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「世界という大きな書物」  中路正恒ブログ

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世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外、 (文書への信奉の外)、
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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鶴見和子歌集『花道』 二十四首を読む

2008/10/06 06:08
瀬谷こけし


    はじめに

  歌集『花道』は鶴見和子三つ目の歌集である。先の歌集『回生』にわたしはまことに目を見張らされた。そのしっかりと自分の感覚と肉体に着地している歌は、歌の新しい技法とともに、新鮮でまた感動的だった。わたしは自分のこころのおもむくままにそれについて短い鑑賞文を書いた「鶴見和子歌集『回生』」
 だがその感動が大きかったために、わたしはかえって、同じくある方から送っていた次の歌集を読むのをためらっていた。その先の世界がどうなっているのか、のぞくのが恐かったのだ。なかなか時間が取れなかったこともあるが。
 今わたしはこれをもっとも清らかな場所で、わたしがもっとも精神を澄ませられるところで書いている。最も澄んだ心とまなざしでこの歌集に分け入ることができればいいのだが。その幸運を祈りながらこの歌集の中に入ってゆきたい。

一、 「花道」とは何か?

 この歌集には著者の「あとがき」がある。そこにはこの歌集の題のことが次のように説明がされている。

 歩く稽古のために、会田記念病院に入院したとき最初に詠んだ歌は
   回生の道場とせむ冬枯の田んぼに立てる小さき病院
 であった。これを上田敏先生にお見せしたら、先生は、「スパルタ式リハビリテーションの考えに、ぼくは反対です」とおっしゃった。
 わたしはすぐに反省して、「回生の道場」を「回生の花道」と直してお目にかけた。
 「それならよろしい」と先生はいわれた。それがこの書の第II部のはじめに載せた歌である。この歌集の題もそこに由来する。
 花道には、出とひっこみがある。この歌集は、回生の花道の出からひっこみに向かう日々の歩みと思索の記録である。

 わたしはこの説明をよく理解しない。「花道」というものについて広辞苑以上の知識があるわけではないが、「この歌集は、回生の花道の出からひっこみに向かう日々の歩みと思索の記録である」という説明に、あまり納得ができないのだ。そう、「舞台」はどこなのか? こういう疑問が残るのである。舞台を、本舞台を、著者はもう立ち去ってしまったのだろうか? そうであるとした、この歌集は、もう余禄のようなものであろう。
 あるいは、もう一つ読みの可能性があるかもしれない。そのとき、「花道」とは歩む道ではなく、その上にとどまったまま「出とひっこみ」という二つの方向をもった動きを行う場所なのだ。あたかもひとが現在という時の中にとどまらざるをえないのと同じように。「花道」という質ををもった時があるのだ。「出」の晴れがましさと「ひっこみ」の辛さとがともに湛えられているような時が。この題はだからひとつの時間論なのかも知れない。
 ともあれ、「回生の道」というものがあるとしたら、この歌集に示されていることこそその本道のはずだ。舞台というならここが本舞台のはずだ。われわれはそのことを確認しておこう。この歌集『花道』は余録ではないはずだということをである。

 その歌を引こう。

  回生の花道とせむ冬枯れし田んぼに立てる小(ち)さき病院   (1)
          (II 回生の花道)

回生への道を歩もうとしている。この小さな病院をその場所として。がむしゃらな訓練の場所ではない。その歩みの道に花があればいい、そんな思いだろうか。この歩みの道とそのわきに「花」が見出せれば、道は花道となるだろう。わきを、周りを、取り囲む人や自然を、そこにその花を見分けることができれば、この歌集は花道の証となることだろう。
 何首かの歌を読み取ってみたい。

1.女書生

  ここにして女書生の生涯を生き貫かむと隠れ棲むなり   (2)
             (I 女書生)

 巻頭第一首の歌である。歌には注がつけられ、一九九六年十一月十五日に伊豆高原ゆうゆうの里に移り住んだということが記されている。「ここにして」の「ここ」とは伊豆高原のそのその地、その施設のことなのだ。わかりやすい歌ではないが、そのような辺地辺土にあっても「女書生」の志だけは貫き通そうという覚悟が歌われている。「女書生」、すなわち言葉に生きる者の覚悟のことだ。隠棲にもかかわらず、あるいはまさに隠棲によって、作者はこの覚悟を貫き通そうとする。これからはじまる、この後の生を、こうして意味あるものにしようとするのである。「花」というならば、まずみずからの生を花あるものたらしめようとするのだ。その覚悟やよし、と言っておこう。

2.基点とするもの

 著者はその「花道」となるべき道の基点にすべきもの、せざるをえないもの、を確認しようとする。

  身の中(うち)に死者と生者が共に棲みささやきかわす魂(たま)ひそめきく (3)
                (I 「一 隠れ家」)
  右の手が左を世話し右足が左を支え励ましつ一身にして二身を生きる (4)
                (同前)

 踏まえなければならないことは半身不随である。左半身が利かない。この身体こそがこの花道の基点であり、基礎である。この身を離れては何もない。そしてやっかいな身体である。左と右のささやきあい、それに耳を澄ますことが出発点になるだろう。そして切り離すことのできない左半身を実際どのように支えてゆくか。このことをなしおおすことがこの花道を進むことなのだ。著者はその出発点を誤ることなく見分けている。

3.燃ゆるおもひ、人しれずあれ

  表(おもて)には黄の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)裏庭に朱(あけ)のが燃えて人しれずあれ (5)
      (I 「一 隠れ家」)

 「人しれずあれ」はどこか折口信夫の詩「きずつけずあれ」(『近代悲傷集』)を思わせる。折口は自分の墓が、訪う人もなく、しずかに忘れられてゆくことをねがった。だが鶴見の思いはそれとは違い、心に秘めるものをひそかに保ちつづける希いだろう。作者はここで裏庭の朱に燃える曼珠沙華をわが身になぞらえている。ここにどこからか「さしもしらじなもゆるおもひを」という実方(さねかた)の歌もひびいてくる。この「人しれずあれ」とは何なのだろう? この歌はその朱の曼珠沙華がひそやかに、ひとに知られずに咲いていることを願っているのだが、それは作者が伊豆高原でのやむをえぬ隠棲のなかにあってもはげしく朱に燃える曼珠沙華の思いもっているのだということをわがこころにだけひそめておきたいからである。ただ曼珠沙華とだけ交わす会話。この回生の道に曼珠沙華の花が咲いた。見出されたからである。
 集中のもう一首の燃える歌にも注意しておこう。

  沈まむと見えしを雲の底いより紅蓮(ぐれん)となりて燃え立つ夕日 (6)
         (V 斃(たお)れてのち元(はじ)まる宇宙 「四 パラダイム転換」)

 沈もうとする太陽。だがそれが西に浮かぶ雲を下から赤く燃やしている。その太陽は、雲を燃やしつつ、それ自身が紅蓮に燃え立っている。夕日が雲を底の方から燃やしている、という的確な観察にも注意しておくべきだろう。沈もうとしてなおも他を照らし燃え立たせる太陽。太陽もまた花道の花なのだ。

二、「花道」をあゆむ

1.出発
 わたしは先ほど「基点とするもの」について語った。その基点を確認することから道が始まる。それがまこと花道となったかどうか、われわれは点検してみるべきだろう。
その点検のはじめにその「出発」を確認しよう。わたしが「出発」としてまとめようとするものは、さきほどの「基点」とはやや異なり、まずは治療の道の、リハビリテーションの、具体的な対象として見いだされているものを指すことにしたい。こんな歌だ。

  ピーターパンの海賊船の船長の手首にも似てまがりし我が手 (7)
          (II 「一 歩く稽古」) 

あの「?」形に曲がったピーターパンの海賊船のフック船長の義手。我が手がそれに似た形になって、動かない。これが現実の「私の手」である。そしてこれが施療の、リハビリの、あるいは「稽古」の、対象となるものである。そしてここではその目標になることも歌われている。

  スプリントはめし手首にしなやかさとりもどせよとそそぐ冬の陽 (8)
                 (同前)

手首のしなやかさこそ取り戻したいものである。そして、そこに励ましのように冬日が注ぐのを作者は見るのである。

2.展開(よろこび)
 そしてこの手首は、

  しなやかに手首の伸びを感じつつ覚めれば遠くうぐいすの声 (9)
                 (同前)

こんな祝福のような朝の目覚めにつながるのである。「出発」にあった自覚は、「展開」されて回復の手応えに進み、同時にこのようなよろこびの瞬間を迎える。この遠く鳴くうぐいすの声以上の祝福をひとは経験しうるだろうか? これ以上の祝福された目覚めをひとは経験することができるだろうか。このよろこびはドイツ語でいう”Wonne”に相当するだろう。無上のよろこびのことだ。わたしはこの歌をこの歌集の中の最高の歌のひとつと考えている。
 さらに、次の歌では、

  細胞の一つ一つが花開く今朝の目覚めは得難き宝 (10)
                (同前)

