テーマ:ツァラトゥストラ

《「ドイツ語で『ツァラトゥストラ』を読み抜く会」近日発進》

 同志社の学生を核にした上記の会(勉強会)を4月から開始します。時間は一回3時間程度。二年間で『ツァラトゥストラはこう言った』のドイツ語版(KSA)を終わりまで読み抜くことをめざします。開催は当面月二回、土曜(もしくは日曜)に、場所は京大周辺のオープンスペース(カフェ、ラウンジなど)を予定しています。  参加の…
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《精神とは何か? ---ニーチェ読解》

  わたしが問題にしたいのはニーチェが精神(Geist)をどう把握していたか、その特異な捉え方である。それについては何よりも重要なのは『ツァラトゥストラはこう言った』第二部の「名高い賢者たちについて」で述べられていることである。その説の前提として語られるのは、名高い賢者たちは、ぼんやりした(blöde)目を…
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《血と箴言の中には…(Zar. I-7)》

タウテンブルクにて (in Tautenburg)  血と箴言の中には何があるのだろう? 知っている人も多いと思うが、『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは「みずからの血でもって書くこと」を勧めていた。「すべての書かれたものの中でわたしが愛するのはひとが自分の血でもって書いたものだけだ」とツァラトゥストラは言う。「み…
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《ニースに行きたくなってしまった》

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』の第三部を1884年冬のニースの静穏 (halkyonisch) な天の下で見出し、そして完成させた。ニース近郊のさまざまな場所や丘を一日7、8時間も歩きまわって疲れを知らなかったという。---やはり行っておきたいと思う。この時期、一月二月のことだろう。Googlemapを見ているとEzaの岩城…
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《『ツァラトゥストラ』の超人論(1) 大地と没落機械》

   はじめに: 「国家の外」という問題  先にわれわれは『ツァラトゥストラ』の「国家=新しい偶像」論を一通り見た。そこでも国家の「外」というものが考えられていたのだった。その「外」は「大地」に拠りどころを持ちつつ、大地の上のどこかの座(Sitz)において、空を仰ぎ、そこに虹を見出し、そして超人への促し…
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《『ツァラトゥストラ』の国家論(3) 「国家の終わるところで」》

北イタリアのオルタのモンテ・サクロのフランチェスコ門    3.「国家の終わるところで始まること」  国家は終わる。そう『ツァラトゥストラ』は記す。しかしそれがどんな終わり方をするかは「新しい偶像」のアフォリズムの中では記されない。まずはこの国家という新しい偶像、この冷ややかな怪獣の放つ悪臭から逃れ身を守るこ…
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《『ツァラトゥストラ』の国家論(2) 「国家論」》

   2.「国家」について  ニーチェの『ツァラトゥストラ』の国家論は大層特異なものに見える。その特異さは、何よりも、国家の消滅したその先のところから国家を捉え直しているところにあるように見える。かつてニーチェは哲学者を性格づけて「国家以上の理想をもっているもの」と語っていた(『反時代的考察』)。『ツァ…
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《『ツァラトゥストラ』の国家論(1) 「民族論」》

オルタのモンテ・サクロで     はじめに  ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』第一部には重要な国家論がある。「新しい偶像」のアフォリズムがそれだ。その深さ、鋭さは、今日でもまだ未来の彼方に輝き続けているように見える。例えばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(Imagined Communi…
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《『ツァラトゥストラ』の真理の水 これは何なのだろう?》

 ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の中に「真理の水」という言葉が(私の知る限り)二度出てくる。いずれも第一部の「三段の変化」と「純潔」の中でだ。その後者の方を紹介したい。 > 認識に生きる者が、真理の水のなかにはいるのをいとうのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅いときである。  認識…
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《1883年2月13日---『ツァラトゥストラ』の誕生》

写真はジェノヴァから東の半島を遠望。この半島の東端がおそらくポルト・フィーノで、半島の東側付け根の湾がラパッロ)  ニーチェとルー(フォン・ザロメ)がタウテンブルクに滞在していた1882年8月13日から6か月が経っていた。この日二ーチェは『ツアラトゥストラはこう語った』第一部を完成させた。書き始めたのは2月3日だっ…
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《ニーチェ研究資料1883年(1)-ロバの歩み》

