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「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ

プロフィール

ブログ名
「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

=======
Twitterと Facebookをはじめました。
http://twitter.com/mnnakajist
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji
これらは私からのメッセージです。わたしからのメッセージにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
=========

私の「なりすまし」にご注意下さい。そのサイトは以下です。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/tad77/ (「h」省略)
ttp://ameblo.jp/designjimusho/ (「h」省略)。

間違ってメールなどを出さないようにご注意ください。
===
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《この肖像はだれか?》

2016/09/19 15:08
瀬谷こけし

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 この肖像はだれか? アンナ・アマーリアではないかと思っている。賢明な母、聡明な母。そして息子の摂政としてゲーテをはじめ時代の最高の人々とかかわって国づくりをしてきた実績のある女性。つまりカール・アウグストの母で、エルンスト・アウグストの妃。彼女ではないかと思っているが、特に説明は見たらなかった。ドルンブルクのルネサンス城館に掛かっていた肖像画。


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《タウテンブルクの美しい家》

2016/09/19 01:44
瀬谷こけし

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 こんな風に外壁を板で張った家は、この村でも少ない。タウテンブルクを去る日の朝8時過ぎに撮影。

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《三輪山お月見会》

2016/09/17 06:42
瀬谷こけし

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 9月15日のお月見会。今回は三輪山で。参加者10名を超す盛会でした。はじめに箸墓の近くで、夕焼け空の中の二上山を楽しんで、それから大神神社の観月会へ。幽玄な灯りの導きに従って、拝殿へ、そして会場へ。祝詞奏上、神楽舞、蘭陵王の舞。王の剣が最後に天を指し、天に何かを訴える。するとややあって、垂れこめていた東の雲のひとところが明るくなって、月が姿を見せる。このタイミングにちょっと驚く。その後桜井駅の近くの韓国料理店で夕食をとり、そして駅前の広場でお月見3次会。時々、数瞬間だけ、月が姿を見せる。そんなことが何度か。次の現れを期待して、いつまでも飽きることなく待ち続ける。拙吟。

>面輪(おもわ)のみ見せて立ち去る月幾度(いくど)

 まったく、誘惑的な月だった。


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《ニーチェ研究資料1882年(2)思想家として自立せよ》

2016/09/14 01:51
瀬谷こけし

ナウムブルクのドーム
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このときニーチェはナウムブルクにいた


 ルー・ザロメがニーチェに傾倒しそうになっていたとき、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークはルーに、警告ともとれる次のようなメッセージを送っている。ルーは最終的にはこのマルヴィーダの勧める道に従ったように見える。「研究資料1882年(1)」で少しだけ紹介した「パウル・レーのための日記の1882年8月14,18,21日の記事は、ルーがきわめて公正にニーチェの分析をしていることを示している。ニーチェのおもねることなく、レーにおもねることもなく、である。わたしはルーのこの知的誠実性は感心すべきものだと思うが、その誠実性を最終的にはニーチェも認めたと見える(1884年5月ごろ)。
 ともあれ、上述のマルヴィーダのテキストを紹介する。テキストは今回も『Friedlich Nietzsche Paul Rée Lou von Salomée, Die Dokumente ihrer Begegnung, Insel Verlag 1970』である(以下、特に指示しない場合は同書による)。

(2)Malwida von Meysenbug、an Lou von Salomé in Stibbe, Bologna 18. Juni 1882, S.149、ZZ.11-19.
> Endlch aber möchte ich noch das sehr betonen, daß Sie nicht in der Arbeit N<ietzsche>s aufgehen. Ich hätte es mehr gewünscht, Sie wären Ihren Weg allein gegangen, Ihren geistigen Weg, gerade um einmal zu beweisen, daß die Frau auch auf diesen höchsten Gebieten des Denkens allein stehen und selbständig Resultate erzielen kann. Insofern thut mir diese geistige Abhängigkeit sehr leid. Vor Allem hoffe ich, daß N. selbst eine andere Richtung einschlägt als in seinen letzten Schriften weit ab von der des guten Rée, den ich herzlich grüße.

拙訳:
> けれど最後に次のことを大いに強調しておきます。それは、あなたがニーチェの仕事に吸収されてしまわないようにということです。それ以上にわたしがあなたに望むのは、あなたがあなたの道を、あなたの精神的な道を、ひとりで行くことです。それはまさにそれによって、女性もまたこの思考の最高の領域でひとりで立ち、自立した成果を獲得することができるということを一度しっかりと証明するためなのです。こういう意味で、この精神的な依存性がわたしにはとても残念なのです。とりわけわたしはニーチェ自身が、彼の最近の著書とは違う方向へ、善良なレーとはまったく違う方向へ、進んでいてほしいと思っています。レーはレーでわたしは心から歓迎していますが。

 このマルヴィーダの(1882年6月18日付けの)手紙は、ルーの心にきわめて強く突き刺さったことだろう。ここから読み取れば、マルヴィーダ自身では、ニーチェに最も大きな期待を寄せているが、ルーにも大いに期待するものがあるということになるだろう。そしてレーもまた哲学の道をあきらめて医者への道に転身したとき、マルヴィーダの期待に応えたことになるだろう。


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《ゲーテのお月見 --1828年8月25日ドルンブルクで》

2016/09/13 00:13
瀬谷こけし
ドルンブルクのテラスからタウテンブルク方面
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 1828年8月25日ゲーテはドルンブルクで月を見ていた。多分傷心を癒していたのだ。時は日本で言えば初秋の望月の日。中秋の名月よりはひと月早い。そしてその72年後のその日はフリードリッヒ・二−チェの命日となる。そんな因果もあるものだ。
 この夜ゲーテはドルンブルクの城館の中から月を見ていたのだろうか。それとも外のテラスに出て、そこから月を見ていたのだろうか。私にはどうやら後者のような気がする。
 とすれば、月はタウテンブルクの方から昇ってきていただろう。あの丘陵を越えて。ゲーテのこの詩も素晴らしい。ドルンブルクもお月見のためには絶好の場所だろう。
 月は、遠くにいるだれかの心を運んでくれる。



DEM AUFGEHENDEN VOLLMONDE
Dornburg, 25. August 1828
Goethe



Willst du mich sogleich verlassen?
Warst im Augenblick so nah!
Dich umfinstern Wolkenmassen
Und nun bist du gar nicht da.

Doch du fühlst, wie ich betrübt bin,
Blickt dein Rand herauf als Stern!
Zeugest mir, daß ich geliebt bin,
Sei das Liebchen noch so fern.

So hinan denn! hell und heller,
Reiner Bahn, in voller Pracht!
Schlägt mein Herz auch schmerzlich schneller,
Überselig ist die Nacht.



