テーマ:ニーチェ・なう

《ヘルダーリンの「生の半ば」》

 わたしが30歳ぐらいのことだったと思う。生協の食堂で上田閑照先生をみつけて、少し話したことがある。わたしは最近ヘルダーリンの「Hälfte des Lebens」を読んで考えていると言ったつもりだったのだが、わたしは「Hälfte」の発音に自信がなく、よく通じないようだったので、ヘルダーリン…
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《大きな遺産を相続すること》

ワイマールの野  ゲーテは、この世で画期的な仕事をするためには大きな遺産相続をする事(eine große Erbschaft zu tun)が必要だと言う。ナポレオンはフランス革命を、フリードリッヒ大帝はシュレージエンの戦役を、ルターは坊主どもの無知を、そして自分はニュートン説の誤謬を課せられ、継いで…
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《ニーチェはタウテンブルクをどう紹介しているか? ――ニーチェ研究資料1882年(4)》

タウテンブルクの美しい森 Inmitten schönen Wälder liegt Tautenburg.  1882年6月26日づけのルー・ザロメ宛ての手紙の中でニーチェは「その前日に手に入れた」というタウテンブルクの家について説明する流れの中で、タウテンブルクの村について説明している。そこの…
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《タウテンブルクとニーチェの南国熱中時代 ――ニーチェ研究資料1882年(3)》

ニーチェが「パラダイス」と呼んだタウテンブルク その塔へと向かう道  1882年6月27日づけのルー・ザロメ宛ての手紙の中でニーチェは自分の「南国熱中時代(die Zeit meiner Südländerei)」なるものについて語っている。それはどの時代のことなのだろう? 手紙で言われる…
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《ニーチェ研究資料1882年(2)思想家として自立せよ》

ナウムブルクのドーム このときニーチェはナウムブルクにいた  ルー・ザロメがニーチェに傾倒しそうになっていたとき、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークはルーに、警告ともとれる次のようなメッセージを送っている。ルーは最終的にはこのマルヴィーダの勧める道に従ったように見える。「研究資料1882年(1)」で少しだけ紹介した…
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《ナウムブルクのマリアの塔》

 ナウムブルクで現地時間の8月15日午後5時過ぎ、ニーチェ・ハウスを見終えて、その旧市街を包むような深い堀と壁が気になった。どうやら全体が高い壁で囲まれた閉鎖都市だったようだ。その壁がどこまで続くものかが気になって、宿の近くのマリアの塔の裏側も見てみた。はっきりはわからないもののこのマリアの塔の壁…
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《ニーチェ研究資料1883年(1)-ロバの歩み》

ナウムブルクのニーチェハウス このときニーチェはジスル=マリーア、妹エリザベトはナウムブルク  1883年7月はじめの妹に宛てた手紙の中でニーチェは「ロバの歩み」と言うべきものについて語っている。ご存知の方も多いと思うが『ツァラトゥストラ』第四部の「ロバの祭り」に登場するロバの最初のイメージはここにある。そこのところを拙訳で…
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《ゲストハウス[Zur Tautenburg] 最後の夜》

 タウテンブルク滞在の最後の夜、その日は夕食を屋外でとった。気持ちがよいのでそうしたのだが、この晩はやや曇り気味で、星も一つしか見えなかった。タウテンブルクは知る人も知るヨーロッパ最大の望遠鏡(ツァイス製の2mの反射望遠鏡)のある場所で、ヨーロッパの各地から天文学の研究のためここに滞在してゆく人がいるという。…
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《タウテンブルクの牧師館案内板より》

 情報提供をしておきます。ただし日本語は拙訳の試訳です。間違えなどお気づきの点があったらお知らせください。 Aufenthalt im Sommer 1882 wohnte hier Lou von Salomé und seine Schwester Elisabeth Nietzsche. …
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《ライプツィッヒ・アウエルンシュトラーセ 26》

《Auenstraße 26》  8月25日、今日はニーチェの命日だった。ホテルで静かに本を読んでいればいいのだが、読んでいると、その後のニーチェのこともすこし辿っておきたくなった。折角ライプチヒにいるんだから。  今回の二度目のライプチヒ来訪では、ゲバントハウスやトマス教会に…
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《ニーチェが死んだ》

 8月23日、ワイマールのニーチェ・アルヒーフに行った。あまり色々なものはないところだという印象だった。ニーチェの死後の出来事にわたしはあまり興味がない。  展示室に『ニーチェ・クローニク』という本が置いてあった。最近の研究者ならだれでもが座右に置いている本ではないかと思うが、わたしは持っていない。見せ…
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《タウテンブルクへの旅が終わった》

 朝10時57分の電車でドルンブルクの駅を発ったところで私のタウテンブルクへの旅は終わった。1882年といえば134年前ということになるが、その年の8月26日にルー・ザロメもまたドルンブルクの駅を去り、その翌日にはニーチェもここを発った。彼らにとっては、この先にまだつながっている共同研究の企画があった。それを台無しにしたのは嫉妬…
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《城山の風》