作者は細胞の一つ一つにまで開花のような何かを感じている。この感覚は、宮沢賢治の『雨ニモマケズ手帳』のなかの詩「わが六根を洗い/毛孔を洗い/筋の一一の繊維を濯ぎ/なべての細胞を滌ぎて/清浄なれば…」を連想させるが、こうして比較してみると、鶴見の「得がたき宝」という措辞は余分が大き多いように感じる。賢治の志と詞の単純さには達していない。賢治はこれにつづけて、「また病苦あるを知らず」と明確に記す。賢治は病苦のない清浄な身体をある時わがものとしたのである。これは決定的なことである。
この単純さというところから見ると、前出の「うぐいす」の歌(9)は「得難き宝」の歌よりもなお優れているだろう。

 われわれはまたこの「回生の花道」の中に、

  立ち上がり歩き始めしプライメイトのそら恐ろしさ想いても見よ (11)
                 (同前)

の歌があることに十分注意をして然るべきだ。プライメイトとは霊長類のことだが、作者はここでまだ二足歩行をはじめることのない生物に身をおいているのである。これまでの存在(Wesen)はみなみずからを超えて何物かを創造してきた、とはニーチェの進化論だが、二足歩行とはまさにこのような創造である。そしてこの途方もない着想や創造の行方は、まだ誰にも読みつくされていないであろう。半身不随という身体がどれだけ豊かな着想の場であるか、このことはこれから人々によってますます発見され、語られてゆくであろう。それは少なくともわれわれ人間の来し方を省みさせてくれるはずである。

 さらにまたこの「回生の花道」の章からもう一首だけ紹介しておきたい。これはこの集中でわたしのもっとも好きな歌だ。

  双足(もろあし)もて椅子漕ぐ芸の身につけば人よびとめて芸を披露す (12)
                    (同前)

 わたしはわたしの小さな娘たちふたりが研究室に来て、椅子に登り、この遊びを見つけ、研究室中を狂騒的に遊びまわっていたことを思い出す。作者はそれを「芸」と呼ぶ。その核心は何なのだろう? 今まで経験したことのない移行の自由、そしてその見出された自由がもたらす感覚の新鮮さなのだ。新しさがある。そして新しい感覚の尽きることのない歓びがある。作者が「芸」と呼ぶものの中にはこの純な歓喜があったことだろう。人に見せたかったのはいわゆる「芸」ではない。そうではなくて、この「術」のなかのよろこびなのだ。ここにこんなよろこびがあるということなのだ。この「花道」には、まことによろこびの花が咲いているのである。

3.達観
 そしてこの「花道」はひとつの「達観」というべきものへと作者を導いてゆく。三首を引こう。

  人恋ふるこころさわやかに研ぎ澄ます異形の者と変化(へんげ)しゆく日々 (13)
                 (V 五月薫風 「一 回生二年」)
  一本の手でできることできないこと日々仕分けする我が分類学 (14)
                 (V 「二 台風」)
  この日この刻(とき)よく生きなむと念ずなりいつとは知らずよく死なむため (15)
                 (X 「二 京の花見」)

 一言でいうなら二首めで言われる新しい「分類学」をわがこととして発見したことが、この「花道」が導いた達観であろう。「できることしかできない、だから、日々それを仕分けた上でできることだけをしてゆこう」。こういう達観が、不自由な身体をもつ身に充実をもたらすだろう。ここにはもちろん諦めがある。そして諦めと同時に見えてくるものもあるのだ。「この日この刻」の歌については説明するまでもないであろう。一首めについて補足をしておけば、「研ぎ澄ます」は連体形ではなく終止形である。ここで句切がくる。この日々が、みずからの人を恋うこころをとぎすませてくれる。それはさわやかなことなのだ、というのである。

4.覚醒
 さらにその諦めに見えてくる「覚醒」と呼ぶべき歌をこれまた三首引こう。

  山の鴉(からす)やさしく鳴けり都なる気性(きしょう)烈しきと同類にして (16)
            (X 「二 京の花見」)
  草の葉の長きをくわえ飛び交わす燕らは今巣づくりのとき (17)
            (X 「三 脱走兵援助」)
  笑うこと死んでしまえばままならず笑っておこうこころゆくまで (18)
            (同前)

 
 作者は、生き物を、その生命のなりわいから捉えるより広く深いまなざしを獲得したようである。「鴉」や「燕」が新たに発見されている。それらはかつて日々の傍らに見られていたそれではなく、この「場」に、作者とともにいて、生命の不可欠の営みをおこなっている生き物たちなのである。そしてここでは〈わたし〉もまた生き物であり、そして笑う生き物なのだ。
この笑いの歌は折口信夫(釈迢空)の深甚な歌をも照らす力をもっている。折口の歌とは、

  基督の 眞はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より
          『倭をぐな以後』
のことである。
 折口はここでこころゆくまで笑うことができたのだろうか。そんなはずはない。この笑いには、自分が選び取らなかった生き方の帰結を、よそから見て笑っている深い侮蔑がある。おそらく折口には、自分はキリストにもなりえたと思えている。折口が見ていたものは深い。しかしそれが幸福だったというわけではない。こころゆくまでの笑いを笑えたのならば、鶴見は折口以上に幸せなはずだ。笑いの底に残るものがない方が幸せなはずだからだ。

5.魂
 そしてもう一首、「魂魄」の力、というよりはむしろ魂の力への希求を語った軽やかな歌を紹介しておこう。これもまた秀歌の中の秀歌であろう。

  ワインカラーの新しき靴魂(たま)入れて我が脚軽く歩ませ給え (19)
           (W 幕間)

 この「魂」の歌は、ブッキッシュな観念から離れていて、とても快い。たとえば折口信夫が語ったような仕方でしか「魂」について感じることのできないエピゴーネンたちと、ここで作者ははっきりと袂を分かっているのだ。

三、大きなもの
 
 ここまで歌集『花道』のなかの歌を、何が花道の花であったかという観点から、その指標となるべき何首かを選んで見てきた。しかしはじめにわたしが想定した枠からみると、何かがやはり希薄なのである。この花道の歩みで、そこを取り囲むひとや自然のなかの「ひと」に「花」を見出すことが希薄であるように思えるのだ。それはなぜなのだろう? 三首を引こう。

 黒人兵テリーと眼と眼あわせたるベトナム兵はテリーを撃たず   (20)
         (V 「三 脱走兵援助」)
 国と国戦いしとき人と人生命をかけて援けあいたる   (21)
         (同前)
 脱走兵援助の歴史アジアにて未来へ向けてうけつがむとす   (22)
         (同前)
  
黒人兵テリーの歌は国境を越える原理となるべき何事かを捉えている。人を撃ち殺す必要はないはずだという思いを捉えているのだ。戦時においてもである。この思いが黒人兵テリーを終戦の後までも生きつづけさせる。この思いは、国を超えたひととひとのつながり、という生きてゆくことの基本に立ち帰らせる。なにも国がひとの生存の前提であるはずがない。脱走兵を援助する組織の構築もこの思いにもとづいてなされたものである。そしてその脱走兵援助の歴史を作者はみずから未来へ受け継ごうとするのである(これは人に花を見出すことだ)。この国境を越えようとする作者の思いにはきわめて大きなものがあり、人の道の失い得ないものについての作者の明確な確信がある。非道をゆるせないということだ。
だから、

 誤爆とう隠れ蓑あり守るべき民死なしめて悔いざるものに   (23)
         (V 「五 修羅を招くや」)

の歌も生まれてくる。この歌もこの厳しい批判精神に貫かれている。われわれは「誤爆」だったと聞くとつい納得してしまうものなのだが、いわゆる「誤爆」が、民の死をなにほどのこととも思わない思想の隠れ蓑だということをこの歌は明確に教えてくれる。人としての大きなものに貫かれたこの短歌は、そのような思想表現でもあるのだ。
わたしは山中智恵子の一連の誄歌を思い出す。わかりやすい一首を引けば次の歌だ。

 青人(あおひと)草(ぐさ)あまた殺してしづまりし天皇制の終を視なむ
       『夢之記』「雨師すなはち帝王にささぐる誄歌」*

 この山中智恵子の歌にも非道への怒りと告発がある。

こうした「大きなもの」は、きっと、作者が「花道」と呼んだリハビリテーションの道の歩みとは独立に、作者のなかに貫かれているものなのだ。そう考えるなら、その「花道」において「花」としてひとが見出されることが希薄であることも異とすべきことではない。何かもっと大きいことがあるのである。
 そのことのわけをも、われわれはこの歌集の中に見出すことができる。それはわたしがこの歌集のなかで最も強くうたれた歌だ。

  一生(よ)かけて費(つか)い果たせぬ大いなる愛を給いしちちのみの父   (24)
          (V 「七 歩み納めむ」)

その、先ほどから述べてきた大きなものを、作者は「それは父から給わったものだ」と言う。そして、その父からもらった愛に応えるために、自分には、まだもっと生きて、してゆかなければならないことがある、というのである。深く感動的な歌だ。
 わたしもまたこのような父でありたいとひそかに思う。