昇りゆく満月に
1828年8月25日 ドルンブルク


おまえはわたしをこんなにもすぐに見放そうというのか?
さっきは一瞬かくも近くにいたというのに!
暗黒の雲の塊がお前を覆い、
今やおまえはどこにも存在していない。

しかしおまえは感じている、わたしがどれほど暗く悲しんでいるかを、
おまえの上端が星のごとくに昇ってきてきらめく!
そうして、いとしいおまえがいまだかく遠くにあっても、
わたしが変らずに愛していることを確認してくれる。

ああ、いまや上がってきた! 明るく、さらに明るく、
雲のひとつないまことの軌道を、煌めきのかぎりをつくして!
わたしの胸は苦しいばかりに早鳴り
夜はこの上もない至福となる。
(2016.9.12拙訳. Übersetzung von Masatsune Nakaji)
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《アンズ茸料理のレストラン/Pfifferlinge gebraten》

2016/09/11 17:19
瀬谷こけし


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 ドルンブルクの山上の街をひとわたり見て回ったところで、そろそろ昼食の時間になった。朝食をしっかりとっているので、パニーニの類でいいかと思ったがパン屋が見つからない。それでレストランに入ることにした。何軒かあるうちの目に入ったのがこの一軒。「Pfifferlilngszeit」と大きく打ち出している。辞書で調べると「Pfifferling」とはアンズ茸のことだと出ている。今がアンズ茸のシーズンだというわけだ。入るなら地元の季節の料理が食べれるところがいい、と入ってゆく。だが店はにぎわっていて、空いているテーブルがひとつもない。すると、近くの丸テーブルに座っていたひとが、合い席でいいよと言ってくれる。それに甘えることにした。男性の二人組。恰幅のいい人たちだ。わたしはビールとアンズ茸の炒め物を頼む。ビールが来て、彼らと「乾杯」(Zum Wohl)をする。どこから来たのかとか尋ねられる。日本の京都から、と答える。京都は美しい町だな、桜が咲いて、など。来たことはないらしい。さらに年長のより恰幅のいい方の男が、隣の男をさして「彼は画家なんだ」、という「だから服が汚れているんだが」と。その画家の方のひとに「何に絵をかいてるんですか」と尋ねる。「何でもだ」と彼の答え。なるほどと納得する。あるいは大家なのかもしれない。
 料理が来てひとしきり食事を進める。彼らは彼らで話しているが、なかなか聞き取れない。すると年長の方が、彼は今日が誕生日で77歳なのだと話してくれる。私も自分の年齢を言う。彼も自分の年齢を言って、80代、70代、60代が揃ったな、という。ちょっとめでたいことだ。そして彼は今ここのレストランの壁の絵を描いているところなんだと説明してくれる。わたしにわかる言葉は多くないが、それでも多少はわかる。そんな風に話しながら、なかなか楽しい昼食を終えることができた。ほぼ同時に食事を終え、「ヴィーダーゼーエン」をして、彼らが先に出る。後から会計を済ませたわたしは、トイレに寄って出たが、その時にはもう彼らの姿はなかった。レストランの壁には、地元チューリンゲンのビールを運ぶ馬車を描きとても魅力的な田園風景ができかかっていた。合い席、というのは偶然の出会いの機会だが、とても楽しいことだということを覚えた。

(おまけ:レストランの近くのこども芸術)
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《ナウムブルクのマリアの塔》

2016/09/11 06:56
瀬谷こけし


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 ナウムブルクで現地時間の8月15日午後5時過ぎ、ニーチェ・ハウスを見終えて、その旧市街を包むような深い堀と壁が気になった。どうやら全体が高い壁で囲まれた閉鎖都市だったようだ。その壁がどこまで続くものかが気になって、宿の近くのマリアの塔の裏側も見てみた。はっきりはわからないもののこのマリアの塔の壁面もその閉鎖壁の一部で北東の角にあたるようだ。町の東側北の壁にはマリーエンマウアーという名がついている。ちなみに旧市内の南東内側に位置するニーチェハウスは、ヤーコプスマウアー(東南壁)とヴェンツェルスマウアー(南壁)の交差するところの50メートルほど西側になる。とても古い伝統や歴史を感じさせるところだ。
 そのちょっと外側から見たマリアの塔の写真数枚。


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《ニーチェ研究資料1882年(1)偉大さ》

2016/09/10 03:04
瀬谷こけし

タウテンブルクの森の道(2016年8月18日16:24)
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こんな道を彼らも味わい楽しんだことだろう




(1)Lou Salomé、Tagebuch für Paul Rée, 21.8.1882、S.190、ZZ.19-25

> Für uns Freidenker, welche nichts Heiliges mehr haben, was sie als religiös oder moralisch groß anbeten könnten, giebt es trotzdem noch Größe, welche uns zu Bewunderung, ja zu Ehrfurcht zwingt. Ich ahnte diese Größe an N. schon als ich Dir an den italienischen Seen von ihm sagte: sein Lachen sei seine That.
Es giebt keine Werthschätzung der Richtungen mehr, die der Mensch einschlägt, --- aber es giebt eine Größe der Kraft.

拙訳:
> 宗教的ないしは道徳的に偉大だと示して見せることのできるような聖なるものを何ももたないわれわれ自由思想家にとっても、それにもかかわらず、われわれを驚嘆させ、まさしく畏敬させざるをえない偉大さというものは存在する。イタリアの湖沼めぐりのときにわたしがあなたにニーチェについて、彼の笑いは彼の行為なのよと語った時、わたしはこの偉大さをニーチェに予感しました。
 人間が選び取るさまざまな進路方向のあいだに高い価値というものはもはや存在しない、--- けれど力の偉大さは存在する。


(テキストは『Friedlich Nietzsche Paul Rée Lou von Salomée, Die Dokumente ihrer Begegnung, Insel Verlag 1970』である。以下、特に指示しない場合は同書による)。


===2016.9.13===
(日付の誤りを一文字訂正しました:9→8)
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《ニーチェ小資料: ニーチェとタウテンブルクの空気》

2016/09/08 09:34
瀬谷こけし
タウテンブルク 2016.8.19朝
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フェイスブックにこんなことを書いた:

>Friedrich Nietzsche sagt von Tautenburg: "Die Luft klar, mild, kräftig: so wie wir Alle sein sollten." So wunderbar für mich war die Luft!

 そのコメント欄に:

>「クリアーでマイルドで力強い」タウテンブルクの空気の印象をこの三つの形容詞でまとめるところに、常人でない鋭く的確な感覚と的確な表現力を感じる。空気の中に植物的な生命力が含まれていると私も感じた。「マイルドでかつ力強い」という形容がそこだ。フレッシュだけど無機的なフレッシュさではない。ニーチェの天才をこんなところにも感じる。


 このニーチェの鋭さを、しっかりと心に焼き付けておきたい。



=====2016.9.14 注記=====
 誤解がないように注記しておきます。ニーチェ自身のテキストは:

> Wie geht es? – Es gab nie einen schöneren Tag in Tautenburg als heute. Die Luft klar, mild, kräftig: so wie wir Alle sein sollten."

