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「世界という大きな書物」  中路正恒ブログ

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「世界という大きな書物」  中路正恒ブログ
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世界という大きな書物の中に見出した
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少しずつまとめてみたいと思っています。
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 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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R・シュトラウスの「モルゲン(明日)」 “Morgen” von Richard Strauss

2009/11/05 10:34
瀬谷こけし
まず歌詞を紹介する。読者の方はできれば訳読を試みてほしい。

Morgen

Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
Und auf dem Wege, den ich gehenn werde,
Wird uns, die Glücklichen, sie wieder einen,
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde…

Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen.
Stumm warden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen…


下線部二ヶ所は、J・H・マッケイの選集の収められた詩(「原詩」と呼んでおく)と異なっているところである。原詩ではGlücklichenはSeligen、stummesはgloßesであるが、どちらもこの曲にはこの歌詞の通りの言葉の方がよいと思うので、原詩についてはほとんど言及しない。
それにしてもこの詩を読解する基本のポイントは、最後の一行だけ”sinkt”と「現在時称」になっていることである。他はすべて『モルゲン(明日)』(Morgen)のタイトルにふさわしく「未来時称」である。「未来時称」には、未だ実現しないことへの期待、推量、想像などの話法的なニュアンスが伴うが、最後の一行ではそうした実現しないことの不確実性がなく、すべてはここに実現している。幸福の、ものを言えなくなった沈黙が二人を包みこんでいるのである。今まさに、太陽が二人を一つにするということが実現している。

ここのところの歌のニュアンスを、わたしが聞いた限り、非ドイツ語圏育ちの歌手はみな飛ばしてしまっていて、聴くに堪えないのだが、ドイツ語圏ではもちろんこの「現在時称」をきちんと解釈して歌っている歌手がいる。なかで二人、シュワルツコップ(Elisabeth Schwarzkopf)とフィッシャー=ディスカウ(Dieitrich Fischer-Dieskau)に触れよう。昨日その二人の歌を対比して聴いてみたのだ。シュワルツコップ(1968年9月の演奏、CC33-3324)の歌は、これまでよく聴いてきたのだが、その一番の魅力は、8行目の”Schweigen”の”Schwei”のところを声の美しさだ。こうして、二人だけの至上の喜び、至上の幸福の永遠性を、彼女はその美しい声で表わしている。
そしてもう一点彼女の歌の美点を上げれば、それは5行目の”wogenblauen”がまさにひとつの青い波が弓のように高まっているいる様を見せてくれるところである。ここはこの歌の一つの山で、曲中の最高音もここで記されている。
だがその他の点では、シュワルツコップの歌は、ディスカウの歌に比べれば、穏やかな歌い方に徹していると言える。たとえば前半の頂点をなす”einen”も控え目な歌い方だ。この曲と歌詞の女性的な受け止め方、女性的な解釈を示していると言っていいものだろう。

対してディスカウの歌は「男性的」だ(TOCE-6777)。未知の、しかしすぐそこに確実にある喜びに向かって、ふるえおののきながらも力強く、まっすぐに進んでゆく。そして”einen”へも、力強く踏み進んでゆく。青い波がひとつ弓のようにゆっくりと立ちあがり盛り上がってゆく様も、力強いものとして見える。そして、静寂に入り、ものもいわずにふたり目を見つめ合い、そしてその幸福、”Glückes stummes Schweigen”は一体のものとして、まさこれが幸福であり、幸福に包まれた無言の沈黙であることを、自信をもって語り歌う。”sinkt”の現在性も強調している。幸福がここにある。ひとつになることがここにある。非常に的確な解釈であり歌であると思う。
ディスカウを聴くと、シュワルツコップが少し退いてしまうのは致し方のないことだろう。この歌は本来男歌なのだ。

こうして二人の歌手の歌を聴いてみて、わたしはこの歌が、ある一つの思想の近くにあることを感じることができる。それは”wieder”によって示されていることだ。これについては次に語ろう。



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ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」最終行 (承前)

2009/11/03 23:28
瀬谷こけし
ヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」の最終行はこうである:

Selbet der neidische, selbst Cerberus trinkt und schläft.
(Brot und Wein)

ここのところ、手塚富雄氏の訳はこうである:

あの妬み深いもの、地獄の番犬ツェルベルスさえも、飲み、そして眠っている。


この訳に何の疑問があるわけでもない。問題はなぜヘルダーリンがここで妬み深い地獄の番犬ツェルベルスを登場させたのかである。
趣旨は、酒神の恩恵が、イエスを通して、ツェルベルスにまで及んでいるということである。
ツェルベルスも眠れるのである。
そして眠るのである。

そうすると「地獄」への行き来が、容易に行えるようになるのだろうか?
ということは、「地獄」が必要なくなるのだろうか。
あるいは「地獄」がなくなるのだろうか。
「地獄」といってもギリシア風の「冥界」のことだということになるのだろうが。

ツェルベルスも酒を飲む。
そして嫉みを忘れ、眠る。

ヘルダーリンは何を言いたかったのか?