*注
山中智恵子『歌集 夢之記』、1992年、砂子屋書房。
『日本歌人』2007年6月号の拙論「山中智恵子論<VI> 雨師・王・翁・誄歌」も参照していただければ幸いである。




歌集 花道
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第18回宮沢賢治研究発表 レジュメ

2008/09/30 13:05
瀬谷こけし
 20008年9月23日、花巻の「宮沢賢治イーハトーブ館ホール」で研究発表をしてきた。当初は、「小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた」ということと「熊ども、ゆるせよ」という小十郎の最期の思いとを結びつける論理を示せればよいと思っていた。そしてもし時間があれば、佐藤孝さんが『宮沢賢治に誘われて』の中で述べている『なめとこ山の熊』についての解釈の再検討を加えてみたいと思っていた。だが、研究発表の申込をしてから岡村民夫さんの『イーハトーブ温泉学』が出た。この本は私の所説を十分に踏まえて書かれていて、さらに私の説よりも先までいっているところがあると思えた。それで、発表の前日になって、岡村説をも踏まえた、宮沢賢治の思想の最終地点からふり返る形で『なめとこ山の熊』の最後のシーンを解釈するという発表に切替えることにしたのだ。
 そのために前日の夜は準備に追われていた。一番の問題は論の筋道をきちんと整えておくことだ。事前に配られていた400字の発表要旨に一字誤字があったのも気になっていた。これは多分わたしのミスのせいだ。発表の一番最初に訂正をしなければならない。
 そんなこともあってレジュメを書くことにした。そのためにインターネットにアクセスしたかったのだが、泊っていたホテルではそれができない。"million"という喫茶店で閉店時間まで準備をして、それからさらに、そこで教えてもらった"M's café"というネット・カフェに行って、調べものをしながら準備を進めた。そこも12時までの営業だということなので、それからホテルに戻って仕事を進めた。結局午前3時すぎまでかかってしまった。
 翌日一番最初の発表でもあり、それからでは使えるプリンターもなく、レジュメを配ることはできなかったので、配布することはあきらめた。
 また、当日朝8時45分からの打合せ会で「発表要旨集」が渡されたのだが、その私が事前に届けておいた800字の発表要旨にも同じ誤字があった。確実にわたしのミスだ。それで、発表はどうしてもその訂正からはじめなければならなくなった。それでその「諏訪の勘文」の思想から発表をはじめることにした。
 発表はとりあえず大過なく終えることができた。幸運としなければならない。

 それで、結局誰の目にも触れることのないレジュメが残った。とりあえずここで公表しておくことにしたい。上述のように、発表もこの通りのものではない。もう少し深いところまで言えたと思う。その考察はいずれ公にしてゆきたい。

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第18回宮沢賢治研究発表 2008.9.23 宮沢賢治イーハトーブ館ホール
「『なめとこ山の熊』:最後のシーンの小十郎と熊たち」
発表レジュメ                   中路正恒

1.訂正(当方のミス):「諏訪の堪文」→「諏訪の勘文」:「業尽有情。雖放不生。故宿人天。同証仏果」(cf.中沢克昭『中世の武力と城郭』)。殺され、食されることによって仏果としての解脱を得ることができるという思想。仏果としての解脱。

2.小十郎は崇敬されている←→B「なめろこ山のあたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠に…」
→「崇敬」は山で生きる仲間としての好き以上のこと。

3.「崇敬」の理由はテキストに書かれたこととして何だと考えられるか?
◇賢治の願望(小十郎:熊≒賢治:農民)? 【No】.小十郎は熊のためになるようなことをしていない。恩恵がない。
◇自死した熊→自分の生への疑問(生きている意味、権利がない)? 【No】
6月→1月(その期間に猟師をやめるはず)。O白沢の奥の大きなやつを狙っている。たおす意欲がある。

4.R「熊ども、ゆるせよ」
→小十郎はその記憶の中で死んだ熊に存在を与える。死ねばその記憶も消える。熊も消える。この優れたところのためか? (記憶の中の存在)。

5.如来とどう違う? (法華経思想をcritical pointに追い詰める賢治)
(詩「病血熱すと雖も…」)熱悩の我が身において「修羅即仏国土」が成立するか否かを問い詰める→わが身の「清浄」(清浄身)を得る。

6.自死した熊は山の神的か/仏教的か?
=子孫に血を継承しない死か(仏)/継いでの死か(山神)
=循環か(山神)/まったき贈与か(仏)
→2年の猶予は循環を示唆する。まったき贈与(清浄身)ではない
〔私見:法華経の思想では、仏の常在が、衆生がまったき清浄身を得ること(得られること)の根拠である〕。

7.なぜ崇敬される?
→(小十郎が)「同証仏果」の可能性を見せてくれるから。「清浄身を得る死」を予感させてくれるから。

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萬世橋を見てきた

2008/09/27 02:06
萬世橋画像

瀬谷こけし
九月十日のこと、二日目の授業が終わって少し余裕ができたので、夜隅田川の方に行った。隅田川大橋を渡って清洲橋へ、今度は清洲橋を渡ってこちら側の遊歩道をもどり、永代橋まで。そこから日本橋のホテルに戻り、そこでwebで「万世橋」を調べると、秋葉原の電気街の南の方にあるということ。そこなら行けそうだと思って行ってみる。秋葉原の電気街の方に行くと、先日の大量殺人事件のすさまじい、荒んだ感覚が、どことなく残っている気がした。
 萬世橋はすぐにわかった。思ったより短い橋だった。あちらへ渡り、こちらへ戻る。写真を何枚か撮る。

 この橋を見ておきたかったのは折口信夫の歌がずっと心に懸かっていたからだ。

  よこしぶき 萬世橋にふる雪は はるかに過ぎて、明り來るなり
          (『倭をぐな以後』「遺稿 三」)

好きな歌だというわけではない。どこか半端なものを感じてしまう。戦後、訪れてくる新しいものを、<明り>として受入れる。万世につながるものを見ていると言えるのだろうか。そう言いたいのであろう。だが、ここには、自ら決することができず、状況に流されている折口がいる。「明り來る」世は折口を必要としない世であろう。

 折口のこの歌を本歌にした拙詠一首。

  よこしぶき 隠元橋にふる雨のつめたく冷えてこほる心か
          (『日本歌人』2000年6月号)

雪よりも、雨の方が冷たく身にしみる。心がこほるほどに。この歌には青春の若さのようなものがある。哲学を生むのはいつでもその若さだ。


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内山節さんに特別講義をしてもらった

2008/09/17 18:24
瀬谷こけし
九月十一日、東京のサテライトキャンパスで内山節さんに特別講義をしてもらった。「哲学」の授業だ。ものすごく楽しかった。
 授業をしてもらったのは午後の三、四時間目。はじめに『「里」という思想』をベースに講義をしてもらって、その後をディスカッションの時間にする。快く引き受けていただいた。

 その楽しさ、面白さは簡単には説明できない。わたし自身もっと勉強しないとそもそも説明することもできない。しかしともあれこの楽しさは参加したものだけが共有できた楽しさだ。
 わたし自身二つ質問をさせていただいた。そして『「里」という思想』にごくわずかに感じる疑問をぶつけさせてもらった。昔は、家のしつけで「そんな卑しいことをしてはいけません」という言い方をすることがあった。そこに含まれている問題についてだ。その一番の要点は「卑しい/卑しくない」で示される価値評価の差異を導入することは必要ないのか、という疑問だ。その上に、差異あるものとして「家」を維持してゆく文化的・教育的システムの存続の可否の問題も含まれている。
 この質問に対して、内山さんは、「賤」という概念、および「家」という概念のこ国における成立の歴史を語ることによって答えてくれた。

 わたしはその後しばらくこの問題から離れられなかった。答えらしきものが浮かんでくるまで三、四日かかった。「里」の共同体においては、「卑しい」という差異化する概念は不必要なのかもしれない。それが答えだ。もっともわたしはこの答えに完全に納得しているわけではない。
 そしてまた、たとえそのような共同体が存在するとしても、そこでもやはり「よた(与太)」というような概念は欠かせないのではないだろうか。「よた」とはどうしようもない人間のことだ。こうしてまた別の疑問が浮かんでくる。

 ともあれこれらの問いと答えを今度は自分で探求してゆかなければならない。




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淵沢小十郎のモデル松橋和三郎をめぐる高橋健二氏からの聞書き

2008/09/12 01:20
20060924高橋健二画像

 写真: 高橋健二さん(右)と 2006年9月24日、雫石町歴史民族博物館にて 渡辺洋一氏撮影

瀬谷こけし
淵沢小十郎のモデル松橋和三郎をめぐる高橋健二氏からの聞書き
(宮沢賢治学会イーハトーブセンター『宮沢賢治AnualVol.17』 2007年3月発行)