ナウムブルクのニーチェハウス このときニーチェはジスル=マリーア、妹エリザベトはナウムブルク  1883年7月はじめの妹に宛てた手紙の中でニーチェは「ロバの歩み」と言うべきものについて語っている。ご存知の方も多いと思うが『ツァラトゥストラ』第四部の「ロバの祭り」に登場するロバの最初のイメージはここにある。そこのところを拙訳で…
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「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13)

京都造形芸術大学(通学部)の「総合演習・ツァラトゥストラを読む」の授業が昨日で終わった。演習で学生たちと議論を交わしていると、どんな風な語りをすれば話が通じやすくなるか、問題が共有されるようになるかということが少しずつわかってきて、わたしにとってもおおいに勉強になる。もちろん、『ツァラトゥストラはこう言った』の中でニーチェが何を言っ…
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わたしは人間を愛しているのです (ツァラ・ゼミ 10)

わたしは人間を愛しているのです (ツァラトゥストラ・ゼミナール10)  <承前>  http://25237720.at.webry.info/200805/article_3.html  (『ツァラトゥストラはこう言った』序説2)  カッコを付け直してみると分かることがある。それはここで老人(Greis)が…
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カッコを付け直してみる (ツァラ・ゼミ 9)

先に「ツァラ・ゼミ 5」 http://25237720.at.webry.info/200711/article_14.html で語ったことだが、ここで議論をもう少し分かりやすくしておこう。 『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(岩波文庫、2006年7月5日、第63刷)の中で、氷上英廣氏は次のような訳を示している。 …
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Ein Buch fuer Alle und Keinen (ツァラ・ゼミ8)

ツァラ・ゼミを再開する。こういう仕事もついでの時間がないとできないのだが、さいわい京都造形芸術大学で「ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読む」という授業をさせてもらえることになったので、これを機会に『ツァラトゥストラ』の読解を進めさせてもらう。授業は日本語訳を出発点にして読み進めてゆくのだが、それでも当然内容をきちんと検討…
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「きみたち」(lasst !):ニーチェの代名詞の技法 (ツァラ・ゼミ 7)

 今日(2008/1/11)の授業で初めて気がついたことがある。思想としてさほど重要なことではないのだが。テクニックとして、技法として、やはり見逃せない。  それは"nun lasst uns ihn auch sehen!"の"lasst"だ。  氷上英廣さんはそこをこう訳している:「さあ、実際にやって見せてくれ!」だ。この訳…
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いきなり超人 (ツァラ・ゼミ 6)

 今回は少し飛んで序説の3の方を見てみよう。とはいえとりあえず序説の2が「この年老いた聖者は自分の森の中にいてまだそのことについて何も聞いていないのだ、つまり神が死んでいるということについて」という容易ならぬ言葉で終わっていることだけは確認しておく。  そこでツァラトゥストラは森にすむ老聖者と別れて森のほとりにある町にやってく…
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「ツァラトゥストラ」と「あなた」 (ツァラ・ゼミ 5)

 『ツァラトゥストラはこう言った』の序説2でわたしが悩むのは人称代名詞の問題だ。こんな悩みは並外れていて、どうにも共感しにくいものかもしれないが、『ツァラトゥストラ』を舐めるように読んでゆくと、どうしても気にならざるをえないことなのだ。  ところで、後半の「われわれ」が誰のことなのかというのが問題になるのは当然のことで、わたしも次…
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ツァラトゥストラの「祝福」(segnen) それは贈与か交換か肯定か? (ツァラ・ゼミ 2)

『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1はニーチェ的な贈与の問題を語っている。そのエッセンスを捉えてみよう。  これは先日授業後ある学生から「交換」と異なり「贈与」とは一方的なものなのか、という質問を受けたことをきっかけとしている。というのもそのとき贈与は贈与と認識された時すでに贈与ではなく、交換になるというデリダ的なテ…
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ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している (ツァラ・ゼミ 1)

『ツァラトゥストラはこう言った』の序説の1の最後に、こんな言葉があった。  ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している。(氷上英廣訳、岩波文庫、第63刷、10-11頁。適宜改訳。以下同じ。) (KSA, S. 12, Zn. 8-9) 今まで気に留めていなかったのだが、容易ではない言葉だ。なぜなら「ふたたび人間に…
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