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「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ

プロフィール

ブログ名
「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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Twitterと Facebookをはじめました。
http://twitter.com/mnnakajist
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji
これらは私からのメッセージです。わたしからのメッセージにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
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私の「なりすまし」にご注意下さい。そのサイトは以下です。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/tad77/ (「h」省略)
ttp://ameblo.jp/designjimusho/ (「h」省略)。

間違ってメールなどを出さないようにご注意ください。
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《ニーチェが死んだ》

2016/08/24 10:06
瀬谷こけし


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 8月23日、ワイマールのニーチェ・アルヒーフに行った。あまり色々なものはないところだという印象だった。ニーチェの死後の出来事にわたしはあまり興味がない。
 展示室に『ニーチェ・クロニーク』という本が置いてあった。最近の研究者ならだれでもが座右に置いている本ではないかと思うが、わたしは持っていない。見せてもらってその死に近い日々を読んでいた。館のおばさんに「今日8月23日はニーチェが最後の処方箋を書いてもらった日ですね?」と尋ねた。「Rezept」の語を繰り返さないと通じなかった。すると、「ニーチェはこの上で亡くなった」とおばさんは上を指しながら教えてくれた。1900年8月25日の午前11時から12時の間に死んだことはクロニークを読んでわかっていた。しかし場所が何処かは、知らなかったし、わからなかった。まさにこの上の部屋だという。途端にこの建物がそれだけで重たい意義を持った建物と感じられるようになった。もうそれだけでいい。そういう場所が残っているだけで。
 そんな目で館の周りをもう一度まわった。あの、窓にツタの絡まるあの部屋だろう。
 1882年の8月25日にニーチェはこんな手紙をルー・ザロメの部屋に差し入れていた。
>Zu Bett. Heftigster
>Anfall. Ich verachte
>das Leben.
> FN.
 こんな重要なテキストを軽々しく翻訳する気はしない。だが、ニーチェがきわめて激しい発作に襲われていたこと、そして床に就いていたことはわかる。しかし次の言葉を、例えば「僕はこの生を軽蔑する」(眞田収一郎訳)などと軽々に訳してしまうわけにはゆかない。むしろ「わたしは生を尊重しない」と訳した方がまだよいのではないだろうか。
 その翌日ルーがタウテンブルクを去るのが初めから決まっていた日程なのかどうかをわたしは知らない。だがほんとは激しい怒りに燃えてルーが突然タウテンブルクを去ったのではないかと思う。ここでの日々で、「生」はルーを、あるいはルー自身の究極の立場を意味していたのだ。「あなたは生を十分に尊重していないわ」というようなやり取りが『ツアラトゥストラ』の「第二の舞踏の歌」の中にある。このクリティカルな、エッジの先端にあるような出来事がニーチェの差し入れたこの手紙だった。『ツアラトゥストラ』ではその次に来るのが真夜中の鐘の歌だ。
 翌26日、発作から回復したニーチェは、差し入れた手紙のお詫びをするとともに、12時にルーをドルンブルクまで送って行った。ルーはタウテンブルクを去った。この26日の、タウテンブルクを去る時にルーが紙に書き付けてニーチェに渡した詩が「生への讃歌」だった。これについては私のブログを参照してほしい。ニーチェはこのルーの生の思想を何度も噛み締めることになるだろう。
 そしてその激しい発作の18年後、ちょうど同じ日に、ニーチェは死去する。この日付がわたしには偶然とは思えない。8月はニーチェにとっては激しすぎる月なのだ。
 すでにワイマールを去り、またタウテンブルクも去って、ライプチヒでわたしはこの8月25日を迎える。非常に重たいものをどこかで感じながら。


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《Herz-Jesu Kirche》

2016/08/23 07:41
瀬谷こけし


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 ワイマールのある教会、ニーチェ・アルヒーフに向かう途中たまたま入ったのだが、とても驚いた。教会名は「Herz-Jesu Kirche」、訳せば「イエスの心教会」というところか。この「Jusu」は「Jesus」の属格とみてよいのだろう。入るとオルガンの演奏が聞こえてきた。中央ぐらいまで入って聴いていた。ところがそれがなかなかのもの。一部録音をしていたので聴いてもらえるようにしたいが、バッハとかではなく、重たい不安感など、オリビエ・メシアンの音楽語法も消化した曲で、おそらくこの奏者の独自の作曲作品ではないかと思う。また即興の作品が多いように思う。上昇的な無限旋律をつづけ、極限に達して歌い出したり、あるいは振り出しに戻すように、低音の重奏音だけをつづけ、そこで休止したり、あるいはそこから新しい旋律で演奏を始めたり、弾きながら、音楽でイエスの心を探り続けているようだった。きっとこの旋律ではイエスの心を語る解決にはならないと思ったときに中断して低音重奏で打ち落としてしまっているのだ。オルガン演奏のこんな感動を経験したことがない。奏者の心は音を聴いてそのまま分かり、それがまさにイエスの心を探ることで、言ってみれば神の心を探る試みを全身で実行しているのだ。そんな演奏を初めて聴いた。


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《ワイマール、チューリンゲンの野》

2016/08/22 06:45

瀬谷こけし


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 宿は旧市街から少し離れた新興住宅街の中だが、電子レンジをはじめいろいろな施設が整っている。そこで今日はまず近くに開いているスーパーマーケットがないか探しに行った。バス通り沿いにかなり探したが、スーパーそのものがみつからないまま、あきらめて旧市街に行くことにした。バスの本数も少ないので、歩いてゆくことにした。何といっても宿の窓から見えるチューリンゲンの野が魅力的なので、そこを歩いて経験したかった。ここでも歩く道、自転車の道が危険がないように作られているので、自転車で休日を楽しむ人が少なくなかった。土日は閉店にする店が多いことは、歩いていれば実際に納得できる。いわゆる郊外型の大型店舗が軒並み閉店しているのだ。最初に発見した開いている店は「ローザ」とう名のパン屋兼喫茶店をやっている店だ。ここまですでに20分以上は歩いていた。喉が渇いていたので、店に入って、持ち帰り用にセサミパンを二つもらって、あとコーヒーをもらって一休みした。