     ◆ はじめに

 宮沢賢治の作品『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎のモデルが誰か、という問題がこの何年かの間追究されて来た。研究の結論は、猟師小十郎のモデルは賢治がそれを執筆した昭和二年当時豊沢に住んでいた猟師松橋和三郎である、というところに落ち着いている。わたしもその説に特に異論があるわけではないのだが、この度、一説にその和三郎から猟を学んだことがあると言われた、雫石町在住の高橋健二氏(明治四十五年生)にお会いし、話をうかがうことができたので、そのお聞きした話を紹介したい。
 しかしまずはじめに、小十郎のモデルについての研究史を、私が現在認識している範囲で簡単に紹介しておきたい。

     ◆ 淵沢小十郎のモデルの研究史

 『なめとこ山の熊』の猟師淵沢小十郎のモデルの研究史において、まずはじめに上げるべきものは牛崎敏也氏の研究である。

1) 牛崎氏は論文「『なめとこ山』の原風景---童話『なめとこ山の熊』の周辺---」(1990)において、和三郎を小十郎のモデルに擬する高橋亀三郎の説を紹介しつつ、当時花巻西山には松橋和三郎(父子)の他にはマタギと呼べる者がいなかったと説いている(1)。これが現在まで私が認識している限りで、もっとも早い松橋和三郎モデル説である。ちなみに高橋亀三郎氏は、その説を牛崎氏に語ったのであり、特に何かに書き残しているということではないようである。

2) 牛崎氏はまた「小十郎の行方---童話『なめとこ山の熊』の周辺」(1992)において、松橋和三郎の孫の松橋勝美氏からの聞書きによって「明治三十九年以降、豊沢地区で熊捕りをしていたのは松橋氏の家族以外なかったから、小十郎のモデルが松橋和三郎氏であることは、まちがいないといってよいだろう」と明確に語っている(2)。和三郎の孫の勝美氏からの直接の聞書きであり、その当時の豊沢のでの生活や熊狩りについての豊富な具体的説明によって、小十郎のモデル=和三郎説はこの論文で確立されたと言ってよいであろう。

3) 田口洋美氏は「列島開拓と狩猟のあゆみ」(2000)において、「松橋和三郎というマタギは、作家宮沢賢治とも親交があり童話『なめとこ山の熊』の主人公淵沢小十郎のモデルとなったと思しき人物である」(強調は引用者)と記している。残念ながら論文中にその論の根拠は示されていない(3)。

4) さらに田口洋美氏は「阿仁マタギの世界---秋田県北秋田郡阿仁町---」(2001,3)の中で、「現在雫石町在住の高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である。彼の話によれば当時花巻で暮らした賢治の周辺には和三郎以外にマタギと呼べるプロの猟師は存在していない。現時点では状況証拠でしかないが、この松橋和三郎が『なめとこ山の熊』の主人公淵沢小十郎のモデルになったと考えられるのである」(強調は引用者)と述べている(4)。

5) さらに佐藤孝氏の『宮澤賢治に誘われて』(2001,6,1)も、松橋勝美氏からの聞書きに基づいて、「氏の祖父和三郎さんこそが、地元で『淵沢小十郎』のモデルと言われている秋田阿仁マタギの流れをくむ人物で、明治三十九年に阿仁から豊沢村に移住して、生涯二百頭も捕り、昭和五年に七十九歳で没している」と、和三郎の生没年も明らかにして報告している(5)。

6) さらにこれらの後に拙論「なめとこ山の熊の胆」(2007,1)を置きたいのだが、煩瑣を避けてここでは内容紹介を控えたい(6)。

     ◆ 僥倖、高橋健二氏健在

 ところで、以上のような研究史の中で、わたしは最近まで田口氏の説しか知らなかった。だが二〇〇六年八月、ある僥倖によって松橋和三郎、勝治父子の生没年を知ることができたのである。松橋和三郎1852-1930、勝治1893-1968である。そうすると上記の4)で言われているように、高橋健二氏が松橋和三郎から猟を学んだとすると、仮に健二氏十五歳の時七十歳の和三郎から学んだとしても、高橋健二氏は一九〇七年の生れだということになる。とすれば、二〇〇六年当時、もはや達者にしておられるものかどうかかなりあやうい所であると思われたのである。ご達者であるかどうかぜひとも早く確かめたい、そしてできれば松橋和三郎さんの話を聞きたい、と気持ちは大いに急いていたのである。幸い九月二十二日以降、津軽での仕事の帰り雫石に寄ることができたのであった。そして雫石ではこれまた大変な僥倖に恵まれ、渡辺洋一氏にお会いすることができたのである。この渡辺洋一氏こそ、雫石町歴史民俗資料館の専門指導員として、本人からの聞き取りを通じて、高橋健二氏のライフヒストリーを纏めようとされていたのである。高橋健二さんも、九十四歳のご高齢とはいえ、まだまだ達者であるということであった。
 この出会いに、わたしは個人の力を越えた大きな力の祝福を感じずにはいられなかった。そして一日空けた九月二十四日朝九時から、歴史民俗資料館において、渡辺氏とともに高橋健二さんから話を聞く機会を持つことができたのである。ちなみに、渡辺洋一氏の父上文雄氏は、県の猟友会の常勤職を長く勤めてこられた方であった。高橋健二氏とも親交が厚い。
以下、当日の聞き取りから、松橋和三郎に関わるところを録音から起こして紹介する。この聞き取りの録音は渡辺洋一氏と私とが独立に取っているが、今回は私が録音したものによって起こしている。

     ◆ 高橋健二さんからの聞き取り

 わたしははじめの高橋健二氏と松橋和三郎との関わりについてたずねた。だがお聞きした話は驚きばかりだった。聞き取りはまずこう始まる。

中路正恒:「『マタギ』という田口洋美さんの本の高橋さんから聞いた話として、豊沢ダムで水没したあそこに松橋和三郎さんという方がいた、と書いてあるんです。それで高橋さんご自身と松橋さんとの関わりをお聞きしたかったんですけど?」
高橋健二:「あのね、わたし会ったことねえんですよ。」
中路:「あったことないんですか!」
高橋:「ええ。」

これは大きな驚きだった。「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠とし、猟を学んだ人である」という前掲の田口洋美説と全く違っている。それは更に具体的に確認されてゆく。

渡辺洋一:「会ったことねえということは話をしたことがないという意味?」
高橋:「話したことはない。」
渡辺:「ただその家の前は……。」
高橋:「そこは住んだということは分かった。そこの前通ったからね。うん。」
中路:「前を通ったことはあるわけですか。」
高橋:「うん。」
渡辺:「何回も?」
高橋:「あーん、二三回あるんだろな。」
渡辺:「一回だけではねーてことだな。」
高橋:「あそこの川があるところ、今はダムになっているけんど、あの川に鴨を獲りに行った。」
中路:「高橋さんが鴨を獲りに行った時に和三郎さんの家の前を通ったと。」
高橋:「ああ通った。」
中路:「家の前を通ったことはあるけどお顔を見た事はないんですか?」
高橋:「ない」
中路:「ああそうなんですか。」
渡辺:(ため息をつくように)「ああそうか。ああそうか。」
中路:「なら一緒の写真とかももちろん無いわけですよね。」
高橋:「はん。」
中路:「ああそうか。なら和三郎さんの息子さんで、勝治さんの方、松橋勝治さんという方がやっぱりそこに住んでいたと思うんですけど、勝治さんの方もお会いしたことがないんですか。」
高橋:「ないね。」
中路:「というと、いわば豊沢の狩をする人と、この雫石の狩をする人と、あんまり……。」
高橋:「交流はなかった。」
中路:「ああそうですか。なら雫石の人はむしろ沢内の方とは関係があったとか?」
高橋:「沢内とは幾らか関係があった。幾らかですよ。」
中路:「ああ、そうですか。なら松橋さんのことは名前で聞いていた、有名な熊とりさんやったやろうし、名前は聞いていたということですか?」
高橋:「雫石町南畑、電話番号は695−20**。ここにね、あのー、秋田から来て、泊ってはいた。そこから今度は豊沢ダムの方か移ったんだね。ここはね、高橋今朝吉という人だ。このひとに60ぐらいまでは狩猟やってたな。熊だったら百頭以上獲った。」
中路:「なかなか大変な人ですね。」
高橋:「その息子はハンターやってたけどもなくなった。今孫が家にいる。田茂木野という部落なんですよ。」
(写真で今朝吉さんを確認する)

中路:「宮沢賢治さんのことをいろいろ調べていたんです、わたし自身、それで、宮沢賢治さんの『なめとこやまの熊』という話があって、その中に熊狩りをする猟師が出てくるんですね。そのモデルが和三郎じゃないかということを田口さんは言ってるんですけど。」
高橋:「さーてなー。和三郎さんの方がずっと新しいんじゃないかな。」
中路:「宮沢賢治より? そんなことはないんですよ。和三郎さんの方が四十歳ぐらい上なんですよ。宮沢賢治より。」
高橋:「はは。」
中路:「逆に年が離れすぎてるんじゃないかなと思ったりするんです。」