<Friedrich Nietzsche, Auszeichnung für Lou von Salomé><Tautenburg, August 1882>, S.212, ZZ.6-9.
です。「1882年8月、タウテンブルク」の「フリードリッヒ・ニーチェのルー・フォン・ザロメのためのメモ」です。簡単に訳しておきます。

> ご機嫌はいかがですか? --- タウテンブルクでは今日ほど素晴らしい日はありませんでした。空気はクリアーで、マイルドで、力があります。われわれもみなそのようでありたいものです。
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《ニーチェ研究資料1883年(1)−ロバの歩み》

2016/09/06 17:00
瀬谷こけし
ナウムブルクのニーチェハウス
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このときニーチェはジスル=マリーア、妹エリザベトはナウムブルク

 1883年7月はじめの妹に宛てた手紙の中でニーチェは「ロバの歩み」と言うべきものについて語っている。ご存知の方も多いと思うが『ツァラトゥストラ』第四部の「ロバの祭り」に登場するロバの最初のイメージはここにある。そこのところを拙訳で紹介する。

>人間が自分の目標と呼ぶもの(自分が昼も夜も奥底で考えていること):それはほんもののロバの皮を自分の本体のまわりに貼ることになり、その結果彼がほとんど死ぬほどまで打ちたたかれてしまうことが起こりうる。---彼はそれを克服し、そして老いたロバとして、昔ながらのイーアーの声を出して鳴きながら彼の昔ながらの道を歩いてゆく。今のぼくの状態はこういうものだ。---

原文も紹介しておく。
>Das, was der Mensch sein Ziel nennt (das, woran er im Grund bei Tag und Nacht denkt): das legt eine wahre Eselshaut um sein Wesen, so daß man ihn beinahe todtschlagen kann – er überwindet’s und geht, als der alte Esel, mit dem alten I-A seinen alten Weg. So steht’s jetzt mit mir. –

 ほんとうの肯定(Ja)のまがい物としてのロバの(I-A)、それをニーチェはこのころの自分のあゆみ、自分の生き方に見ていたのだ。旧来の生き方に戻らざるを得ないほど打ちたたかれたニーチェ。そして「これでいいんだ」と言って、妹や母親との関係を取り戻してゆくニーチェ。ずいぶん苦労の多い人生にみえる。
 『ツァラトゥストラ』第四部では、このような「これでいいんだ」と言って歩んで行くロバを、「ましな人間」たちが神のごときものとみなして、ロバを神格として祭りをおこない、幸福感を味わう。しかしそこにツァラトゥストラが参入し、「ましな人間」たちの祭りを蹴散らし、彼らを逃散させる。
 ニーチェは、この手紙の日々の後獅子奮迅のスピードをわがものとし、「子供」へと変身してゆく。

(テキストは『Friedlich Nietzsche Paul Rée Lou von Salomée, Die Dokumente ihrer Begegnung, Insel Verlag 1970』である。以下、特に指示しない場合は同書による)。



(文章を若干修正しました、2016,09.08)


===追加=======
 上記の「獅子奮迅のスピード」をわがものにした日付を書簡のなかでマークするために、1883年12月8日のフランツ・オーヴァーベク宛書簡を上げておくことができる。その中でニーチェは、自分だけが知っている自分の「新しい大陸」を発見した。そして今や自分はそれを一歩一歩征服して行かねばならない、と語るのである。

>ich habe mein >>neues Land<< entdeckt, von dem noch Niemand etwas wußte; nun muß ich's mir freilich immer noch, Schritt für Schritt, erobern. --

この新しい認識獲得への喜びがニーチェの全身を駆け廻る。




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《『地球の歩き方』なしで》

2016/09/05 01:02
瀬谷こけし
8月28日、ベルリン・アレクサンダー広場のマリア教会
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 『地球の歩き方』なしで外国の行ったことのないところを歩くのはちょっと不安だ。もっともドイツであれば、『歩き方』を持っていたとしても、例えば列車の切符一枚買うのもなかなか難しい。私はとりあえずは慣れたが、長距離ものは今でもセンターに行って買っている。だが、センターでどこどこに行きたいと言うとたいていインターシティー急行の二等席の由席券を売ってくれる。座席指定券を買おうとするなら、それなりの希望を言っておかなければならない。そして、日本の場合もたいていそうだが、自由席券だと、終着駅ではたいていホームの一番遠い方まで歩いてゆかねばならない。それでも安いのと楽なのとで一応納得している。

 ところで、今回のドイツ旅行では、ちょっと思いがけないことが多く起こった。『ドイツの歩き方』を家の中で紛失してしまったので、直前に『北ドイツの歩き方』を買って、これで一応安心して出かけたのだが、初日のベルリン、グリューネ・ヴァルト散策で早速失敗してしまった。往きのバスの中でその本もろともカメラケース(ガンデジ用のモンベルのラフなケース)を置き忘れてしまっていた。のんびりしたもので、そのことを帰りのバスも降りて、しばらく歩いて、車道と歩道の段差で躓いたときに、やっと気が付いたのだった。SDカードも、予備のバッテリーも入れたままバスの中に置き忘れたようだった。幸いだったのが、充電器はトランクに入れてホテルに置いておいたことだ。そのおかげで電池は一本だけでなんとかやり切れた。充電器をなくしていれば翌日はまずニコンの特定の型用の充電器をさがしに一日を費やしてもベルリンを歩き回って探さなければならなかった(今なは「SATURN」の店がドイツの都市にはたいていあるので、そこに狙いをつけて探しに行ける)。そしてもし取り寄せになれば、旅行の計画が随分くるってしまう。---その置き忘れのカメラバック、ホテルの受付に頼んでベルリンの交通局に電話してもらったが(なかなかつながらない)、結局見つからなかったということだった。『歩き方』がないので、交通局といっても何番に電話したらいいのかわからないのだ。

 それで『歩き方』の話し。Kindleを持って行っていたので、ないかどうか探してみた。すると『ベルリンとゲーテ街道』というのがあったので、早速に買ってダウンロードした。PCの方にはなぜかうまくダウンロードできなかったが、それはそれで弁えておけばすむことだ。