 そこからは10分ほど歩いたところで次の店、マックカフェが開いていた。そこからは中央駅ももう近い。線路の下を通って一二分で駅前に出た。

 あとはもう旧市街の中心に向かって歩くだけだが、今日はワイマールのどこかで映画「ルー・ザロメ」を上映しているところがないかを第一に探していたので、まずは駅構内のスパー(コンビニ)で、暇にしているおねえさんに尋ねた。映画館はあるが、中心部のその先の左手の方なので、まずはそのへんできいてくれということだった。「ルー・ザロメ」やっているかはもちろん知らない。それほどホットな話題になっていないことは確かだ。イエナでは多分ちょっと事情が違うだろう。町は国立劇場前を中心に文化祭的な夏祭りをやっていたが、人々にその夏祭りを紹介する仕事をしている人に聞いても、「ルーザロメ」という映画の存在も知らず(スマホで調べてくれていたが)、夏祭りではもちろんやっていない。ワイマールでの全然話題にならないようだ。ゲーテ作品の新演出などを中心に打ち出しているようであったが。ワイマールはわたしには年老いた町という印象だった。



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《タウテンブルクへの旅が終わった》

2016/08/21 04:23
瀬谷こけし

 朝10時57分の電車でドルンブルクの駅を発ったところで私のタウテンブルクへの旅は終わった。1882年といえば134年前ということになるが、その年の8月26日にルー・ザロメもまたドルンブルクの駅を去り、その翌日にはニーチェもここを発った。彼らにとっては、この先にまだつながっている共同研究の企画があった。それを台無しにしたのは嫉妬に駆られて手が付けられなくなったパウル・レーだった。そのころのレーの手紙は、幼稚で、どうしようもない。ああいう手紙を見れば、ルーの心もレーから決定的に離れるだろう。利用価値はなくはないにしても。それらのことについてはいずれ書いてもいい。大して値打ちのあることではないが。

 今回の旅ではっきりわかったことは、オルタ湖畔のモンテサクロの山への細道と、タウテンブルクの城山への細道が、彼ら、ニーチェとルーの中で、はっきりつながったことだ。道の片側の三、四センチの平石を重ねて作った擁壁の印象や、上り道を上がりやすくする道の工夫、そして片側に広がる草地など、印象は重なる。それだからこそニーチェはこのとき、
>monte sacro, --- den entzückendsten Traum meines Lebebs danke ich Ihnen.
という言葉を漏らしたのだ(ルーからレーへの8月14日の手紙日記)。

 ルーは手紙日記の中で、レーに、自分がニーチェにどれほど心惹かれ、また同時にどのように求めることが異なっているか、全力で分析し、それをレーに伝えるべく書き留めている。このルー・ザロメの誠実さはまことに感嘆すべきものだと思う。だがどのように見てもレーは小物過ぎた。わたしにはそれ以外の言葉が浮かばない。もっとも本質的な戦いをしなければならないところで曖昧な既得権のようなものに縋りつくだけの男に、本質的な魅力はないだろう。

 ともあれ、彼ら(ニーチェとルー)にとっては実に楽しく、また実に厳しい20日間だっただろう。それがタウテンブルクの日々だった。

 わたしには4泊5日のタウテンブルクだったが、ニーチェが泊まっていた農家の家(今ニーチェ・ハウスと呼ばれているところ)とルーとエリザベトとが泊まっていた牧師館が、どんな道をたどってどのくらいで行き来できるものかということがはっきりわかったこと、そしてたくさんの森と森の道に囲まれたどんな楽しい散歩ができるか、どれほど自然が、光や風や緑やらが楽しめるかということ、それがわかったことでもう十分だった。山城の近くのベンチで、また牧草地の上に置かれたニーチェ・ベンチと呼ばれるベンチで、彼らのものを読みながら何度かうつらうつらしてしまったこと、それほどに快適さに満ちたタウテンブルクの村に、四日余りの日を過ごせたことは、なんという幸せだっただろう。この快適さは、ニーチェにも、ルーにも、残したことになっただろう。わたしにはしかし、ルーはこのとき、もう一歩深い成長の機会に向かわなかったように思う。そこにあった機会。この村の美化協会が立てている牧師館の説明記事の中に、ニーチェは時々夜中に濃いコーヒーを牧師の奥さんに注文して、ルーとの検討会に至誠を以て応じようとしたのに対して、ルーはちょっとアルコールをひっかけていた、と書いていたものがあった。ルー・ザロメについての新しいドイツの映画が今イエナで上映されているとトムから聞いた。すぐにワイマールでも上映されるだろうと言っていた。だが、ルーはタウテンベルクを次につなげなかったことで、もう終わっていたと思う。実際ベルリンで研究仲間に加わってみれば、レーが小物で、その存在にほとんど魅力がないことはすぐにわかったことだろう。アンドレアスに惹かれるところも実際あっただろう。だが何だというのだろう。彼女はもうニーチェのそばに輝くことはなかった。そののちリルケを見出したとしても、彼はルーとの関わりの中で、自分も自立しようと、ニーチェと必死で戦っていたのは『時祷集』を読めばほとんど明らかだろう。だが彼らの歴史は彼らの歴史でいい。ともあれタウテンブルクの旅は終わった。今はワイマールの町を見下ろすシェーネブルクという村のなかの宿にいる。こうして眼下にいっぱいに広がる野や畑を見ているとドイッチュ・ラントという言葉がなぜか浮かんでくる。それは何を意味する言葉なのだろう。ただ、ここの土地と関わり、ここの土地を耕して生活を組み立ててきた人々のこれらの土地への愛情のようなもの何となく伝わってくる。そして何の詩かは忘れたが、ヘルダーリンはドイッチュ・ラントという言葉を何度か使う。彼はドイッチュ・ラントの詩人たらんとした。それだからこそ聞きたいのだが、ドイッチュ・ラントとはいったい何なのだろう。何だったのだろう。

 ほとほとに疲れて、もう町や、近くの店にものを買いに行く気力もなく、二三日前に、宿で昼食用にともらったパンをひとつ齧って夕食としよう。その宿は「ガストハウス<ツア・タウテンブルク>」(Gasthaus “Zur Tautenburg“)という名前だ。素晴らしい日々を過ごさせてもらった。


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《城山の風》

2016/08/20 06:44
瀬谷こけし


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(写真の中央に見える建物の位置に1882年8月14日にニーチェとルーが入ったレストランがあった; シャウマン教授のご教示)