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ヘルダーリンの「パンと葡萄酒」 “Brot und Wein” von Hoelderlin

2009/11/03 19:31
瀬谷こけし
ヘルダーリンの詩の朗読CDが手に入った。朗読はBruno Ganz。正確な韻律で読んでいるものと思う。
エレギー、とかオーデとか。
自分の思っていた読み方とずいぶん違うので、驚くと同時に、ヘルダーリンの詩が普通の詩人の詩とまったく別物なのだということがわかる。
ほとんど呪詛に聞こえるのだ。多くのドイツ人にとってもそうなのだと思う。
「〜はどこにある、〜はどこにある」、などということを本気で真っ正面から疑問にして問うているのだから。
たとえばあの(ギリシアの)玉座や神殿はどこにある、等々(パンと葡萄酒)。
ほんとは呪いや呪詛ではなくて、深々と現在を問い出しているものなのだが。
わたしはそれを、山中智恵子や屈原に倣って、「ショウコウ(心尚+心兄)」と呼びたいところだ。

だがともかくこういう詩には堪えられないドイツ人が多いだろう。
(ドイツ人に限らない)


7
Weiß ich nicht und wozu Dichter in dürftiger Zeit?
Aber sie sind, sagst du, wie des Weingottes heilige Priester,
Weiche von Lande zu Land zogen in heiliger Nacht.

Brot und Wein, Hölderlin

=====

7
例えば「パンと葡萄酒」の7の終わりのところ。
 Weiß ich nicht und wozu Dichter in dürftiger Zeit?
Aber sie sind, sagst du, wie des Weingottes heilige Priester,
Weiche von Lande zu Land zogen in heiliger Nacht.
(Brot und Wein)

乏しい時代に詩人が何のために存在するのか、わたしは知らない。
詩人は、酒神の聖なる司祭のように、聖なる夜の中を、国から国へと移り行くのだ。
(詩人に引き付けて意訳)

聖なる夜の中をめぐり歩くより他のことを知らない者……。

=====

さらに、その詩の最後の一行の終わり。

9
selbst Cerberus trinkt und schläft.

これが酒神の存在の意味なのだ!!!

ツェルベルス(地獄の番犬)さえ酒を飲んで眠るのだ、と。

葡萄酒はすでにキリストの血さえをも溶解させて、ディオニュソスの酒になっているのだ。
この"trinkt"に気を止める人は少ないのではないだろうか。
いやいや、ヘルダーリンをドイツ語で読もうとするほどの人なら、みな深くそこに気を止めるだろう。

このさりげない” trinkt und schläft”が酒神の存在の意味なのだ。
(控え目にいって、そこにまで酒神の恩恵は至っている)





Holderlin: Gedichte Gelesen von Bruno Ganz
ECM
2008-11-18
Bruno Ganz

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きのう青蓮院で青不動をみてきた

2009/11/02 09:26
瀬谷こけし
不動の青身。その肌。胸、腹、腕、そして顔面。
そこから炎が燃え上がる。

この青色の肌をした不動をみて、
ここでは決して祭祀を絶やしてはならないということを理解した。
あの『今昔物語』の「天宮」の話。
染殿の后。
あのようなすさまじい思念がここに封じられている。
死しても燃え上がり、熄むことのない情念。
祭祀を絶やすわけには行かないのは、宮廷である。
この周り、青不動のまわりには、そのような思念が存在している。

祭壇での護摩供。
導師はその情念と対決していた。
その途方もなく激しい情念と。
五鈷杵をふり、叩き、鳴らし、印を結ぶ。
こうして寺は営まれている。


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杉本秀太郎の伊東静雄論(3) 「モルゲン」

2009/10/30 02:33
瀬谷こけし
 さて、いよいよ「モルゲン」である。これについてはまず伊東静雄の書簡を引こう。酒井ゆり子がこのようにはっきり言っていることを、否定する理由を杉本秀太郎氏は十分に提出しているようには見えない。そこのところを少し邪推してみようと思うわけだ。「邪推」などということを普段わたしはしないのだが、これも日文研からの風が少し吹きかかっているせいかもしれない。もちろん井上章一風の風だ。
まずは引用から。

> この前お逢ひしたとき私の哀歌はモルゲンに似てゐる。又拒絶という題は独逸のリードに似てゐるといはれましたが、あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです。身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました。
(『定本伊東静雄全集』1971年人文書院、p.392、書簡九七、昭和十一年十二月二十一日、酒井ゆり子宛)