 翌日は少し下町の方へ行った。電車からちょっと気になる教会が見えたので、降りて寄ってみようと思ったのだ。降りたのはグライスドライエック(Gleisdreieck)だったと思う。教会は外から写真だけ撮ったが、入口近くにたむろしてる人がいて、ちょっと怖くて中には入らなかった。そしてその辺りを少し歩いていると、「ドイツ技術博物館ベルリン」があった。建物の中には入らずに外を歩いていたが、緑の多いなかなか快適な散歩道だった。もっとも歩く人は少なく、二人連れでスポーツサイクルで走っている人が多かった。このままこちらへ行けばポツダム広場に出るとわかっている道に出たが、知っている道を歩くのもつまらないと、また園の内側に入って歩いていた。ポツダム広場近くの芝の盛り土道に出ると思っていたのだが、なかなか出ないので、適当なところであきらめて近くの駅に向かって歩き出した。そしてまた出た駅がグライスドライエックだった。ここはUバーンの駅だが、実際は駅は地下ではなく地上にあり、地上で交差する。わたしもまだまだドイツの地下鉄のつながり方はよくわからない。それでともかく北の方向に行きそうな電車が来てそれに乗りこもうとしたが、すると電車の中からアラブ系の何人かの人が二三枚地図を広げてここはどこだ、どこだと尋ねて来る。今乗ってるのはU2で…、と説明をすると、車両のドイツ人が、怪しいぞと遠くから声をかけてくれる。わたしは乗るのをやめてホームに戻る。ホームは録画しているとマークがあったからだ。男たちは四五人いた。そして知らぬ間にわたしのウェストポーチのファスナーが開けられていた。ホームでポーチの中をさがし、パスポートが取られていないこと、財布や現金が取られていないことを確認した。とりあえず何も取られていないようなので一安心した。ホームには緊急事態用のベルが用意されており、またインフォメーション用のベルも用意されていた。彼らも同時に降りていて、他の客が下へ降りてゆくとホームの上はわたしと彼らだけになった。もともと乗降客の多い駅ではない。英語でやりとりをする。わたしは「来い」と言うが、「なんでだ、何もない、お前は頭がおかしいのか」と言う。わたしはもう一度「一緒に来い、オフィスまで来い」というが、来ない。まあナイフぐらいは忍ばせているだろうから、あまり追いつめてもいけない。「お前はこのポーチを開けたのだから何もしてないことはない」とわたしは言う。するとファスナーの指紋を取られるとやばいと思ったのだろう、逃げ腰になる。そしてそそくさと次に来た反対行きの電車に乗って消えていった。

 とりあえず一難が去った。だが実はその時はわたし自身気づかなかったが、わたしは、コンデジカメラを首から掛けて、ポーチのベルトに回転式の丈夫なカラビナでそれ用のカメラケースを着けていたが、気が付くと、カラビナの方は残って、そのケースがすっかり消えてなくなっていた。気づいたのはもうずいぶん経ってからだった。地下鉄などの駅で「防犯のため録画しています」とマークがあったり、緊急用のベルの設置されているところは、実際かなり危険のあるところなのだろう。ケースがなくなっていることに早く気づいていれば、---カラビナには確実に彼らの内の誰かの指紋が残っているだろうから、---わたしももう少し要領よく対応できたかもしれない。

 ともあれ、ケースの中には、コンデジ用の予備バッテリーとSDカードが入っていた。ともかくSDカードは早めに補充しておかなければならない。それで、ともかくそれからポツダム広場に行って、ソニーセンターで高性能なSDカードを一枚買った。とりあえずそれだけの被害ですんだので、まずは良しとしておかなければならないだろう。---このようにベルリンはちょっと危ない町だ。以後、他の町では、ライプチヒでもワイマールでも、そういう危険を感じることはなかったが、ベルリンでは、旅の最後の方の28日のアレクサンダー広場でも、アラブ系の男が二人以上近づいてきたときには、すぐにその場所を離れることにしたのだった。


 
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《『短歌研究』勉強帖 2016年8月号》

2016/09/04 21:26
瀬谷こけし

タウテンブルクの朝の草露
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 8月号の勉強も終えておきたい。
 8月号巻頭の「12ヶ月の歌」は藤原龍一郎が塚本邦雄、竹山広、黒木三千代の作を論じたものだ。まずその三首を引く。

>われらみな殺さるるとも木は二月火は五月花八月の闇 (塚本)
>くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川 (竹山)
>侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷(ワジ)越えてきし砂にまみるる (黒木)

 いずれもいわば「戦争の歌」である。そして藤原の解説も「一九四五年以降、日本人にとっての八月は戦争の悲惨を思い起こし…」との言から始まる。しかし、この藤原の言を見るとわたしは少なからぬ違和感を感じざるを得ない。それはまずは戦後生まれのわたしには思い起こすべき「戦争の悲惨」の経験がない、ということから始まる。わたしは八月に戦争の悲惨を思い起こすことはまったくなく、またそのようなことはそもそも不可能なのである。この違和感は決して小さいものではなく、この藤原の言をわたしは、わたしいが以外の者に宛てられた文としてしか読むことができない。この藤原の言は、常套句にすぎないものなのだろう。八月、ならばわたしは八月に何を思い起こすのだろうか。あえて言うならば、それは「戦争の悲惨」ではなく、「戦争の愚劣」なのである。ここを間違えては何もはじまらない。
 ところで塚本邦雄の歌の「木は二月火は五月」とはどういうことなのだろう? よくわからない。どなたか説明していただければと思うが、とりあえず今はわからぬとしておく他ない。ともあれ日本の民俗習慣に根差した文言とは見えない。とすれば、この歌の下句は、「花は変わらずに咲く」ぐらいの意味だろう。そのように取っておくことにしたい。
 竹山の歌は、長崎での被爆経験の見聞を語っているが、水と被爆した死体が流れもあえぬよどみをつくっている、そのような川を自分の原風景の川にするという決意をうたっている。
 黒木の歌は「侵攻」が「レイプ」に似るとは、あまりにも当たり前の把握で、その先を読む気力を失わせるが、結句の「砂にまみるる」という措辞はいかがなものだろう。砂にまみれる者、主語は「私」と取っておけばいいのか。しかしどのような文法に依拠した言辞なのだろうか。

 他の作品を見る。次には「特別作品」各20首、九名の作が並ぶ。そのすべてを勉強させていただいたので、まずそのタイトルと作者名を登場順に記しておく。「紫露草」北沢郁子、「初夏の賦」吉村睦人」「沙棗の花」仲宗角、「かなたへの忘れもの」小嵐九八郎、」「ひとつの指」中津昌子、「真珠光」川本千栄、「夏断」高木佳子、「二十時頃」染野太郎、「瞑想録(レ・メディタシオン)」吉田隼人、以上である。今回はとりわけこの「特別作品」が読み通しにくかった。日常詠の迷宮というべきものがかのクレタの迷宮の如くそこに、そしてその底と四囲にあるのだ、ということが新しい発見だった。

 北沢の作では、
>浅川の遊歩道来れば紫露草自由に咲けり生くるよろこび
 わたしは「つゆくさのつゆふかくさの」と詠まれた歌を思い出すが(『虚空日月』)、北沢は露草にもっぱら「自由」を読み取る。この草、言うまでもなく伝統的には朝に涙をたたえるさまを愛され、同時に農にとっては唾棄されてきた草だ。北沢の露草は、いわば遊歩道のわきという人為的な空間に気楽に咲いている花に見える。

 吉村の作では、
>日本のステッキ突きて入りて来ぬ今日百歳の誕生日の君
と、
>全身に力をこめて逃げむとする毛虫をわれは踏み殺さざりき
の二首とも、「命あるもの」(『蜘蛛の糸』)の生の新鮮な場面を切り取っている。しかしそれでも「われ」と他を峻別した空間で詠まれる作は、迷宮のを離れることがない。