 今日は思いがけないことが二つあった。その二つの思いがけないことの前に、今日も城山に出かけて、屋根付きベンチで、昨夜の思い付きを確かめるべくニーチェの『ツァラトゥストラ』の中の「第二の舞踏の歌」を読み(ドイツ語で)そしてその後、昨日(ニーチェハウスの(奥斜め)向かいの家の人に)紹介してもらって買った『Tautenburg bei Jena』という本のニーチェに関するところを拾い読みしていた。著者はGerhard Schaumann(ゲルハルト・シャウマン)。そんなことをしていると、さすがにタウテンブルクのこの城山でも気温が暑くなってきた。どうしようと思っていると、南の下の方から風が吹いてきた。息の長い風で、暖かい地表の温度を運んでくるので、体温より高い感じで、これはたまらないと思っていたが、そのうち熱い地表の温度が吹き飛ばされて、冷やされて、だんだん涼しい快適な風になって来るのだった。30秒以上、いや1分以上続いていた。休むことなく、息継ぎをすることなく。こんな息の長い風は初めて体験した。こんなことがあるのかと驚いた。この風がいわば序章になった。

 城山で調べていたのは「第二の舞踏の歌」のことだが、これはまさにルーとのやり取りを、ルーへの返事として書いているものだ。「生」と呼ばれているフィギュアは、ルー・ザロメに他ならない。それば読みさえすれば誰でも気づくことだ。だが誰も気づいていない秘密がひとつ隠れている。これはドイツ語で意地悪く読まないと気が付かないはずだ。そして「第二の舞踏の歌」の有名な真夜中の鐘の歌だが、これは1882年にはタウテンブルクの教会がまだ復興しておらず、石のベースだけしかできていない時期なので、教会の鐘がそれでも鳴らされていたのか、これはたぶん誰も知らない。わたしは、教会の鐘は村人に時刻を決定し知らせる大事なものなので、小さな鐘掛け施設を作っても必ず鳴らしていただろうと思っているが、一致した見解があるのかどうか知らない。私が昨夜聞いた鐘だと、かなりペースが速く、鐘と鐘の間に言葉を入れるのは相当のテクニックが要ると思っている。日本式のごーーーんと鳴る鐘とは違うのだ。

 ともあれ早めに山から下りて、宿に戻った。実はこのあと散歩をしようと思って、そうなると山道を通る可能性もあるので、虫よけの薬を体に吹き付けておこうと思ったからだった。薬を部屋に置き忘れていた。それで宿に戻ると、宿の大女将さんがいて、今日この村出身で、ニーチェについて詳しいシャウマン教授という方が私と会ってニーチェ関係の要所を案内をしたいと言っているとのことだった。シャウマン教授という名前に覚えはなかったが、そういうことならぜひお会いしたいと大女将に告げ、18時にお会いすることにした。そして18時にお会いするならその前にシャワーをしたり着替えたりしておきたいので5時には戻ることにすると大女将に告げて、散歩に出た。

 まだ行ってない方向にということで、ドルンドルフに向かう方向に舗装路を歩いて行った。養魚場の400メートルほど先に行った右側にトウモロコシ畑の広がるあたりで、私を追い越していって、しかしそれからバックしてくる車があった。窓を開けるので挨拶すると、昨日いろいろ話して教えてくれたニーチェハウスの向かいの親父さんだった。これからドルンドルフ経由でイエナまで行くので、よかったら乗ってゆかないかとう話だ。しかし彼もシャウマン教授と会う予定になるかもしれないという話は知っていて、散歩ならドルンドルフで下すから、そこから森の道を越えて歩いてタウテンブルクに戻ったらどうだ、と提案してくれた。1時間ぐらいの道だそうだ。1分間時間をくれと言って、危険はないのか、道を間違ったり、怪我したりする危険は、と尋ねたが、一本道だし大丈夫だ、ということだった。それで乗せてもらうことにした。途中ドルンブルクの話になった(「ドルフ」は村、「ブルク」は山城の意味)。あのロココの城は行ったぞ、というと、とても誇らしそうに、あの第一の城にはゲーテも来たことがあるのだという話になった。そして明日は結婚50周年の記念日だという話もしてくれた。親父さんは、一本道の入り口まで連れて行ってくれた。途中足湯ならぬ足冷水浴をする場所があって、3人連れの女性が入っていたので、入っていいかと尋ねて入れてもらった。入るまで冷水か温水かわからなかったが、入って小石の上を歩いてゆくとまもなくたまらないほど冷たくなってくる。井戸なのだ。そして腕を冷やす大き目の皿のようなところがあって、そこにポンプで汲んで流してゆくのだ。わたしもいくらかそのポンプを扱がしてもらった。「チュース」をして別れて、そこからさらに上りになってくる。そうやって、しばらく登り続け、やがて峠に掛かり平坦になって、森の道になってゆく。途中一カ所「イラクサの小道」というべき30センチ幅の道が100メートルほど続くが、これまでのイラクサの勉強で、皮膚で直接触ることなく、袋などで広げながら無事通過した。3、5キロメートルの道で、途中多少疲れることもあったが、たいした問題もなくタウテンブルクにたどり着いた。そしてニーチェハウスの向かいの家に寄って、お名前を聞いてきた。明日の記念日のために、ささやかなプレゼントをしたいと思ったからだ。それは明日の朝届けに行くことになるだろう。