中路:「宮沢賢治は『すがめのごりごりした赫黒いおやじで胴は小さな臼ぐらいあった』と言ってて、太ってたんやろうね。仙太郎マタギさんの写真を見るとこんな雰囲気だったんだろうかなという気がしたんやけど。」
高橋:「これは仙太郎だ。いや、これよりは優しいような格好だな。」
渡辺:「和三郎さんの実際は見ないけども、うわさとか?」
高橋:「うわさとか、家の前にいたの。さっと、こう、見たことはある。」

渡辺:「それ何歳ごろ? 健ちゃんが何歳ごろ? というのはね、健ちゃんが二十歳前後のころと、和三郎さんが死ぬあたりとがあぶないのさ。ぎりぎりなの。」
高橋:「うーん。昭和十二年あたりかな。」
中路:「昭和の五年に和三郎さん亡くなってるんですよ。」
高橋:「ほーーー。」
中路:「もしかしたらその息子の勝治さんなら明治の二十六年生れなんですよ。」
高橋:「そういえばその人みたいだな。」
中路:「見たの勝治さんの方かもしれないですね。」
高橋:「息子の方なのかもな」
中路:「年齢だと健二さんより二十歳ぐらい上なんです。」
高橋:「息子だな。」
渡辺:「息子さん。その一緒に来た子という意味での息子。そうなると犬はどうなるの?」

渡辺:「その松橋さんのとこだということは確実なの? 家は。」
高橋:「確実だ。家は。」

高橋:「その、松橋という犬はこういう格好の犬で、ここの(目の上を指す)茶色の、何ていうんだかな。二つ、対であったけね。あまり大きな犬でなかった。」
中路:「その犬は覚えているわけですね。」
高橋:「うん。」
中路:「この辺は黒かったんですか?」
高橋:「背中はしろくて。ここらも黒くて、ここだけ茶色で。四つ目といっててな。」
渡辺:「四つ目ね。仲間ではそういうわけだ。」
高橋:「柴犬よりはちょっと大きいか。」

 この松橋家の犬についての高橋さんの記憶はきわめて正確なものだということが、その翌日に判明する。というのも、豊沢から花巻に移ったひとりである高橋美雄さんが、その松橋勝治さんの犬のことをよく覚えており、同じ様を語ってくれたからである。さらにまたその犬の子孫が現在も生きており、それもまた四つ目の柴より少し大きいぐらいの犬なのだと言うのである。後日その犬の写真も撮って来たいと思う。
 この後聞き取りはこの地方の狩猟をめぐって更に続き、『なめとこ山の熊』の背景をよく照らしてくれるのだが、それらについてはまた別の機会に公表することにしたい。
 結局、田口洋美さんの言う「高橋健二氏は松橋和三郎を師匠として猟を学んだ人である」という主張は、何を根拠に言われているのか? 私には理解できない。和三郎と賢治との親交の話も、根拠があるのなら示してもらいたいところである。
 地元の人からの誠実な聞書きによって、宮沢賢治が懐いていたものはさらにはっきりと見えて来るのである。

 注
(1) 牛崎敏也、「『なめとこ山』の原風景---童話『なめとこ山の熊』の周辺---」、『北の文学』第二十号、一九九〇(平成二)年五月二十日、岩手日報社、一〇九頁。
(2) 牛崎敏也「小十郎の行方---童話『なめとこ山の熊』の周辺」、『北の文学』第二十四号、一九九二(平成四)年五月八日、岩手日報社、三一、三十二頁。
(3) 田口洋美「列島開拓と狩猟のあゆみ」『東北学』Vol.3、2000年10月25日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、九十四頁
(4) 田口洋美「阿仁マタギの世界---秋田県北秋田郡阿仁町---」、『東北の風土に関する総合的研究 平成十二年度報告書』平成十三年三月三十一日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、六十二頁。
(5) 佐藤孝『宮澤賢治に誘われて』、平成十三年六月一日、自家出版、十三頁。
(6) 中路正恒「なめとこ山の熊の胆」、『季刊東北学』第十号2007年1月15日、東北芸術工科大学 東北文化研究センター、二〇五〜二〇九頁


補足: 宮沢賢治学会イーハトーブセンター『宮沢賢治AnualVol.17』 2007年3月発行に発表したものを再録します。聞取りをした時の高橋健二さんの写真を付加えました。しっかりしたご様子が分かることと思います。ご自宅から聞取り場所の雫石歴史民俗資料館までご自分で車を運転してこやって来られました。
 本文内容の変更はないと思っていますが、字句の若干の修正はあったかもしれません。ご関心のある方は雑誌の方と対照して下さい。
 わたしはこの原稿を書いた時点では松橋菊蔵さんのことを知りませんでしたが、教えて下さる方があり、和三郎の次女の婿養子として豊沢に住んでいたことがわかっています。高橋健二さんが「和三郎の家の前を通った時に見かけた」と言っているのはもしかしたら勝治さんではなく、菊蔵さんかもしれません。
 民俗学を研究する人も不誠実なことをしてはいけません。そのことを言いたくて本稿をブログにも発表することにしました。

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悼 前登志夫 一首

2008/09/04 13:51
瀬谷こけし

わが肩にその手を置きて去(い)にしひとその大人も逝去(さり)たまひたり



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津軽には高神となる少女あり 短歌

2008/09/04 13:21
瀬谷こけし

短歌一首:

津軽には高神となる少女あり奈良美智の少女のごとく

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嶽キミは甘い

2008/09/02 16:47
瀬谷こけし
 最後の最後、青森駅に入る直前に「嶽(だけ)キミ」を買った。駅前に出ていた店でだ。嶽キミは甘い。これを今回の青森・津軽旅行の最後の土産にするためだ。
 今年は県立郷土館と県立美術館を見学するために、はじめに青森に行った。美術館でいまやっている岩井康頼(いわいやすのり)展を見るためだ。
 考えてみると郷土館も見学したことがなかった。そして去年開設された美術館も、行っていなかった。美術館では「青森犬」もぜひとも見たかったのだが。

 8月28日昼前に青森駅前に着いた時にも嶽キミの出店を見つけ、どこかで昼ご飯に食べようと思って一本買ったのだった。そしてはじめに郷土館へ行った。はじめて訪れた郷土館だが、その陳列にはとても感動した。話は縄文時代の生活から始まる。三内丸山中心ではないのが嬉しい。ここにあると聞いていた亀ヶ岡出土の「遮光器土偶」はあいにくレプリカだったが、生活道具についての説明がこまやかで、当時の生活の必然をよく説明してくれていて、よかった。この配慮がいいのだ。わたしの知識から欠けていた平安期以降の歴史も少し埋めることができた。
 また、その「歴史」の説明の最後にあたる時期の弘前第八師団の配置地図も有り難かった。秩父宮雍仁親王のいた第31連隊の位置もわかった。雍仁親王はおそらく皇族としてはじめて岩木山に登拝した方だ。その意味はきちんと考え抜かなければならない。こうしてこの郷土館の陳列を見ていると、このようにしか有り得なかった青森・津軽の運命のようなものが見えて来るのだ。「民俗」の展示のさまざまな豊かさ。そこにはこうでしか有り得なかった人々の運命が刻まれているのだ。青森・津軽の文化をひとわたり知るためにはこの郷土館が最善の施設だと思う。

 県立美術館の方は、常設の巨大なシャガールの展示でも、奈良美智でも、寺山修治でも、棟方志功でも、やや食い足りない印象があったのだが(それぞれもっとスペースと、精選された作品の展示がほしい)、志功の「鷹」の画をみて「ああ、いいな」という余韻をもって岩井康頼のコーナーに入るといっぺんに目が覚める。緊密な絵だ。その構成の緊密さ。オレンジ色の画面にコスタリカのコーヒー袋のようなものが二ヶ所に貼付けてある。これは漂着物というわけではないのだろうか。
 岩井さんの作品の特徴はまさに現代の作品になっているということだ。シャガールからも、棟方志功からも、はっきりと時代は進んでしまっている。この緊密さ、そしてこの時代への着地なしには、作品は思い出になってしまうだろう。その立体作品では、漂着した木材の配置の中に、どこかを白塗りされた一体の彫像が置かれる。この「白」は、どこか「鼻白」ともつながる。鼻に縦一筋に塗る胡粉の白は、この時ひとがひとでなくなっていることのしるしだ。この白は辻の地蔵に施される白の化粧ともつながる。見事な着地であり、土(大地)からの飛行でもある。

 8月31日に授業が終わり、わたしは弘前でレンタカーを借りて恐山に向かった。その夜の恐山のことはまた語ることがあるだろう。9月1日朝にもう一度恐山に行った。中門手前右手の地蔵尊の表情にとても感動した。この地蔵尊については前夜もとても感銘を受けていたのだが、前夜は恐ろしくてとても撮影はできなかったのだ。この日は日中でもあり、とりあえずは撮影ができた。そしてそれからここにあるすべての地蔵尊の顔の写真を撮ろうと思った。今度もう一度来て、それをしようとおもっている。
 恐山では心が安らぐような経験はできなかった。それで、安らぎがほしく、酸ヶ湯に行くことにした。酸ヶ湯温泉はいつものように素晴らしい。酸に荒びた木材の肌がことのほか素晴らしい。
 それから城ヶ倉大橋に寄った。学生の見学地ということを考えると、青森という場所の自然の雄大さを味わうには絶好の場所だ。今年はまだ紅葉には早く、やや時期が合わなかったのだが。