 仲の作はとてもおもしろい。それは、生の環境のきちんと認識にもとづいて詠まれているからだ。
>けものみちのぼりてゆくに猪(ゐのしし)のぬたばをこえて葛の花咲けり
(「ぬたば」を知っている歌人がどれだけいるだろう?)
>拾いたるいのちと人言ひさはもへどとききて落つる栃の実またよし
>ほの白く雨にあかるむ坂のへは笹の花咲き死を告げてをり
>死ぬることのみ学びし少年馮(たの)み寄る美学にさすらひかくは老いたり
>くれはやき谷地をいそぎていでくれば石仏に甘夏嫗供へぬ

 中津の作からは、
>麻酔後の口半分を失いし感じの奥へ水流し込む
歯科で麻酔をしたときの感じがよく表現されていると思う。

 高木の作からは、
>鼈甲のくつべらをもて朝あさをいとしむかなやかがむ姿勢に
「くつべら」はきっと短いものでだからこそ余計にかがむのだろうが、それは「朝をいと(お)しむ」ことなのだろうか、とみずから驚く。だがこの作「かなや」の弱さのために面白さが半減した。

 他の作者の作は省く。

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《『短歌研究』勉強帖 2016年7月号》

2016/09/03 01:01
瀬谷こけし

タウテンブルクの朝
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 遅くとも7月中には終えておきたい7月号の勉強も、まだ終わらぬまま9月に入ってしまった。8月には7月号も8月号もリュックに入れてドイツの町や森を歩いていたのだが。読む時間はほとんど取れなかった。致し方ない。今やわずかなりとも記して、この号の勉強を終えることにしたい。

 7月号巻頭の「12ヶ月の歌」は東直子が横山未来子、佐藤弓生、栗本京子の歌を論じたものだ。まずその三首を引く。

>胸もとに水の反照受けて立つきみの四囲より啓かるる夏 (横山)
>青空 よくよく嵌めておかないとこのまま抜けてゆきそうな首 (佐藤)
>七月の夜に思ひ出づミシン踏む母の足白く水漕ぐごときを (栗本)

 これらの歌に対する東の読みにはほとんど異とすべきところがない。例えば「夏の空は、」色が濃い」という。言われてみればそういう気がする。ただ、私の印象で言えば、空にせよ、緑にせよ、色濃く見えるのはむしろ地域の差の方が大きいように思う。そう、空気のやや希薄で清明な高原。飛騨や信州の高地や高原の色はとても鮮明で、色もくっきりとコントラストが高いように思う。例えば東京だけに限れば、「夏は色濃い」と言えそうに思うが、地域によって、色はずいぶん違いそうに思う。横山の歌について言えば「夏」が「きみの四囲より」啓かれるという発想と感覚は面白く感じる。ただ何で「啓」なのか。ある辞書によれば「啓」は「閉じた戸を手でひらくこと」、あるいは「戸をひらくように、閉じた口をひらいて陳述する意をあらわす」という。この歌では、「啓かるる」はひらがなで「ひらかるる」の方がすっきり疑問が立たずよかったのではないか。「啓」では歌の趣の単純率直なよさが失われてしまうように思う。
 佐藤の歌は、青空の無限性を感じさせて、とても面白い歌だと思う。丁度こけしの首が抜けてゆくようにわたしの首も青空に吸い込まれてゆきそうだ、ヤバイ、と。「無限」についての思考が深まるわけではないが、無限に吸い込まれまいとしなければならない日常性の本質も浮かんでくる。
 栗本の歌は「足白く水」と出てくると、老婆を負って川を渡ろうとする男の足の白さが鮮明な印象をもたらすある蕪村の絵が思い出される。七月であれば足袋の白さではないだろうから、母の足の白さが、それとその水を漕ぐような動作が、不思議を醸し出している。東の「湿気ある生ぬるい夏の夜の空気は、水の中にいるような気配がある」と言うが、この感想には同感できない。

 他の作品を見る。
 岡野弘彦の「飛天の歌」(巻頭作品三十首)では、
>歌はねば ひと日むなしく老ゆるなり。心したたるごとく 歌はむ
を一番に採りたい。「飛行の術」を歌った作の方はわたしにはリアリティーが感じられない。「高野の祖師」空海と語らうならば、その『性霊集』中の蝦夷蔑視の言についてはどのように語ったのだろう? それを果たして咎めたのか否か。

 「特別作品」から幾つか。
 「時に順ふ」神谷佳子から二首:
>若きらの声たつところ地に還すひと生(よ)の骨の濁りなき白
「若きら」とは保育園児ぐらいだろうか。これから埋葬する骨を「濁りなき」白色と見たところが新鮮。
>鶸いろは一瞬にして緑(あを)ふかし山川草木時に順ふ
時の順にしたがう山川草木にひとの生も同じと言う。その美の瞬間を「鶸いろ」に見るところにも共感する。

 「武甲山」綾部光芳から一首:
>岩膚のくすむけはひに今もなほ成仏を拒否するやうに立つ武甲山
「成仏を拒否する」存在を、字余りとも相関させつつまず適切に歌えている。

 「空の耳」紺野万里から二首:
>越に住むものには恥づる心あり若狭に暗き荷を負はせ来て
>停止中なれど緑のかなたにはトンの単位の冥王(プルトニウム)が
若狭湾の原発群を歌ったもの。

 「夜床朝床」渡英子から二首:
>また春に、木花佐久夜毘売にあふ上州にしろき桜咲きそむ
>野良猫はフェンスの穴をくぐりぬけ嘔吐してをり竹の根方に
 観察と表現の適切さ。野良猫のする嘔吐にきちんと目を注ぎ続ける正しさ。

 「秘密裁判」川路由佳から三首:
>「戦略的外来生物」と名指しさる 信ずる神が違うばかりに
>天子より神こそ大いなるものと言いて有罪 戦争末期
>牢獄(カルプス)にいて戦場に行かぬまま世界はひっくり返り 青空
おそらく、キリスト教徒として、師から伝えられたみずからの戦中のさまを歌った作。

 「水文学(すいもんがく)」千種創一から二首:
>夜、縦の光はビル、横のは高速、都市化とは光の糸を編んでいくこと
>水鳥が水を離れるのにも似て失意はしばらく水面を乱す
 口語、自由律の歌として稀に見る才能を感じる。その要点は比喩、とりわけ隠喩と、思考・連想のリズム感覚。短歌並みの短さも詩想をまとめるのに適しているだろう。だが短歌の韻律は生きていない。



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《ゲストハウス[Zur Tautenburg] 最後の夜》