 それから、5時をちょっと過ぎたが宿に戻った。すると知った顔があった。ナウムブルクで知り合ったトムさんだ。もし暇なら来るかなと思っていたので意外ということはなかったが、どんどんと知り合いが広がってゆく。彼はでライターで、イエナの雑誌で記事を書いているようだ。そのうち、シャワー浴びる暇もないままに教授がやってきた。あの冒頭に紹介した本の著者のシャウマン教授だった。お会いできてうれしいとご挨拶をして、ニーチェのベンチについての論文をいただき、すぐにいろいろ案内したいということなので、すぐに付いて城山の方に向かった。この辺りは森や灌木だったのでニーチェが歩いたはずはない、とか、歴史的なことを的確に教えてくれる。牧師館の場所は私が考えていた場所と同じだった。そして城山ではシュトゥットガルト市長だった人の寄贈したベンチを教えてくれた。それから城のこと、城の歴史のことを教えてくれた。城主はいわゆる30年戦争で亡くなったことなども。私は先生に「この城闇に登る道をニーチェとルーが散歩しているとき、二人で登ったオルタ湖畔のモンテサクロのことを思い出していたのだろう。道にはどこか似ていることろがあるから」という私の印象と考えを話した。教授も同意してくれた。文章で言われていることだけでなく、実際に土地に即して、ものごとを考えられる人なのだとわかってとても安心し、共感が増えた。教会の鐘のことにしても、私の見解をまずは受け入れてくれる。タウテンブルクでも真夜中に12回鐘が打たれるということも(しかしこの夜は窓を密閉していたせいか、打たれなかったのか、12時の鐘の音は聞こえなかった)。穏やか性格で、しかも学問的な正確性を重んじ、そして芯にはしっかりした厳しさもある。どこか盛岡の岡澤敏男先生を思い出した。二時間も一緒に散歩をしながら語り合っていた。暖かな時間だった。




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《鹿の夢》

2016/08/17 18:17
瀬谷こけし

 鹿の夢をすっかり食べてしまった。8月15日のこと。この日は朝、仕事をしていて、出るのが遅くなって、遅いい朝食を「シュテルネンベック」というパン屋で軽くすませた。この「星焼き」といった名前のパン屋はナウムブルクでは何軒かあるらしく、広場の角と通りの角と、二軒は見つけた。入ったのは通りの角の方の店。そこで食事のパンを選んでいるとき、ちょっと気になるものがあって、名前は「Hirshentraum」。「鹿の夢」というような意味のクーヘンだった。少し大きいのでどうだろうか、と思ったが、店を出るときに買った。今日の散歩先のザーレ川の河畔で昼食にしようと考えたのだ。甘そうなので大丈夫かという心配もあった。また、スプーンのようなものがなくて食べれるのか、ということも問題だった。店の人に尋ねると「シュタイネのことか? シュタイネなしでも食べれる。みんなそうしてるよ」という答えだった。「シュタイネ」とは何だ? それが問題で、わからずじまいだった。まさか石ではないだろうし、大きなスプーンの一種かと思ったが、深くは考えないですませた。
 フリードリッヒ・ニーチェ・シュトラーセをまっすぐに北に上がって、道は途中イェーガーシュトラーセと交差して、おそらく社会主義時代の集合住宅にニーチェの名がフルネームで使われていることに驚き、また示唆されながら、ともかく気持ちよくザーレ川まで歩いて行った。突き当りに舟の渡しがあって、その向こうにはレストランや船着き場があったが、そちらへは渡る気にならなかった。そこでその手前のベンチで昼食を取ることにした。例の「ヒルシェントラウム」(鹿の夢)。端の方から折り割って、少しずつ食べた。それほど甘くはなかったが、鹿なら夢の中でも食べたいほどの美味しいお菓子だろう。結局すべてを平らげた。「Ich habe Hirschentraum ganz gegessen!」(私は鹿の夢をすっかり平らげた;鹿の夢は無冠詞で使いたい)そう言いたい心境だった。
 そこから東回りで帰路に就くが、途中鹿が角でめちゃめちゃに荒らして楽しんだ跡とみえるような木があった。ああ、これがほんとの鹿の夢なのか、と思った。つわものどものごとく、牡鹿どもの夢のあと。その鹿どももすっかり食べられてしまったか?
 トロイメライ(いたずらな夢にひたること)という言葉が浮かぶ。


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《ドルンブルクのロココ》

2016/08/17 15:06
瀬谷こけし


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 快楽の放埓極まりないロココ。ロココ文化とはそういうものではないだろうか。朝、何とかなると思ってナウムブルクを早めに出てしまったので、11時前にはもうドルンブルク駅に着いていた。予想はしていたが、駅前に休んだり食事をしたりできる店は一軒もない。開いていた店は籠を売っている店。タウテンブルクの宿の主と、午後の3時40分過ぎに駅まで迎えに来てもらう約束にしていたので、優に4時間は時間がある。事情を説明したら籠屋のおじさんがドランクを預かってくれた。そこで山の上に見えている教会や城を見に行くことにした。さずがに100メートル近い高さのある山にトランクを持って上がることはできない。
 20kg弱身軽になって登ったが、さすがに地元にひとはだれも歩いては登らないようだ。上に着いてわかったが、上まで行く道路があり、観光用の駐車場があり、そしてそもそも山に上にひとつの町ができていたのだ。有史以前に遡る集落のあった町だという。
 その中にロココの城と呼ばれるものがある。ロココの精神とはいったい何だ、という疑問から、建物の内部も見せてもらうことにした。そしてみみたのがこの部屋。淡いピンクと青と白のこの色の調和。マイセンの陶器の美しさも高度に生かしている。それと椅子からも見て取れるシンプルでゴージャスな形。この部屋一つでロココの精神が何かがわかる気がした。それが冒頭に書いたこと。もう少し加えれば、サチュロス劇。この館の主人はきっとみずからサチュロスを以て任じていたことだろう。あるいはさらに酒神バッカスそのものとすら。放埓極まりない。


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 このロココの城の前には山の立体を生かし段差をもってしつらえられた二つの庭園がある。いわば通路にもなっている回遊式庭園風のものと、石と植木で作られた人工的な幾何学的庭園。その幾何学的庭園の一方の端の一番高いところに飾られている石像が、あまり美しい像ではないが、おそらくこの館の主のイメージにあるバッカス像なのだろう。
 そして制作時代が同じではないかもしれないが、その対極には美しいく思慮の深い女性の酒神像がある。これは母セメレーなのか。それともバッケーなのか。