 そしてそれからの青森への帰り道。その光差すブナ林の素晴らしさ。

 この道はわたしにとってもっとも幸せを与えてくれる道だ。この道を教えてくれたのは長野隆だった。その時に感動した道だった。岩井(康頼)さんと、そして沖縄出身の学生ひとりと、四人で通った道だ。長野は十和田湖を、そして奥入瀬を案内してくれた。そしてそのあと、この道を通った。ブナ林の美しさをわたしはこの時初めて知った。長野はそのときテープで五輪真弓の「時の流れに 鳥になれ」をかけていた。絶好のマッチングだった。この上もないBG音楽。そのときの長野の精神の苦闘もよく分かる気がした。

 昨日のこの時、わたしは、前日買った中島みゆきの「ララバイSINGER」をかけて走っていた。それはきっと長野隆への挽歌になっただろう。そこのブナ林に車を止めて、ビデオを撮っていた。撮り終えたときには涙がこぼれていた。これで長野にさよならがいえる。そう感じた。

  「歌ってもらえるあてがなければ 人は自ら歌びとになる」
  「ララバイ ララバイ 眠れ心 ララバイ ララバイ すぐ明日になる」  (YCCW-10030)

 中島みゆきのこの歌は、歌うことの本質を衝いている。わたしが長野と共有していた問題でもある。さようなら、長野。またここへ来れば思い出すだろう。このブナの林と、あの日々のことを。

 「嶽キミ」は甘い。「嶽」は岩木山山麓の地名で、トウモロコシの産地だ。「キミ」とは「トウキビ」のこと。岩手・青森地方ではトウモロコシのことを「キミ」とか「キビ」とか呼ぶ。
 その甘い嶽キビを、わたしは特急つがるが動き出すとともに食べはじめた。



ララバイSINGER
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2006-11-22
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宮沢賢治と常在不滅の我

2008/08/26 22:33
瀬谷こけし
「如来寿量品」において、我(われ)は秘密を語る。


今からする語りを信ぜよ(如来の誠諦の語を信解すべきし)と語り、
そこに集まった者たちに、それを説いて下さい、われらはそれを信じます(唯願はくば之を説きたまへ。我等當に、佛の語を信受したてまつるべし)と請われて、
その秘密は語られる。

その秘密をひとことで言えば、
我は、常在にして不滅だ(我成佛してより已来、……常在にして滅せず)、ということだ。

宮沢賢治はこの言葉を心の中心に持っている。それはつまり、
この「我は常在なり」と語る者に対して、常に語りかけ、対話をし、問答をしているということである。

賢治はこの如来の誠諦を信受しているのである。
この点を見失うと賢治の思想の真意は理解できないだろう。

何度目か島地大等の訓読を読んで、今日ははじめてその思想の緊密に驚嘆した。グレン・グールドの最も孤独な解釈に聞き入るように。賢治の体験もこのようなものだっただろう。
最も感動的だったところは、ここだ。
>我(われ)成佛してより已来(このかた)……、是より来(このかた)我常に此の娑婆世界に在りて、説法教化す。
この一句だ。

そういう我(われ)が在る。
これが秘密だ。秘密の中の秘密だ。



*島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』は下の『天台宗聖典』に収められています。
島地訓の『法華経』は稀代の名訳だと思います。
きわめて緊密な思考のリズムがあり、流れがあり、整合性があり、喜びがあります。
宮沢賢治を知るためにも必読です。


天台宗聖典 (1927年)
明治書院

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哀悼詩: Deleuze/ドゥルーズ

2008/08/21 23:31
瀬谷こけし
わたしが師と仰ぐジル・ドゥルーズ。その逝去の報を聞いたときに作った詩を紹介します。
ホームページの方では以前から公開していたのですが、最近ではこのブログの方が見に来てくれる方が多いので、こちらでも公開することにしました。
初出は『京都造形芸術大学紀要』[GENESIS]第2号です。
新聞でドゥルーズ逝去の報に接した時、わたしは肺炎に罹っていて、自宅で療養していました。それで紀要の論文を仕上げることができず、代りにこの詩ですませてもらったという経緯があります。
 ドゥルーズ夫人ファニーさんにもお届けしました。それについてはまた後日ブログで触れる予定です。
===============

Deleuze
by Masatsune Nakaji


Paris sans toi,
si douloureuse,
que je ne peux pas rester deux jours.
Hölderlin disait:
Wo nehme ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen. *
Le monde semblait entrer dans l'hiver permanent,
avec la funeste mort de toi.
Où puis-je trouver des fleurs?
Nulle part ! ......
(le 25 nov. 1995)


ドゥルーズ

あなたのいないパリは
辛くて、
居られない。
ヘルダーリンは言っていた、
「冬ならば、どこに花を求めよう」 と。
あなたが死んで、
世界中が冬に入ってしまったようだ。
一体どこに花を探せるのだろう、
どこにもない。・・・・・・・
(1995.11.14)
* Hölderlin: Hälfte des Lebens

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短歌一首 夏神楽

2008/08/16 11:20
瀬谷こけし

夏神楽終りぬ國の日のめぐり茶山街道のまっすぐな道

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短歌一首 広沢池 ジェフリーとアキコ

2008/08/12 09:01
瀬谷こけし

広沢池はジェフリー・ウィッカムの婚礼の場所息をつづめて通り過ぐべし
                 (『日本歌人』2008年8月号)
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ドゥルーズの手紙

2008/08/02 15:30
瀬谷こけし
むかしドゥルーズにもらった手紙を紹介しておこう。

Deleuze



文面をタイプしておけば以下である。

======
Gilles Deleuze 10/12/88


cher monsieur,
je suis très heureux de vos bonnes nouvelles,
et j'ai lu avec grand intérêt votre exellent
texte sur Toby Dammit. Hélas je ne pourrai
pas vous aider, dans votre projet de travail
où vous me faites beaucoup d'honneur,
parce que je ne fais plus le cours, étant à
la retraite et rarement à Paris. Je n'ai
plus guère de contact avec l'Université, et
ne vois pas pour le moment à qui je
pourrais vous recommander. J'en suis navré,
et si j'ai une idée, je vous la proposerai
immediatement. Croyez à mes remerciements
et à mes sentiments les plus sincères,

        ******.  

(******のところは署名)
======

 有り難い手紙である。「あなたのよい知らせ(vos bonnes nouvelles)」とはわたしが郡山女子大学に就職したということである。お送りしたわたしの小論 "Toby Dammit in Histoires extraordinaires" をほめてくれたことも嬉しかった。留学の可能性を尋ねたのだが、パリ大学はもう退職したということだった。推薦できる誰かを思いつけば提案してくれるということだったが。だが好い案は浮かばなかったのだろう、その後提案はなかった。そしてわたしは留学を考えることなく日本で仕事を進めることにした。


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神の定義2

2008/08/02 14:29
瀬谷こけし
先にわたしの「神の定義」の試みを示した。フランス語で。まずそれを日本語にして示しておこう。

神とは、わたしが、内面的に感知されるものである距離のパトスを肯定することの可能性の名前である。
  ---中路正恒---

ちなみにフランス語の方は以下である。
Dieu est le nom de la possibilité pour moi d'affirmer le pathos de la distanz qui est sensible à l'intérieur.
--- Masatsune Nakaji ---

 このように定義される神であれば、それをニーチェが否定することはありえない。逆である。全力を挙げて肯定するであろう。距離パトスの肯定以外に、永遠回帰の思想が教えることはないのだから。

 デリダが『死を与える』の中で提示している神の定義との対比は後に行なう。まずとりあえずは本ブログの「ニーチェ対デリダ」を参照していただきたい。

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はじめて「民俗学」の授業をした: 晴れ晴れと (民俗学講義1)

2008/07/28 00:46
瀬谷こけし
今年、2008年の前期、はじめて「民俗学」の授業を受け持った。わたし自身民俗学に近いところで仕事をしているが、しかし自分の仕事を民俗学と呼んだことはない。あくまで宗教哲学者として仕事をしており、その仕事の今の狙いを示す時には「地域学」という名称を使うことがある。だからいつも民俗学とは少し距離を取っている。
 ともあれ今年は「民俗学」の授業をした。そして、最終回七月二十二日の授業を除けばまずまず面白い授業ができたと思う。といってもわたしに常用している民俗学の定義があるわけではない。授業ではその定義から探してゆかなけれならなかった。

