月山」

芭蕉の『奥の細道』に「雲の峰幾つ崩て月の山」という句がある。すっきりとは理解しにくい句だ。実際「雲の峰」とは何か、「雲の峰が崩れる」とはどういうことなのか、よくわからない。わたしは「峰幾つ崩て雲の月の山」が元句だという読み方があるのかもしれないと思った。ガレ場になった峰々のことだ。確かめてみなければならない。 芭蕉は実際月山に…
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月山に行った (2)

注文していた『奥の細道』についての本が7冊届いた。月山の句についての読みだけさっと見る。予想通りだ。「雲の峰」を積乱雲と言ったりするものがほとんど。論者がみな月山に登っていないことがまるわかりだ。 まず、芭蕉は月山に登った。であればその登拝の経験のもっとも核心的なことを句に詠むだろう。そして実際芭蕉はそれをしているのだ。…
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月山頂上の句々

  峰幾つまどかに重ね月の山   月山(つきやま)は汝(なれ)を殺すと吹きすさぶ哉   床下に翁骨身の夜寒かな   頂に智恵子姿見ぬ月の山  *   ひとつ家に芭蕉とねたり月の山 * 山中智恵子に「月山」八十首(『風騒思女集』)がある。弥陀ヶ原での作歌…
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月山に行った

 月山に行った。あの芭蕉の、「雲の峰幾つ崩て月の山」の句がよくわからなかったからだ。つまり「雲の峰」とは何か、「雲の峰が崩る」とはどういうことか、幾つかの推測はできるのだが句の真相は何なのか、それがわからない。自分で上ってみればその辺のこと、何かが掴めるかもしれない。そう思ってのことだ。  そう思ったのが9月21日。ネットで少し調…
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9月24日 月山へ

 まずは写真で。 01. 会津へ向う道 (05:49) 02. 磐梯山が見える (06:08) 03. 磐梯山 (06:17) 04. 最上川船着き場 (12:29) 05. 月山への道 (12:38) 06. 八合目への車道 (13:24) …
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(松尾)芭蕉の『奥の細道』

 東北学、もしくは東北地域学にとって、芭蕉とは何なのだろうか。あるいは『奥の細道』は。まずはこの問題を最初に問うておきたい。この問題に対して赤坂憲雄は「芭蕉は結局のところ、都からやって来た風雅の詩人である」(『東北学へ3』p.139)と断じる。しかしこの言い方はさらに「風雅とはなにか」、「風雅の詩人とは誰か」、という問いを誘い、簡単…
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『奥の細道』の「日の光」

 この夏われわれはかつて日本人の誰も経験したことのない熱暑の日本を経験した。---今もまだ経験しつつあると言えるのだろうが---。この熱暑、これはまずあの(松尾)芭蕉も経験したことがないもののはずだ。---と、思い浮かぶのはあの    あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風  『奥の細道』(金沢) の句だ。日のつれなさ…
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芭蕉を越えること

承前: そういえば何年か前、赤坂憲雄も「芭蕉を越えろ」と言っていた。やっと彼に追い付いたというところか。それともまた別のことか。きっと別のこと。別の戦い。 そうだ、別の戦いだ。芭蕉の「あかあかと」の句は、秋を言うために古今集に戻っている。古今集の敏行の歌(秋きぬと)に戻って(風に秋を感じて)いるだけのことだ。あ…
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