 
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《ニーチェ》

2016/08/17 07:17
瀬谷こけし


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 ナウムブルクに行ったのは、ニーチェが少年時代を過ごした場所を、そしていわゆる精神錯乱後に母親に心づくしのいたわりを受けながら過ごした場所を見て、そして感じておきたかったからだ。大都会ではなく、あの巨大なドームがあり、かつまたヒルデブラントのオルガンのあるヴェンツェル教会のある特別な環境のまさにその中で成長した人間として見ておきたかったし、またいわゆる狂気におちいったあとのほんとの姿はどんなものだったかを、考えるきっかけがほしかったからだ。幸い、「ニーチェの家」に行って、良質な解説とともに良質な写真を見ることができ、そこからさらに私の見方を、写真のフレーミングを鋭くすることによって、示せたように思う。1890年以降のニーチェは、狂人と言うよりも、私には賢人に見える。内面の激しい葛藤や争いがあるわけではなく、ただきわめて深い思想の伝え方がなくて、自分と自分の思想との対話だけで日が過ぎてゆくほかない、そういう日々を送っているまま老いてゆくほかに人生の送り方がないということを感受している、そういう人物に見えるのだ。そんなふうに写真をさらに切り取り直したのだが、それを感じてもらえないだろうか。そんな写真だ。
 そして今回はじめて気づいたことのひとつはこの上なく賢明な母親のぎりぎりの配慮がどのようなものだったかということだった。ニーチェは間違いなく神童だっただろう。そして母フランチェスカはそのことを十分に理解していた。




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《モテットとカンタータの会》

2016/08/14 13:38
瀬谷こけし


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 ライプチヒのトマス教会が毎週土曜日15時から提供してくれるモテットとカンタータの会に参加してきた。道に迷いながら行ったので、だいぶ前にそこを目指したのに、着いたのは約15分前。ちょうどいい時間だった。入場料は資料代の2ユーロのみ。
 初めにヘ長調のフーガ(BWV 542/2)のオルガン独奏。
 次がシュッツの第100番の聖歌(Psalm)。
 その次がブラームスの二つのモテット(op. 109)。
 その次がブクステフーデ「Nun lob, mein Seele, den Herren」(EG 289)。これは会衆とコーラスが交互に歌う。私も歌えるところはまねして歌った。
 次は女性主任司祭のブリッタ・タッディケンさんの指導による礼拝式に従った「祈り」。これは会衆全員が起立して唱える。その祈りの言葉はなかなか深くて、いずれきちんと意見をまとめておきたい。普段から参加している人々は起立して何も見ずに唱えているが、私は一言も覚えておらず、ところどころわかる単語を唱えるだけだった。このセレモニーにはとても好感を持った。
 最後がゼバスチャン・バッハのカンタータ137番。「時間、健康、愛は贈られたものだ」とい司祭は強調。この思想にも大いに関心を持つ。「時間」とは生命のことなのだ。
 終了後バッハ・ショップに行ってライプチヒのトマス教会についての本を一冊買った。もう一冊、30ユーロほどの詳細なライプチヒのトマス教会の本があって、ほんとはこちらを買っておきたかったが、旅の途中で重い本の購入は禁物なのであきらめた。もしかしたらアマゾンでも手に入るかもしれない。建築変遷史や意匠・様式の変遷史については、語るなら一応のことは押さえておきたい。
 その後にワーグナー通りに行き、ワーグナー広場にも行った。このバッハが神のごとき尊敬を受けるライプチヒの町だからこそ、ワグナーの作品が生まれたという面は確かにあるだろう(「ルターの結婚」等)。ワグナーもゲーテも、そしてシューマンも、ニーチエの大学の先輩にあたるのだ。このライプチヒ・コネクションには実際非常に深いものがあり、その反ベルリン的な志向とともに、ニーチェのテキストを読む場合に忘れてはならないものだということにここに来てはじめて気が付いた。またワイマールからの帰り道に、ライプチヒに三泊する予定だ。そのときはケーテ・コルヴィッツにも近づきたい。




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《花巻小友園》

2016/07/24 19:33
瀬谷こけし


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 この家、小友園という。今日は閉まっていたが、普段は骨董品を扱う店のようだ。この建物がちょっとバランスがおかしいと教えてくれたのは通信のある学生だった。それまでわたしは一度も気づいたことがなかったのだが。その学生ははじめてその前を通っただけでその異様なさまに気づいたようだ。大したものだ。そんな風にわたしはいろんな学生にいろんなことを教えてもらってきた。これもその一つだ。
 この二枚の写真について言えば、二階の窓の幅が、右半分と左半分とが異なっている。言われてみれば気づくことだと思うが。
 今日も理事会があって花巻に来ていたのだが、バス時間待ちの一時間ほどの時間で、今日はただ道だけ歩いていた。そうして確認して、写真を撮った。どうやらこの「小友」という家は、材木などを扱う名家のようだ。こうしたものを建てようとすれば、ずいぶんと余計な手間がかかるだろう。それをやってみせる。
 そんな風に、今日は「はなマき」(マの音を上げる)を歩いていた。昔はじめて花巻に来た時も、こうして何がどこにあるのかもわからず、そして特に賢治関係の場所を目指すのでもなく、町を歩いていた。こんな風な歩きを、きっと賢治はしていたのだろう。



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《稲とひまわり ---週刊文春のしょぼい記事》

2016/07/22 13:40
瀬谷こけし


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 ひまわりがいい感じで光を受けていた。もう夕方も近いころ。今日は午前中に自転車のパンクを直し、そしてもう3時を回ってからその自転車で床屋に行った。床屋は百万遍のビリケン。昔からの本店の方は閉じて、今はこの学生向けの方の店だけで営業している。次はこちらに来てくれと親爺さんに言われていたので、こちらに来た。こちらは駐車場がないので、自転車でないと行きにくい。暑さもまずまず。猛暑と言うわけではない。今日の話題は週刊文春に載った「鳥越事件」のこと。わたしは読んでなかったのでおおよその話しか知らない。帰りに大垣書店で買って、家に帰ってから読んでいた。仮名永井という男はどういう人物なのだろう? ほんとうに「Aさん」の「当時の恋人」なのだろうか? どうやらその辺があやしそうに思える(恋人ならなぜ止めなかった?)。この「仮名永井」氏は、なぜ事を公にしようとしたのか。今は妻であるという「Aさん」の名誉も、家庭の平安も、文春への情報提供に比べれば価値の乏しいことだからなのだろう。結果、鬱陶しいだけの(しょぼい)記事になってしまった。