 わたしは授業を柳田国男の「雪国の春」からはじめた。この論文にはつつけば面白いところがたくさんある。遊動と定住の問題、広域近畿地方と東北地方の問題、中央と地方の問題、暦と季節感の問題、同胞と同胞ならぬものの問題等、いろいろな問題を引き出すことが出来る。民俗学の定義ないしは狙いは何かという問題もこの論文から引き出すことが許されるだろう。この大正七年五月の論文公刊の時点での柳田の考えを読み取ろうとするのである。そこでわたしが見出したのは第二節の中ごろで言われているこの文言である。「だから我々だけは子供らしいと笑われてもよい。あんな傾向からはわざと離反しようとするのである。そうして歴史家たちに疎んぜられている歴史を捜して、もう少し楽々とした地方地方の文芸の、成長する余地を見つけたいと思うのであ」。この「歴史家たちに疎んぜられている歴史」こそ、「民俗学」と呼ばれるべきものと言えるだろう。歴史学の一種ではあるが、中央の政治経済史に収斂されるような歴史とはことなり、また研究方法として文献のみを信奉する文献史学ともことなる歴史、それは方法としては伝承者からの聞書きを基礎とし、そこから聞取られる伝承されている民間の生活の歴史を内容とするような学問だ。「雪国の春」から民俗学の輪郭をさぐりだせば、おおおよそそのような輪郭の学問が出てくるであろう。

 しかしわたしはここで既に二つの問題点を指摘しておきたい。ひとつは「いかなる血筋の人類でも、こういう好い土地に来て悦んで永く留まらぬ者はあるまい」(第二節)という主張である。柳田はここで瀬戸内海を囲む平地を念頭に置いているのであるが、こういう断定は、山間の地を狩猟採集のための好適地と考える(縄文系の)人々の存在を切り捨てていることになるだろう。
 そして第二は、第一のことを密接に結びつくが、「閇伊や男鹿島の荒蝦夷の住んだ国にも、入れ代わって我々の神を敬する同胞が、早い昔から邑里を構え満天の風雪を物の数ともせず、伊勢の暦が春を告ぐるごとに、出でて古式を繰り返して歳の神に仕えていた名残である」(第六節)という東北観である。前に別のところでも言ったが、この「入れ代わって」とは何なのだ。そこの、先住民はどうなったのか。殺されたのか、移住させられたのか、さらに北に追いやられたのか。柳田はこのいずれとも答えようとしない。切り捨てて顧みようとしないのである。先住民の問題である。柳田は「民俗学」の対象を「我々の神を敬する同胞」の民俗学に限ろうと、あらかじめ決めてしまっているのである。

 この問題に対して、われわれはみなひとりひとり遺伝子の底の底まで孤独であること、そしてまたみながみなその血に何の正当性ももたない混血者であること、このことをわれわれは民俗についての学問の根底に置いておかねばならないと、わたしは言っておきたい。このような前提条件を課すことによって、民俗学は、晴れ晴れと、「常民の民俗学」を脱することができるだろう。

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今使っている包丁を砥いだ

2008/07/27 22:08
瀬谷こけし
承前
 早速いま使っている包丁を砥いだ。以前に砥いで、今でもよく切れるのだが、それをもう少し寝かして、角度を浅くして砥いだ。500番、1000番、3000番でやった。500番がなかなか砥げない。カエリが出てこないのだ。砥げる手応えのあまりないまま、かなりの時間砥ぎ続けていた。とりわけ二ヶ所でなかなかカエリが出なかった。使い方のクセのせいで刃が真直ぐでなく、その手元側が砥ぎにくかった。それともう一ヶ所は刃元から四センチぐらいのところ。そこがなぜ砥げないのかよく分からなかったが。
 ともあれ裏表とも刃の全体にカエリが出せた。一応500番の中砥で仕上げをしておく。次に1000番にゆくのだが、これは楽にできた。3000番も同じだ。1000番で仕上げをして3000番にゆく。そして3000番で仕上げをしてこれでよしとした。新聞紙で試し切り。申し分なくよく切れる。

 片付けをして、キャベツを切る。キャベツが吸いつくような感じで切れた。よく切れるとはこういうことなのだ。以前の感覚はもう少しスパッと切れるという感覚だった。確かに手応えが変わった。
 ついさっきまでは知らなかったことだ。包丁が切れるとはどういうことなのか、菜切り包丁が切れるとはどういうことなのか、それ以前に比べれば少しは分かるようになった。これも有次に教えてもらったことだ。


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七月二十七日 有次に行った

2008/07/27 18:30
瀬谷こけし
 有次に行った。用事は二つ。ひとつは菜切り包丁に柄をつけてもらうこと。この前研ぎの講習を受けた時に言われていたことだが、柄のところが錆びているので取り替える必要があった。そう言われた包丁はむかし伊勢の二見が浦で買った菊一文字のもの。もって行ったそれは、柄を割ってもらったのだが、やっぱり根まで錆びていた。
 もう一本持って行ったのは、以前鎌倉で買った第二十四代正宗綱廣の菜切り包丁。これも柄を錆びさせて使えなくなっていたものだ。どちらかを直すのならむしろこちらを直して貰いたくてもって行ったのだが、菊一文字の方は供養に回すかと、言われると、お願いするとは言えなかった。有次では毎年秋にお坊さんを呼んで「包丁供養」を行なっているのだという。有り難いことだ。お世話になってきた包丁、普通に棄てられるものではないから。
 結局二本とも直してもらうことにした。一本五千円弱。出せない額ではない。ただ伊勢で買った菊一文字はそもそもが五千円もしなかったと思う。けれどお世話になってきた道具だ。鋼はまだあるので、まだも一回は使いたい。だがこうして直しな惜ししていると、有次のものを買う機会がない。それが残念なことだ。

 もう一つの用事は、ある方へのお礼にペテイィナイフをお送りること。お礼と共に「一緒に運を切り開いてゆきたい」という思いをこめて。以前橋本繁蔵さんにお送りしたのとまったく同じだ。同じもの、同じこと。「気持ちよ、伝われ」、と思う。




 それともうひとつ。お名前を失念してしまったが、先日の研ぎの講習の先生もみえていた。正宗綱廣の包丁を見てくれた。先日講習で習って、わたしが自分で砥いだものだということでだ。「刃が立ちすぎている。もっと寝かせればもっとよく切れるようになる」と評してくれた。
 そうなのだ。切出しを砥いだ時にも感じたことだが、わたしにはまだもっと寝かせて砥ぐことが技術的に難しいのだ。
 それができるようになるまでまだどれだけ掛かるかわからない。
 ひと目見ただけでそれを指摘してくれた。
 今日これから包丁一本、わたしはやりはじめるだろう。*


* やってしまいました。続きを。
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鶴見和子歌集 『回生』

2008/07/24 20:11
瀬谷こけし
 ある方から鶴見和子の歌集『回生』(藤原書店)を送っていただいた。入院して歌を作りはじめたということは新聞などで紹介されていて知っていたが、実際に目にしたことはなかった。
 手にとって読んでみると、素晴らしい。その一端を紹介してみよう。こんな歌たちだ。

一、我もまた動物となりてたからかに唸りを発す これのみが自由

二、水、水、といいてウランの火に灼かれしヒバクシャの惨苦あらせてはならぬ カタストロフィ カタストロフィ

三、楡若葉そよぐを見れば大いなる生命(いのち)のリズム我もさゆらぐ

四、猿も鹿も猪も棲むとう七沢に片手片足(へんしゅへんそく)の我 山姥(やまうば)となれり

五、玄関の扉(とびら)開けば山々を渡り来(こ)し風はそこに待ちてあり

六、フル・スピードもて燕(つばめ)自在に飛び交えど衝突せぬを不思議と思う

七、花道を杖もて歩む静(しずか)われ 昔を今になすよしもがな

八、おおらかに死を語りあう友のありてかがよい熄(や)まず我が老いの日々

 こうして八首を上げてみると、この歌集の特質の幾つかは見えてくる気がする。第一首にあげた「我もまた」の歌は、ベッドに拘束される入院という状態の中でも自分に思いっきり自由にできることを発見するのである。それが「唸る」こと。ただこの自由を得るためにはみずから人間の枠を壊し、動物への変身を果たさなければならない。作者はそれを断然やってしまうのである。その素晴らしさ。その肯定的な、生ることへの明確な姿勢に瞠目させられる。
 「水、水」の歌も入院中のみずからの渇きをもとに発想されている。ヒバクするとはこうして渇くことなのだ。「ヒバクシャ」を片仮名で記す修辞は、一瞬思考を中絶させ、読者を「ウランの火に灼かれた」ひとびとの現実の苦しみに直面させてくれるものだ。「被爆者」といってしまったら、あの広島、長崎の被爆者のことね、とあっさりと出来合いの概念だけでことを捉えてしまうだろう。それではあのたまらない「渇き」に、直面しがたくなってしまうはずだ。必ずみずからの身体感覚を出発点にして、そこから物事を考えてゆくこと、この姿勢がすばらしい。ニーチェ的な方法だ。