2016/09/02 13:42
瀬谷こけし


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 タウテンブルク滞在の最後の夜、その日は夕食を屋外でとった。気持ちがよいのでそうしたのだが、この晩はやや曇り気味で、星も一つしか見えなかった。タウテンブルクは知る人も知るヨーロッパ最大の望遠鏡(ツァイス製の2mの反射望遠鏡)のある場所で、ヨーロッパの各地から天文学の研究のためここに滞在してゆく人がいるという。それほどに空のきれいなところ、空気のきれいなところなのだ。

 そうしているうちに夜の八時もまわっていった。私がひとりで食事をしているのがかわいそうだと思ったのか、宿の大女将さんが、ずっと付き合ってくれていた。はじめた取ってきた容器いっぱいのシャンピニオンを加工していた。その大女将さんはほんとは実に厳しい人で、きちんと通じる話をしないと認めてくれない。自分だけしかわからないようなことを言っているあほな人という風に見ている。私がニーチェ研究者で、そのためにここに来ているということは知っている。そして帰ってきたとき、シャウマン先生が会いたがっているということを伝えてくれたのもこの大女将だった。ニーチェに関して話題をふってきて、「ニーチェと言っても私は、「女のところに行くのか、ならば鞭を忘れるな」という言葉しか知らない」と言っていた。私はここでニーチェについて何を見たかを語らねばならなかった。私はニーチェもルーもここの城山を登っていて、四月月の末にオルタ湖畔のモンテ・サクロに二人だけで登った時のことを思い出したんだ、ということが分かった、と語った。しかし大女将は、言っていることがわからないと言った。オルタ湖も、その湖畔のモンテサクロも知らないのだと見えた。わたしはそのことからゆっくりと話さなければならなかった。大女将もルーとニーチェがここに来たことは当然知っている。その二人が、四月にローマのサンピエトロ聖堂で初めて会って、その後イタリア北部ののオルタ湖の近くのモンテサクロに二人で登ったのだが、その道の印象が似ていて、そのことをここの城山に登った時に気づいて話題にして歩いていたのだということが分かった、という私の発見をやっと何とか伝えることができた。---そのようにして、一つのことでも懸命に伝えようとしたこと、そして伝わったこと、そのことで大女将ははじめて私のことをよしとしてくれた。はじめて人間として認めてくれた、ということだ。ドイツ語は名詞の性が男性、中性、女性のどれかということを正確に覚えていないと正しいドイツ語がしゃべれない。しかしそれは実際至難の業だ。そして性で迷うと、私の発話はしばしば止まってしまうのだ。そのことを言うと、「あなたも一年ぐらいドイツにいればぺらぺらにしゃべれるようになるでしょうね」と言ってくれた。そうれができればいいがと私は答えた。すると、そうなったら今度は日本に戻った時にパニックになるでしょうね、と言う。---パニックになるとは? この大女将が言おうとしたことが私にはわからなかった。

 もう夜もだいぶ更けてきていた。食後に注文した白ワイン(地元産の、少し発泡する清らかで、きわめておいしいもの)も、もう飲み終わりつつあった。最後の夜だった。私はワインの最後のひと口を飲み終え、おやすみなさいをして、それぞれ、それぞれの家に入っていった。私は、この「Gasthaus "Zur Tautenburug"」に泊まった最初の日本人だ、ということだった。



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《タウテンブルクの牧師館案内板より》

2016/09/02 06:39
瀬谷こけし

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 情報提供をしておきます。ただし日本語は拙訳の試訳です。間違えなどお気づきの点があったらお知らせください。

Aufenthalt im Sommer 1882 wohnte hier Lou von Salomé und seine Schwester Elisabeth Nietzsche.
„Er selbst“, erinnerte sich Stölten, „kam fast tâglich auf die Pfarrei, meistens am Abend, um mit der Russin yu arbeiten oder sich mit ihr yu unterhalten, oft mußte meine Frau noch spät abends für einen starken Kaffee sorgen. So liebwürdig Nietzsche yu sein pflegte, so anmaßend war die Russin. Diese hinterließ bei ihrer Abreise yu unserem Erstaunen eine Schnapsflasche, er ein Blechschild mit der Inschrift „Fröhliche Wissenschaft“. Das war der Titel einer Schrift, die von Tautenburg aus zum Druck befördert wurde.“

Nach dem Weggang Stöltens war es Gast- und Logierhaus Paradies. In den 70er Jahren wurde das Gebäude abgetragen.

Tautenburger Verschönerungsverein 1880 e. V.

試訳:

1882年夏の滞在期間中ここにルー・フォン・ザロメと彼の妹のエリーザベト・ニーチェが住んでいた。
「彼自身は」、とシュテルテンは回想する、「ほとんど毎日牧師館に、たいていは夕方に、ロシア娘と仕事をしたり、あるいは彼女と語り合うために、やってきた。しばしば私の妻は晩もおそくに濃いコーヒーを一杯用意してやらねばならなかった。ニーチェは親切にもよくこのようにしていたが、対してロシア娘の方は傲慢だった。私たちが驚いたことにこのロシア娘は旅立ちの際に一瓶の火酒を残していったのだが、彼の方は「Fröhliche Wissenschaft(喜びの学)」と銘の入った板金の盾を残していった。これはある著書のタイトルで、この著書はタウテンブルクから印刷へ送られたものだった。

シュテルテンの退職後ここは「パラダイス旅館・宿泊所」になっていた。70年代にこの建物は撤去された。

      社団法人 タウテンブルク美化協会1880


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《ライプツィッヒ・アウエルンシュトラーセ 26》

2016/08/27 17:27
瀬谷こけし


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《Auenstraße 26》

 8月25日、今日はニーチェの命日だった。ホテルで静かに本を読んでいればいいのだが、読んでいると、その後のニーチェのこともすこし辿っておきたくなった。折角ライプチヒにいるんだから。

 今回の二度目のライプチヒ来訪では、ゲバントハウスやトマス教会にあまり関心が持てなくなっていた。昨日もそれで、前回自転車乗りのおじさんに教えてもらった14番のトラムの終点のPlagwitzのあたりに行って、空爆されていない町のたたずまいや、昔の町の雰囲気を写真に撮っていた。どことなく日本の東北を感じさせる。なぜここに定住したのかという根本的な問題を考えさせる雰囲気があった。例えば化学工場は戦争時代は戦争目的遂行のための化学製品の開発と製造にかかわっていたはずだ。このあたりの化学工場もきっとそういうことをしていたのだろう。(ここでは全く傑作な壁面がをみつけたが。谷岡ヤスジの漫画と北斎の大波と舟の絵とを同時に連想させるような絵)

 ともあれ今日は、部屋が暑くなりだしたころに出かけた。しかし、出かけるといっても目的地がわからない。標記の通りの名前が、二つ持っている地図のどちらの索引にも出ていないのだ。通り名が変更になり現行の名前とは違うのかもしれない。