===参考===
これらも追加しておきます。
http://togetter.com/li/1002634

http://matome.naver.jp/odai/2146907435871382101







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《ヴィスコンティの「仕事中」》

2016/07/20 14:17
瀬谷こけし

 『ボッカチオ'70』というオムニバス作品の中の一つだが、ロミー・シュナイダー主演の伯爵夫人が夫とのセックスを「セックスというお仕事」にする悲しみがテーマという上野千鶴子好みの作品。それはそれでいいのだが、シュナイダーのドイツ語とイタリア語の使い分けがとても面白い。夫の伯爵はドイツ語が分からないという設定になっている。逆に執事の一人とはドイツ語が通じる。
 だが夫の伯爵はフランス語はできるようだ。読んでいる小説がロブ=グリエの『消しゴム』(当時の最新のフランス小説)だというところがもう一つ面白いところだが、映画の内容と『消しゴム』の内容とが交差しないところが、いまいちと言えばいまいち。ロブ=グリエの小説こそ表面をなぞる視線の繰り返しの無限性という(バロック的な)恐ろしさを現代化したものに思えるが、その点から見ればヴィスコンティはまだ「人間的」な作家かもしれない。
(この記事は2016年7月15日にfacebookに掲載したものです)






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《カラヴァッジョ》

2016/07/18 01:47
瀬谷こけし


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 イタリア人アンジェロ・ロンゴーニ監督のこの『カラバッジョ』は、あのイギリス人の監督作品よりはるかに面白い。カラバッジョの時代の権力状況の追跡が相当行き届いているし(例えばジョルダーノ・ブルーノの処刑シーンを見つめるカラヴァッジョやマルタ騎士団のローマ社会における位置も適切であるように思う)、しかしそれ以上に、芸術家の生き方の本質をきちんと描いていると思う。それはニーチェ風に言えば一本の矢、あるいは一本の槍というようなことだ。彼の場合には光と物との関係の最もデリケートなところまで目で見て取れるということだ。それをとりわけ人間の肉体において。そこにはただ真実だけがある。聖俗まで含め人間社会による差別は存在していない。だから死んだラザロの肉体が磔刑に死んだキリストの肉体と何も異なることのないものとして表われ、聖母にもモデルがありうるし実際あるのだ。
 そして彼の生はまさに一本の矢であっただろう。地に落ちるまでまっすぐに飛んで行った。





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《水汲み》

2016/07/17 00:44
瀬谷こけし


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 一昨日(7月14日)水汲みに行った。ほんとは花背峠で水を汲んで、それから久しぶりに大見尾根を歩いてみようと思ったのだが、途中鞍馬にかかるころから雨が降り出した。せっかくの水汲みの水に降り出しの雨が混じるのはいやだったので、水汲みはもっと奥の芹生へ行くことにした。そして大見尾根歩きはあきらめた。水汲みはわたしにとって、コーヒーを淹れるための水として、そして米を研ぐときの最初の水として、蓄えがなくなる前に必ず行くことにしている。米はこうして研ぐと、水道水の場合に比べて確実に美味しく炊ける。
 それで花背峠を越えて、別所の村を過ぎて、灰屋から芹生の水汲み場に行った。今回はだれにも会わなかった。水温も冷たくとてもおいしい水が汲めた。雨はほぼ止んで霧がかかる程度。
 その後上黒田の無人販売で茄子と胡瓜を買って、花背峠から戻り、さらに少し寄り道をして大原の里の駅で万願寺と玉ねぎを買って家に戻った。このところあまり歩いていないので体が戻らない。だが雨の中を無理して歩くものでもない。そしてタウテンブルクの宿からの返事を待っていた。返事は今日届いた。やはりドルンブルクの駅からのタクシーは存在していないようだ。だが、到着時間だけはっきりと伝えておけば、車で迎えに来てくれるということだ。8月のドイツ旅行がやっと明るくなった。見通しが立ったのだ。明日ドルンブルク駅の到着時刻を調べて、知らせ、予約をしよう。




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《ワールドコーヒー》

2016/07/16 11:25
瀬谷こけし


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 昨日夕方近く、北白川のワールドコーヒーに行った。ここのブレンドコーヒーはとてもおいしい。とりわけ最初の一口が。それで、コーヒーを待っていると、室内に小さな音でかかっているピアノ音楽が耳に入ってきた。驚いて耳を澄ます。やはりスカルラッティのソナタ(多分K.380)。これには驚いた。いままでどこかの店舗でスカルラッティがかかっているのを聴いたためしがない。こんな有線の放送でもスカルラッティの精神の晴朗さはわかる。気持ちに透明感が湧いてくる。その一曲でとても満足して家に戻った。








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《旋律 ---ロベルト・シューマンに寄す---》

2016/07/11 21:38
瀬谷こけし


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(写真はオルタのモンテサクロ)


 ロベルト・シューマンのop.14、「オーケストラなしのコンチェルト」(ピアノソナタ第3番)の終楽章を聴いていて思うのだが、ある旋律の発見が解決になる、救済になる、という苦闘の経験を作曲家は持つことがあるのではないか? わたしたちはあまりにもメロディーに慣れ過ぎていて、そうした肝心かなめの旋律を見出さねばならない苦闘を忘れてしまっているのではないだろうか。その旋律だけがもたらすであろう解決。
 この終楽章は、そのような旋律の発見をテーマにして作った作品ではないだろうか。発見へのプロセス、そして発見される僥倖。この曲ではその旋律が展開されることなく、ひそかに姿を見せているそのさまで置かれているように見える。そしてこのような苦闘のうちに、シューマンの人生はあったように思う。---これは、「鬱(病)」というものの本来の形ではないだろうか?