(写真の中央に見える建物の位置に1882年8月14日にニーチェとルーが入ったレストランがあった; シャウマン教授のご教示)  今日は思いがけないことが二つあった。その二つの思いがけないことの前に、今日も城山に出かけて、屋根付きベンチで、昨夜の思い付きを確かめるべくニーチェの『ツァラトゥストラ』の中の「第二の舞踏…
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《ニーチェ》

 ナウムブルクに行ったのは、ニーチェが少年時代を過ごした場所を、そしていわゆる精神錯乱後に母親に心づくしのいたわりを受けながら過ごした場所を見て、そして感じておきたかったからだ。大都会ではなく、あの巨大なドームがあり、かつまたヒルデブラントのオルガンのあるヴェンツェル教会のある特別な環境のまさ…
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《カラヴァッジョ》

 イタリア人アンジェロ・ロンゴーニ監督のこの『カラバッジョ』は、あのイギリス人の監督作品よりはるかに面白い。カラバッジョの時代の権力状況の追跡が相当行き届いているし(例えばジョルダーノ・ブルーノの処刑シーンを見つめるカラヴァッジョやマルタ騎士団のローマ社会における位置も適切であるように思う)、しかしそれ以上に、芸…
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《水汲み》

 一昨日(7月14日)水汲みに行った。ほんとは花背峠で水を汲んで、それから久しぶりに大見尾根を歩いてみようと思ったのだが、途中鞍馬にかかるころから雨が降り出した。せっかくの水汲みの水に降り出しの雨が混じるのはいやだったので、水汲みはもっと奥の芹生へ行くことにした。そして大見尾根歩きはあきらめた…
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《ポルヴェリエラ通り6番》

《ポルヴェリエラ通り6番》  午前中で、明日からのシチリア行きの飛行機と宿の手配ができたので、午後からあのマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク女史の住居のあったポルヴェリエラ通り6番の地を探しに出かけた。一昨日とは違う通りを通ったので、「明日香村」は通れず、少し道に迷った。今どこにいるかを確認するのが、いつも難しい。ある広場のベン…
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《マルヴィーダがコモ湖への旅で考えたこと》

 1876年6月3日、イタリア北部のコモ湖で、朝8時から四時間の湖上遊覧を楽しんだ後、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークはその日の手紙で若い友人パウル・レーに次のような考えを語っている。この手紙からはマルヴィーダの、沈着冷静に世のすべて、ひとの活動のすべてに眼差しを注いでいる姿がとてもよく伝わってくる。この彼女の意…
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《フリードリッヒ・ニーチェの永遠回帰の思想》

 昨日今日と(やっとつける時間がとれて)「哲学」のスクーリングのレポートを採点していたが、今回は、永遠回帰の思想の恐ろしさを、如実に感じたということを示してくれたレポートが何通かあった。こんなことは私が記憶する限り初めてのことだ。だからそれについて、その恐ろしさについて、きちんと書いておきたいと思っている。そのほ…
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《ニーチェから賢治へ 資料3 ---間奏曲:ポトラッチ》

 文化人類学事典はポトラッチ(potlatch)についてその通常の意味を次の様に説明している。 >通常“ポトラッチ”は客たちへの大量の財の贈与、主催者の集団に伝わる紋章や特権(歌、踊り、神話、名前、仮面、彫刻など)の呈示、返礼の義務、富の破壊、競合関係の表現などの属性によって特徴づけられる。(平成6年、弘文堂)…
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《ニーチェから賢治へ 資料2 ---ニーチェとルーの聖なる遊び:生への献身》

◇ところでニーチェが遺した彼の考案になる聖なる遊びは何だったのだろう? 文章においても、そうしたものを幾つか上げることができるが、彼が作曲した《生への讃歌》(Hymnus an das Leben)はその最上のものの一つとみなせる。それについて数年後彼はこう語っている。 > 同じくこの中間期〔1881年8月から…
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《ニーチェから賢治へ 資料1補足「余談」 ---神の死:危険な開口部が生れた》

  余談 ◇ところで神が死んだとはどういう出来事で、またどういう状態のなのだろうか。このことがはっきりと理解されないならば、先述した、 >どのような償いの祝祭を、どのような神聖な遊びをおれたちは発明しなければならないだろうか? という新しい課題も、いい加減な数々の力に横領されて、大変曖昧なものになっ…
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《ニーチェから賢治へ 資料1 ---時代と課題》

○山中智恵子『みずかありなむ』「会明」 >膚(はだへ)立つ杉の深処(ふかど)に神をみず 金山毘古(かなやまびこ)は嘔吐(たぐり)の神ぞ ○2015年度「藝術学舎」プロフィール >130年ほど前、ある哲学者は「どのような神聖な遊びをわれわれは考案しなければならないだろうか?」と言った。わたしの探求も長らくこの…
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《半歩先、一歩先、もっと先》

 世の中、半歩先のことを言う人は感心され、尊敬される。半歩先を言うためには、すでに言われていることを器用にアレンジするだけでよいのだ。だがほんとうに一歩先のことを言うと排斥され、侮蔑され、石を投げられる。真実には必ず本質的に耳に痛いことが含まれているからだ。変わらなければならない、というメッセージがあるからだ。そしてさらに二三歩先の…
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