 三首目の「楡若葉そよぐを見れば」の歌には直観音楽的なものがある。あとがきで言われる「経験と歴史とをへて到達した「実存」ともいうべき新しい境地」とは、まさにこの一首の中に言われていることだ.。宇宙のリズムを感じ、そして呼応する、そういう営みだ。この世界がどれだけ豊かなものであるか、ご存命であればお伝えしたいことだ。
 山姥宣言の歌は、痛快なものだ。みずからを山姥と名乗って恥じないひとは極々まれだ。半身不随の異形になって、作者ははじめてその地位を手に入れた。山姥になるとは、悲惨と栄光を同時にわがものにすることなのだ。

 五首目の「山々を渡り来し風」の歌はこの上なく爽やかな歌だ。五月に時々感じることのできるその風は、山々の緑を渡って遠くからやってくる風で、日本の季節の味わいの最良のものの一つのはずだ。この風を、わが師、山中智恵子も歌っていた。「風とほくわたらふ五月」と(『虚空日月』)。この歌集のこの歌で、わたしははじめて山中智恵子の歌った五月の風が再び捉えられたと感じた。
 六首目の、フル・スピードもて自在に飛び交う燕の歌に関しては、わたしは多少の疑問を感じるところがある。これもまた五月であろう。この国に渡り来て、巣場所を見つけ、そして全力で飛び交う燕たち。それもまた五月のめざましいできごとであるが、それを彼ら燕たちはペアリングの行動としておこなっているのだ。激しさも当然である。全力、全速力も当然である。伴侶を得た喜びもそのフル・スピード飛行にはある。この歌で物足りなく思うのは、そのペアリングの必死と歓喜を作者が見落としているところだ。わたしはまた燕の歓喜も感じ取りたいと思う。

 七首目の「静」の歌はまことに巧みに詠まれた歌である。左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を踊ったことがあるという。静御前の思いと我が思いを重ねてうたう歌は、どこかに(詩歌管弦の)遊びの愉しみを隠していて優雅である。
 わたしが先に引いた最後の八首目の歌である。「かがよい熄まず我が老いの日々」。こういう姿勢をもってみずからの老いを祝福する姿には感動するほかはない。われらはみなこうありたい。われもまたこうありたいと思う。

 最後にもう一首だけ付け加えておこう。多分目立たない歌である。

ほとほとと病室の扉(と)を叩く音 三日つづきて直輔昇天を知る

 この「ほとほと」は折口(信夫)が説くまれびとの来訪を告げる音だろう。こんなところに、こっそりと、さりげなく、作者のしっかりとした民俗的感性をみることができる。作者はたぐいまれな稟質をもった方なのだと知られる。

   ◇   ◇

 こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。



歌集 回生
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鶴見 和子

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『なめとこ山の熊』:最後のシーンの小十郎と熊たち (発表要旨 400字)

2008/07/24 13:14
瀬谷こけし
今日、ある研究会の研究発表申込をした。その発表要旨を早速公開してしまおう。以下である。



作品『なめとこ山の熊』の、熊たちが雪にひれふする中、その「いちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれていた」というシーンを解釈する。この小十郎の形は熊たちのしわざと考えられる。熊たちから崇敬される尊像の形である。なぜこの形か? 小十郎が「同じ山に生きる仲間」として認知されていたという解釈では不十分である。また、熊に因果を聞かせて引導を渡し、出離の機縁を与えているからと考える「諏訪の勘文」*風の解釈も、小十郎が自らの死の直前に「熊ども、ゆるせよ」と思っていることを見れば不十分である。小十郎は自らの記憶の空間で、熊たちの最も輝かしい姿に、死後も存在を与える者だったのではないだろうか。小十郎が「ゆるせよ」と思うのも、自身の死後は熊のこの存在も失われるからである。小十郎のこの特別な能こそ熊たちが彼を特別に崇敬する理由ではないか。また、無量寿の如来と小十郎の違いもここから読み取れる。


どうだろうか。
ご意見をいただければ幸いです。

=====
*「諏訪の勘文」:
「業尽有情。雖放不生。故宿人天。同証仏果」などの言葉で表される、殺生、食肉を正当化する教え。 この「有情」」には一般に植物は含まれていないとみなされる。

(2008.9.22 一字訂正。注を付加)



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「超人」の教えは「大いなる軽蔑」を含む (ツァラ・ゼミ13)

2008/07/23 09:29
瀬谷こけし
京都造形芸術大学(通学部)の「総合演習・ツァラトゥストラを読む」の授業が昨日で終わった。演習で学生たちと議論を交わしていると、どんな風な語りをすれば話が通じやすくなるか、問題が共有されるようになるかということが少しずつわかってきて、わたしにとってもおおいに勉強になる。もちろん、『ツァラトゥストラはこう言った』の中でニーチェが何を言っているか、何を語っているかを読み解く授業であるから、「語りかた」といっても、テキストを離れた議論ではない。テキストのここのところをきちんとアクセントをつけて読めば理解できるようになる、というポイントを示してやるだけだ。そして若干別の概念で照らしてみる、という試みをすることだ。昨日は「序説4」を検討していた。

 「序説4」は人間を、「動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱」として示し、人間に「偉大さ」があるとすれば、それは人間が「橋」であって、「自己目的」ではないところであり、また人間に「愛されるべきところ」があるとすれば、それは人間が「移りゆき」であり、「没落」であるところなのだと語る。この語りから見て、われわれはこの「序説4」においても、「序説2」の「わたしは人間を愛するのです」という、その後すぐにツァラトゥストラ自身によって修正されることになる言明が問題にされ、ここにおいても一貫してその言明の明確化がめざされていることを理解する。人間は、その「移りゆき」において、より明確には「没落」において、愛されるのである。「没落」は端的には自己破壊の歩みである。だがこの自己破壊は、前節「序説3」で言われた「大いなる軽蔑(の時)」と密接に結びつく。「人間(あなたがた)が体験できる最大のもの」として説かれる「大きなる軽蔑(の時)」とは、ひとがみずからの「幸福」「理性」「徳」の、さらには「正義」「同情」「罪」のなどのけちくささに吐き気をもよおす時のことであり、そういう自己否定ないしは自己嫌悪の時のことである。この自己否定が徹底される時、ひとは橋を渡り、そしておのれの没落を欲するのである。

 このような連関のなかで、ツァラトゥストラは自分の愛する人間の像を示してゆく。それは端的に言えば、人間の上にかかる暗雲の中から、個別にひとつぶひとつぶ落ちてくる重たい雨滴のような人々、ということである。そのようなひとびとは、稲妻が来る、ということを知らせてくれる。そしてその知らせをもたらす者として、告知者(Verkündiger)として、破滅する(zu Grunde gehn)のである。ちなみにツァラトゥストラ自身がみずからをこの稲妻の告知者であると語り、そして超人とはこの稲妻にほかならない、と語るのである。いわば、この雨滴の自己破滅によってその到来が予示される者、雨滴自身にとっては、その自己破滅のただ中において感得され、みずからの破滅がそれとのつながりの中にあるとして了解される者、そういう存在である。彼(=雨滴)にとっては超人は知られる者であり、自分の破滅にも意味を与える「大地の意味」として知られるものであるが、いまだ実在する(existieren)ものではない。超人の実在は稲妻という形を取るであろう。

 ところでこの「序説4」では、「わたしが愛するのは……である」"Ich liebe…" という言い回しが18回なされている。注意されるべきは、この言い回しが三とおりに分類されるだろうということである。それを@〜Qとしておくと、それは以下の通りである。
1.「わたしが愛するのは……の者たちである」"Ich liebe Die, welche …(die …)" という言い回し(@AB)。この言い回しでは愛される対象は「者たち」と複数になっており、この言い回しでは愛される「理由」が、その根拠が、上位の概念として示されているのである(@:没落する他の生き方を知らない者たち、「向こうへ行く者たち」"die Hinübergehenden"。A:「大いに軽蔑する者たち」" die grossen Verachtenden"。彼らは「大いに尊敬する者たち」"die grossen Verehrenden"でもあり、向こう岸へ飛んでゆく「憧れの矢」"Pfeile der Sehnsucht" でもある。B:大地がいつか超人的なものになるようにと、大地に身を捧げる("die sich der Erde opfern, dass die Erde einst des Übermenschen werde")者たち)。
2.「わたしが愛するのは……の者である」"Ich leibe Den, welcher …(dessen…, der …)"と単数で示される言い回し(C〜P)。ここでは愛される者が個別の形で、つまり個別の概念として示されているのである。この言い回しでは、その者が愛される理由として上位の概念への示唆がなされている(C〜Pがそれぞれ@ABのどれに強く関わるかご自分で検討していただければ幸いである)。
3.「わたしが愛するのは……のような人々すべてである」"ich liebe alle Die, welche …" という言い回し(Q)。ここではすべてを総括した「愛される理由」が語られるのである。その理由こそ、上述した「超人の到来を告知する重たい雨滴のような者たちだ」ということである。

 以上の説明で、「序説4」の論理構造が多少は読みやすくなったのではないだろうか。「ニーチェの超人論」がより正しく理解されるようになれば幸いである。





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