 受付のおねえさんが(昨日もそうだったのだが)ネットで調べて、それから行き方を非常に丁寧に説明してくれる。ニーチェのことだから(長期滞在の場合)都心のホテルに泊まるはずもないが、果たして地図に載っていない郊外だった。トラムを乗り換えてゆく。トラムを降りてからの道もわかるように地図も印刷して持たせてくれた。ここのホテルはそいう客の尋ねごとにとても熱心に対応してくれる。ともあれ目指す先は西北西のはずれの方だ。

 その家は比較的すぐに見つかった。ああ、こんな遠いところにいたのか、と感心する。宿は今でいうゲストハウスのようだ。今はもう持ち主も変わっているのではないかと思うが。

 ともあれそのアウエンシュトラーセから少し北に入ったところにちょっとした森が見えた。ニーチェはライプチのローゼンタール公園で3時間も座っていたと書いているが、ここは違う場所だろうけれど(名前を知らない)、ベンチのある涼しく本を読んで過ごせる場所はないかと探した。行くと高さ5メートルほどのところで切られた、大きな洞のある木があった。そしてその近くにベンチもある。テーブルもある。遊具もある。その遊具の回転椅子がテーブルもあり丁度よさそうなので、そこで本を読み始めた。

 正確な日を今調べるのはやめるが、27日にタウテンブルクを去ったあと、ニーチェはナウムブルクの実家に戻る(妹はタウテンブルクに残る)。その後、ナウムブルクが居心地が悪いらしくてライプチヒに移る。そこで二か月ほどいて、それからパリでの共同研究をあきらめてイタリアに行く。10月か11月にはルーと会っているはずだが(レーとも)、事態はもう変な感じになっていて、共同研究の構想はもう事実上終わっていた。ライプチヒではそういうことの片づけをしなければならない。そしてニーチェはアウエン通りのこの家で、そういう片づけをしていたということになるだろう。

 私は昼前からいて、五時ごろ、少し涼しくなって立ち去った。少しはニーチェの供養になっただろうか。

 (8月25日にfacebookに書いた記事を再掲しました)


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《ニーチェが死んだ》

2016/08/24 10:06
瀬谷こけし


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 8月23日、ワイマールのニーチェ・アルヒーフに行った。あまり色々なものはないところだという印象だった。ニーチェの死後の出来事にわたしはあまり興味がない。
 展示室に『ニーチェ・クロニーク』という本が置いてあった。最近の研究者ならだれでもが座右に置いている本ではないかと思うが、わたしは持っていない。見せてもらってその死に近い日々を読んでいた。館のおばさんに「今日8月23日はニーチェが最後の処方箋を書いてもらった日ですね?」と尋ねた。「Rezept」の語を繰り返さないと通じなかった。すると、「ニーチェはこの上で亡くなった」とおばさんは上を指しながら教えてくれた。1900年8月25日の午前11時から12時の間に死んだことはクロニークを読んでわかっていた。しかし場所が何処かは、知らなかったし、わからなかった。まさにこの上の部屋だという。途端にこの建物がそれだけで重たい意義を持った建物と感じられるようになった。もうそれだけでいい。そういう場所が残っているだけで。
 そんな目で館の周りをもう一度まわった。あの、窓にツタの絡まるあの部屋だろう。
 1882年の8月25日にニーチェはこんな手紙をルー・ザロメの部屋に差し入れていた。
>Zu Bett. Heftigster
>Anfall. Ich verachte
>das Leben.
> FN.
 こんな重要なテキストを軽々しく翻訳する気はしない。だが、ニーチェがきわめて激しい発作に襲われていたこと、そして床に就いていたことはわかる。しかし次の言葉を、例えば「僕はこの生を軽蔑する」(眞田収一郎訳)などと軽々に訳してしまうわけにはゆかない。むしろ「わたしは生を尊重しない」と訳した方がまだよいのではないだろうか。
 その翌日ルーがタウテンブルクを去るのが初めから決まっていた日程なのかどうかをわたしは知らない。だがほんとは激しい怒りに燃えてルーが突然タウテンブルクを去ったのではないかと思う。ここでの日々で、「生」はルーを、あるいはルー自身の究極の立場を意味していたのだ。「あなたは生を十分に尊重していないわ」というようなやり取りが『ツアラトゥストラ』の「第二の舞踏の歌」の中にある。このクリティカルな、エッジの先端にあるような出来事がニーチェの差し入れたこの手紙だった。『ツアラトゥストラ』ではその次に来るのが真夜中の鐘の歌だ。
 翌26日、発作から回復したニーチェは、差し入れた手紙のお詫びをするとともに、12時にルーをドルンブルクまで送って行った。ルーはタウテンブルクを去った。この26日の、タウテンブルクを去る時にルーが紙に書き付けてニーチェに渡した詩が「生への讃歌」だった。これについては私のブログを参照してほしい。ニーチェはこのルーの生の思想を何度も噛み締めることになるだろう。
 そしてその激しい発作の18年後、ちょうど同じ日に、ニーチェは死去する。この日付がわたしには偶然とは思えない。8月はニーチェにとっては激しすぎる月なのだ。
 すでにワイマールを去り、またタウテンブルクも去って、ライプチヒでわたしはこの8月25日を迎える。非常に重たいものをどこかで感じながら。


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《Herz-Jesu Kirche》

2016/08/23 07:41
瀬谷こけし


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 ワイマールのある教会、ニーチェ・アルヒーフに向かう途中たまたま入ったのだが、とても驚いた。教会名は「Herz-Jesu Kirche」、訳せば「イエスの心教会」というところか。この「Jusu」は「Jesus」の属格とみてよいのだろう。入るとオルガンの演奏が聞こえてきた。中央ぐらいまで入って聴いていた。ところがそれがなかなかのもの。一部録音をしていたので聴いてもらえるようにしたいが、バッハとかではなく、重たい不安感など、オリビエ・メシアンの音楽語法も消化した曲で、おそらくこの奏者の独自の作曲作品ではないかと思う。また即興の作品が多いように思う。上昇的な無限旋律をつづけ、極限に達して歌い出したり、あるいは振り出しに戻すように、低音の重奏音だけをつづけ、そこで休止したり、あるいはそこから新しい旋律で演奏を始めたり、弾きながら、音楽でイエスの心を探り続けているようだった。きっとこの旋律ではイエスの心を語る解決にはならないと思ったときに中断して低音重奏で打ち落としてしまっているのだ。オルガン演奏のこんな感動を経験したことがない。奏者の心は音を聴いてそのまま分かり、それがまさにイエスの心を探ることで、言ってみれば神の心を探る試みを全身で実行しているのだ。そんな演奏を初めて聴いた。