 






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《Web百首10 福島・郡山》

2016/07/06 00:26
瀬谷こけし


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「福島・郡山」 十六首

○福島や南東の風そよふけば一瞬にして被曝地となる

○果物王国わが福島は桃も林檎も梨も葡萄も

○田畑(でんばた)と親しむ国よ耕して田圃を作る山の際まで

○黒服の者らが目立つ郡山新幹線に乗り込む人に

○駅前の通りで0,25とわが住む町の5倍のシーベルト

○たぐるのはむかしの記憶夕食に駅ビル二階に通うことありき

○池ノ台荒池あたり放射能いとど高かること五年前

○赴任してひと月ばかり池ノ台パークホテルを宿と暮らせり

○郡山女子大の学生はいまはどうして暮らすらむいななるバイトして暮らすらむ

○駅前に東北学院大の大看板仙台へ来いとひとらは誘ふ

○郡山逃げて捨つべき町なるやあが娘なら迷ふばかりか

○郡山ここも世界の空の下と光り輝く普遍の思想

○奥羽大に文学部なくなりぬらし文を捨つれば心もほろぶ

○女子大にまじめな学生多くして子らの子守を頼むことあり

○荒池に売りマンションの安きあり買ふかと迷ひしここを去るとき

○この町でわたしの教えた学生はおほよそ四十路後半ならむ




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《『短歌研究』勉強帖 2016年6月号》

2016/07/02 18:24
瀬谷こけし


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 6月号の勉強も遅くなってしまった。と言っても6月30日にはそれを終えていたのだが、書く時間が取れなかった。それでまた月をまたいでしまった。一つには6月号には書き物の方に惹かれるものがあって、それを読んでいたこともある。そのひとつは、ヴィスコンティと塚本邦雄作品とのかかわりを述べた五十嵐淳雄「塚本邦雄の映画手帳14」で、もう一つは「迎え読みの連鎖」というタイトルで、歌に記されている言葉からする読みの真剣勝負の場であるべき歌会において作者についての個人情報から読みを試みようとする邪道の蔓延を強く批判する上村典子の論だ。とりわけ後者の上村の主張に対しては共感するところが多かった。この名前を覚えておきたい。
6月号巻頭の「12ヶ月の歌」は島田幸典が米川千嘉子、高安国世、外塚喬の歌を論じたものだ。まずその三首を引く。

>人は帰心を速度にしたり水無月の闇ゆく最終「のぞみ」の帰心 (米川)
>梅雨の山見ゆるこの室心足りていそしみし日の幾日かある (高安)
>梅雨晴れのまぶしきひかり道をゆく人の表情をことごとく消す (外塚)

 島田の読みにはそれぞれ若干違和感を感じるところがあるが、米川の歌の読みでは、「雨雲が垂れこめる六月は闇の似合う月であり、夜ともなると暗さに深みさえ加わる。ぶ厚い闇のなかを、その日最後の新幹線〈のぞみ〉が窓から光を零しながら疾走している」とするこの読みだ。「六月は闇の似合う月」だというこの闇理解は何なのだろう。おそらく「五月闇」を太陽暦に合わせてこう表現したものだろうが、その闇のどこが「六月に似合い」、そしてその夜の暗さには「深みさえ加わる」のだろうか? その実感はいったいどんなところにあるのだろう。わたしは学生のころ夜に神社に行く経験が少なくなかったが、実際6月の夜の神社は魔的なものの凝集、近づきを感じることが少なくなく、それは、非常に恐ろしいものだった。霧に紛れたようにわが心身に迫ってくるこの魔的なものの他に、6月の闇を深くするものがあるのだろうか。米川の歌の「闇」にも、新幹線の車窓の暗闇を深くする特別な何かがあるとは感じられない。身にもしくは心に感じる個別の闇を語らずに「水無月の闇」と歌っても、島田の説くような外界の闇以上のものは示せない。
 高安はわたしが歌会でその謦咳に接していた先生であるが、その上掲の歌を読解するポイントは「心足りて」の「て」であろう。「心足りていそしみし日の幾日ありたる」とは、島田が説く「心足らう瞬間はごく稀にしか訪れなかったとの、学究の苦い実感である」との読みとは、微妙ではあるが若干異なっているだろう。つまり高安が詠もうとしたのは、「心足らう瞬間」ではなく、「十分に研究に打ち込めた日々」のことだ。つまり問題は、心足りるほどの研究にいそしめた日々の少なさ、乏しさであって、「心足らう瞬間」が持てたかどうかではないのだ。高安も研究にいそしみたかったのだ。島田の読みはわずかだが的を外している。
 外塚の歌は「梅雨晴れの」の「晴れ」をどう理解してよいのか迷うが、降っていた雨が一瞬止んで、光が町を照らし出した瞬間を歌っていると読みたい。アスファルトの道は濡れていて、光が雲の合い間からも路面からも照りだした、「ひかりのまぶしい」一瞬の時である。そのときは明暗のコンロラストが極めて大きくなり、人の顔さえ暗く、表情がわからないものになる。そういう一瞬をこの歌は適切にとらえていると思う。島田の読みは、「久しぶりに地を照らす日射しはひときわ眩しく」と、この歌を梅雨に間のたまに晴れた一日の話と読み取っており、こういう読みはわたしには違和感がある。

 次の「特別作品」は8人に歌人のそれぞれ20首の歌が掲載されている。清田油井子「淵のさくら」、」新城貞夫「地球の何処かで」、中根誠「水晶体」、脇中範生「けむりが匂う」、道浦母都子「希望」、鈴木竹志「二宮冬鳥のことなど」、尾ア朗子「ノバライバラ」、雪舟えま「柑橘を産む」である。このなかの清田の歌にわたしは大変驚かされた。これほど細部まで読み抜かさせる歌を詠む歌人がいることに驚かされ、そして励まされた。歌われているのは「花咲くこと」。その誘惑のすべてと言ってよいだろうか。秀歌ぞろいのなか、何首か引いてみよう。

>花椿赤きがあれば花恋ひの心無量に花避けてゆく
>身の淵にさくら咲かせていま一度悲種のさだめを山月に問ふ
>射す月を食(じき)としながら地図になこ無名の原の名もなき花が
>世のなべて肯定するや地の夏に草刈る人ら体(たい)をささげて
>ともかくも生き残りてゐてたんぽぽの絮はふうはりそれからの春

 短い評でまとめたくないので、ここでは評をつつしむが、上掲の五首だけで、この歌人が歌の歴史の正しい道のなかに、位置していることがわかるだろう。芭蕉の言葉を借りれば「月の友」の道だ。

 新城の歌からも五首を引きたい。
>たましいの帰るなき地を瑠璃と謂うせめて男よ真裸で立て!
>山原はいま土砂降りとケイタイすさりとて辺野古を叫ぶにあらず
>マレーシア発台湾経由辺野古着 ジュゴンの海を逆に辿るも
>西郷どん銅像に糞を落とし去る あれ、なんの鳥 ピカソ鳩よ
>すぐそこにいるやも知れぬテロリスト、薄笑いする宰相もいる
 これらについても評は控える。

 中根の歌からは二首を引く。
>斬首作戦という米国のテロリズム切腹ゆるさぬ怒りにあらむ
>自衛隊入隊こそが自己責任、戦に死なば言はずや国は
 これも評は控える。

 脇中、道浦、鈴木、尾ア、雪舟からはい一首ずつ引く。
>テリトリー廻り終えしか鶯が午後をふたたび間近きに鳴く (脇中)
>てのひらから桜花びら湧く夢を見しより近き君の息衝き (道浦)
>不折描きし清酒「真澄」のラベルさへ展示されたり博物館に (鈴木)
>木星が月により添ふ夜を見上げ細道裏道遠回りせり (尾ア)
>図書館にせんべい息を香らせる愛しい人は困った人よ (雪舟)
 これらについても評は控える。



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《高山、八変人の会》

2016/06/25 21:27
瀬谷こけし

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 京都に七奇人の会というものがあった。今もあるのかもしれないが。そこに入らないかと梅原猛さんに誘われたことがある。亡くなった吉田光邦さんのあとにということだった。会そのものは年に一度集まって酒を飲むというだけの会だという。それをわたしは断ってしまった。そのころ私にはいいところで酒を飲む金もなかったというのが理由の一つであるが、そればかりでなく「奇人」を称することに抵抗があった。「七凡人」なら間違いなく入れてもらっていたと思う。「七貧人」でも喜んで加えてもらっただろうと思う。しかし「奇人」を称するのはいやだった。その後その会がどうなったか、一向に知らない。前に一度清水さんに、どうなってるのと尋ねたことがあるが、何もしていないというのが彼の返事だった。事実上終わってしまった会なのだろう。
 しかし、今わたしが高山で何ができるかを考えると、思い浮かぶのはまずはそういうごくごく狭いサークルを作ることだ。するのは年に一回酒を飲むことでいい。これほど変人が多い町なのだ。それも突き抜けた変人なのだ。だからむしろ名称は「高山変人会」とかにしたらいい。しかしメンバーは絞らなければならない。そして京都が七なら高山は八でゆきたい。「高山八変人の会」である。わたしもその中に入れてもらいたい。長はH先生。事務局長は適任がいる。そして包丁を持って魚を切り捌くとともに飛騨の縄文世界の解明に精通した考古学者のYさんも欠かせない……。
 そんな風に七人の会もしくは八人の会を作りたい。そこからなら、精選された新しい飛騨人の力を発信できるだろう。今年一年でそれが作れたらと思う。

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《『短歌研究』勉強帖  2016年5月号》

2016/06/24 13:16
瀬谷こけし


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 やっと時間が取れるようになって、だいぶおそくなったが5月号の勉強をしたい。まずは巻頭の12ヶ月の歌だが5月号は花山多佳子が長塚節を論じたものだ。次の三首を取り上げている。

>薬壜さがしもてれば行く春のしどろに草の花活けにけり
>快き夏来にけりといふがごとまともに向ける矢車の花
>こころぐき鉄砲百合か我が語るかたへに深く耳開き居り

これらの歌、わたしにはもともとよく理解できない歌なのだが、花山の読解をよんでもあまり得心はゆかない。詠まれたのは大正3年5月、節が亡くなるのは翌年の2月。この歌は36歳の時の作で、咽頭結核で入院中の歌だという。宮沢賢治とほぼ同じぐらいの早逝である。
 一首目の歌、よく理解できないのは「薬壜さがしもてれば」という措辞である。そしてまた「しどろに」という修飾語句が適切に言ってどういうことを言おうとしているのか、である。
 前者の疑問、「さがしもてれば」とはどういう表現なのだろう。「さがしきたりて」ではまずいのだろうか? 「もてれば」の「もつ」とは、だれが何をどういう形でもつのか。「もつ」は所有なのかそれとも保持なのか。どちらと考えようとしても首尾よく解決がつかない。あるいは「さがしいだして」ではまずいのか。「もてれば」の措辞がどう活きているのか、果たして活きているのかどうか、それがわからない。ここのところ花山は「花瓶もないので薬壜をさがして活ける。薬壜というのがまた草の花によく似合う」と鑑賞する。この後半の感想には同感するが、「もてれば」の措辞についての疑問には答えてくれていない。「入院中の病室のこと、花瓶がないので薬壜に」という花山の指摘はその通りで、この(草の花を)「薬壜」に活けるという趣向あるいは行為に、このときの節の歌い留めておきたい気持ちのエッセンスがあるとわたしは思う。「ひとはみな草のごとく、その栄華は草の花に似ている」という聖書の言葉に慰められつつ、みずからの今を自覚した歌だと思われる。草の花の小さな喜びをわが身のこととして味わったことだろう。この野の花は見舞いに来た女性が、おそらくは近くの野で摘んで、持ってきてくれたものだろう。それは詞書から推測がつく。
 そして「しどろに」である。しどろにとは整えてではないという意味だろう。流派の生け花のようにではなく、整えられず、整え得られず、結果として乱れて薬壜に活けられている野の花。それは花を生けたいという心の原点を語っていないだろうか。わたしは以前下北半島の先端の尻屋崎の地蔵尊になんどかお参りをしたことがある。そのときはいつもその近くに生えている小さな草の花を摘んで手向けた。この海峡で亡くなった霊の鎮魂のために。手向けるためには、たぶん、摘まなければならない。摘んでその地から切り離さなければならない。
二首目の「矢車花」の歌は、「まともに向ける」がポイントだろう。まっすぐに向いている。もちろん見る作者の方にである。誰かに、まっすぐに相対して向くことの貴重さ。誰かが自分に対してまっすぐに向いてくれている、と節は感じている。
 三首目の歌もそれと似て、わたしの語る方向に深い耳を向けて話を聞いてくれている存在。しかし、そういう貴重な存在があっても、この状況が変わる見込みはない。ゆっくりと迫りくるものの影がかえって濃厚に感じられて、苦しくなる。「こころぐき」の語は未消化に使われていて生硬な感じが残るが、しかし死の影の近づきが苦しい、という趣意には何とか届いているだろう。

 取り組みが遅くなったこともあり、5月号の勉強はここまでで終わりにしたい。


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