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《ワイマール、チューリンゲンの野》

2016/08/22 06:45

瀬谷こけし


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 宿は旧市街から少し離れた新興住宅街の中だが、電子レンジをはじめいろいろな施設が整っている。そこで今日はまず近くに開いているスーパーマーケットがないか探しに行った。バス通り沿いにかなり探したが、スーパーそのものがみつからないまま、あきらめて旧市街に行くことにした。バスの本数も少ないので、歩いてゆくことにした。何といっても宿の窓から見えるチューリンゲンの野が魅力的なので、そこを歩いて経験したかった。ここでも歩く道、自転車の道が危険がないように作られているので、自転車で休日を楽しむ人が少なくなかった。土日は閉店にする店が多いことは、歩いていれば実際に納得できる。いわゆる郊外型の大型店舗が軒並み閉店しているのだ。最初に発見した開いている店は「ローザ」とう名のパン屋兼喫茶店をやっている店だ。ここまですでに20分以上は歩いていた。喉が渇いていたので、店に入って、持ち帰り用にセサミパンを二つもらって、あとコーヒーをもらって一休みした。

 そこからは10分ほど歩いたところで次の店、マックカフェが開いていた。そこからは中央駅ももう近い。線路の下を通って一二分で駅前に出た。

 あとはもう旧市街の中心に向かって歩くだけだが、今日はワイマールのどこかで映画「ルー・ザロメ」を上映しているところがないかを第一に探していたので、まずは駅構内のスパー(コンビニ)で、暇にしているおねえさんに尋ねた。映画館はあるが、中心部のその先の左手の方なので、まずはそのへんできいてくれということだった。「ルー・ザロメ」やっているかはもちろん知らない。それほどホットな話題になっていないことは確かだ。イエナでは多分ちょっと事情が違うだろう。町は国立劇場前を中心に文化祭的な夏祭りをやっていたが、人々にその夏祭りを紹介する仕事をしている人に聞いても、「ルーザロメ」という映画の存在も知らず(スマホで調べてくれていたが)、夏祭りではもちろんやっていない。ワイマールでの全然話題にならないようだ。ゲーテ作品の新演出などを中心に打ち出しているようであったが。ワイマールはわたしには年老いた町という印象だった。



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《タウテンブルクへの旅が終わった》

2016/08/21 04:23
瀬谷こけし

 朝10時57分の電車でドルンブルクの駅を発ったところで私のタウテンブルクへの旅は終わった。1882年といえば134年前ということになるが、その年の8月26日にルー・ザロメもまたドルンブルクの駅を去り、その翌日にはニーチェもここを発った。彼らにとっては、この先にまだつながっている共同研究の企画があった。それを台無しにしたのは嫉妬に駆られて手が付けられなくなったパウル・レーだった。そのころのレーの手紙は、幼稚で、どうしようもない。ああいう手紙を見れば、ルーの心もレーから決定的に離れるだろう。利用価値はなくはないにしても。それらのことについてはいずれ書いてもいい。大して値打ちのあることではないが。

 今回の旅ではっきりわかったことは、オルタ湖畔のモンテサクロの山への細道と、タウテンブルクの城山への細道が、彼ら、ニーチェとルーの中で、はっきりつながったことだ。道の片側の三、四センチの平石を重ねて作った擁壁の印象や、上り道を上がりやすくする道の工夫、そして片側に広がる草地など、印象は重なる。それだからこそニーチェはこのとき、
>monte sacro, --- den entzückendsten Traum meines Lebebs danke ich Ihnen.
という言葉を漏らしたのだ(ルーからレーへの8月14日の手紙日記)。

 ルーは手紙日記の中で、レーに、自分がニーチェにどれほど心惹かれ、また同時にどのように求めることが異なっているか、全力で分析し、それをレーに伝えるべく書き留めている。このルー・ザロメの誠実さはまことに感嘆すべきものだと思う。だがどのように見てもレーは小物過ぎた。わたしにはそれ以外の言葉が浮かばない。もっとも本質的な戦いをしなければならないところで曖昧な既得権のようなものに縋りつくだけの男に、本質的な魅力はないだろう。

 ともあれ、彼ら(ニーチェとルー)にとっては実に楽しく、また実に厳しい20日間だっただろう。それがタウテンブルクの日々だった。

 わたしには4泊5日のタウテンブルクだったが、ニーチェが泊まっていた農家の家(今ニーチェ・ハウスと呼ばれているところ)とルーとエリザベトとが泊まっていた牧師館が、どんな道をたどってどのくらいで行き来できるものかということがはっきりわかったこと、そしてたくさんの森と森の道に囲まれたどんな楽しい散歩ができるか、どれほど自然が、光や風や緑やらが楽しめるかということ、それがわかったことでもう十分だった。山城の近くのベンチで、また牧草地の上に置かれたニーチェ・ベンチと呼ばれるベンチで、彼らのものを読みながら何度かうつらうつらしてしまったこと、それほどに快適さに満ちたタウテンブルクの村に、四日余りの日を過ごせたことは、なんという幸せだっただろう。この快適さは、ニーチェにも、ルーにも、残したことになっただろう。わたしにはしかし、ルーはこのとき、もう一歩深い成長の機会に向かわなかったように思う。そこにあった機会。この村の美化協会が立てている牧師館の説明記事の中に、ニーチェは時々夜中に濃いコーヒーを牧師の奥さんに注文して、ルーとの検討会に至誠を以て応じようとしたのに対して、ルーはちょっとアルコールをひっかけていた、と書いていたものがあった。ルー・ザロメについての新しいドイツの映画が今イエナで上映されているとトムから聞いた。すぐにワイマールでも上映されるだろうと言っていた。だが、ルーはタウテンベルクを次につなげなかったことで、もう終わっていたと思う。実際ベルリンで研究仲間に加わってみれば、レーが小物で、その存在にほとんど魅力がないことはすぐにわかったことだろう。アンドレアスに惹かれるところも実際あっただろう。だが何だというのだろう。彼女はもうニーチェのそばに輝くことはなかった。そののちリルケを見出したとしても、彼はルーとの関わりの中で、自分も自立しようと、ニーチェと必死で戦っていたのは『時祷集』を読めばほとんど明らかだろう。だが彼らの歴史は彼らの歴史でいい。ともあれタウテンブルクの旅は終わった。今はワイマールの町を見下ろすシェーネブルクという村のなかの宿にいる。こうして眼下にいっぱいに広がる野や畑を見ているとドイッチュ・ラントという言葉がなぜか浮かんでくる。それは何を意味する言葉なのだろう。ただ、ここの土地と関わり、ここの土地を耕して生活を組み立ててきた人々のこれらの土地への愛情のようなもの何となく伝わってくる。そして何の詩かは忘れたが、ヘルダーリンはドイッチュ・ラントという言葉を何度か使う。彼はドイッチュ・ラントの詩人たらんとした。それだからこそ聞きたいのだが、ドイッチュ・ラントとはいったい何なのだろう。何だったのだろう。

 ほとほとに疲れて、もう町や、近くの店にものを買いに行く気力もなく、二三日前に、宿で昼食用にともらったパンをひとつ齧って夕食としよう。その宿は「ガストハウス<ツア・タウテンブルク>」(Gasthaus “Zur Tautenburg“)という名前だ。素晴らしい日々を過ごさせてもらった。


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