 わたしの方法は、「哀歌はモルゲンに似ている」というゆり子の感想に対する「あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです」という伊東の評を信じてみようというものだ。逆に必死になってゆり子の感想を退けようとする杉本秀太郎(『伊東静雄論』1985年、筑摩書房)のやりかたには、何か疚しいことがあるのではないだろうか。その辺を見てみようというわけだ。
そのためにまず何よりもリヒャルト・シュトラウスの「モルゲン」のドイツ語の歌詞を引こう。これは、マッケイの詩に基づくが、マッケイの選集に載っている詩とは2ヶ所(下線部)が違う。選集に載るその詩については「ある日の伊東静雄(四)」http://25237720.at.webry.info/200910/article_6.htmlで既に紹介した。今はそのシュトラウスの歌曲op.27-4の歌詞として普通に紹介されているものを紹介しよう。

Morgen

Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
Und auf dem Wege, den ich gehenn werde,
Wird uns, die Glücklichen, sie wieder einen,
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde…

Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen.
Stumm warden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen…
(RICHARD STRAUS, FOUR LAST SONGUS, ELISABETH SWARZKOPF, CC33-3324の歌詞カードによる。下線は引用者)

本来なら伊東静雄が確実に見た歌詞を使いたいのだが、今は入手のための手間を省く。現在は様々なところで使われているこの歌の歌詞は安定しており、またシュワルツコップもフィッシャー=ディスカウもは確実にこの詞の通りに歌っているので、この辺の詮索はしない。ゆり子が伊東に見せたこの楽譜のドイツ語も、杉本が指摘していないところを見ると、これと同じものであるとみられる。

 ところで、この詞の読解はなななか難しい。昨日も学生に読解させていたのだが、なかなか三行目の”einen”が掴めるようにならない。三行目が難しいのだ(そしてまた別の意味で最後の行が)。三行目を読み解くためにわたしが学生に与えるヒントは、「この”sie”は何、だれ?」と言ってこの”sie”を掴ませることだ。それがわかると、この文の構造に連想が働き、”sie”が一行目の”die Sonne”(太陽)指し、そしてこの文の主語だとわかってくる。つまり”wird”の主語だということである。ここまでわかると、「未来時制」かもしれないという風に頭が働き、そうすると”einen”が動詞かもしれないとう発想が生れ、そして正解に達するのだ。
 昨日わたしがこのテキストの日本語訳を課した学生は、大学二年生としてはきわめてよくできる学生たちだ。それでも独力で”einen”が動詞だという正解に達したのは、ひとりだけだった(十人中で)。ゆり子にいきなりこのドイツ語の歌詞を見せられて、---しかも辞書もなしだ---、伊東はこの正解に達することができなかった。その時の伊東のようすを語るゆり子の手紙を川副国基は紹介している。こうだ。

>私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、竹久夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語の歌詞を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながら(伊東は)いつまでも見ていましたが、……
(註は引用者)

「わからぬ」と言いながらドイツ語の歌詞を眺めつづける伊東静雄。このときどれだけ多くの時間が流れたことか。ほとんど一生のすべての時間がここで流れてしまったのだ。自慢にしていたドイツ語力の不十分ささえ、ゆり子に見せてしまったのだ。ゆり子にとってもこの時間はとても貴重なものだったはずで、だからこそ、後年、川副にそのことを語り伝えるのだ……。

まずこの歌詞の題一聯だけを訳しておこう。拙訳するとこうなる。

>そして明日太陽は再び輝くだろう、
>そしてわたしが歩み行くであろう道の上で、
>太陽は、われわれ幸福な者たちをふたたびひとつにするだろう、
>この、太陽を呼吸する大地のただなかで……。

少なくともシュトラウスにとって、この「われわれ」とは、男と女だ。この曲自体がパウリーネ・デ・アーナとの結婚の記念に、彼女に捧げられた。ふたりがひとつになるというモチーフが中心にある。ゆり子もそれを感じていたはずだ。

そしてこの詩だが、その杉本秀太郎氏の訳を紹介しておく。杉本は、「試みに訳せば」と断ってそれを示す。(杉本、上掲書、p.166)

>そしてあす、太陽は再びかがやくだろう、
>そして私が辿るだろう道のうえで、
>私たちを幸福なふたりとして、ふたたびひとつにするだろう、
>太陽を呼吸しているこの大地のまっ只中で。
>そして青く波立っている広々とした海辺まで、
>ふたりはしずかにゆっくりとくだってゆこうね、
>だまって、お互いの目を見つめ合おうね、
>するとふたりのうえには、幸福の無言の静寂が沈んでくることだろう。

特に問題のない訳だと言えるだろう。少なくとも5行目までは。わたしが違和感を感じるのは6から8行目までの結び方だ。「〜ね」「〜ね」「〜が沈んでくることだろう」のところのことだ。
どうしてこんな風に訳せるのか、わたしにはわからない。わたしならこう訳す。

>そして広い、青い波のうちよせる海辺に、
>わたしたちは静かに、ゆっくりと降ってゆくだろう。
>無言のままわたしたちは互いの目を見つめ合う、
>そしてわたしたちの上には、幸福の、無言の沈黙が降りてくる……。

 ひとはこれまで最後の行の”sinkt”の現在時制に、あまり注意をしてこなかった。いやいや、そんなことはない。シュワルツコップにせよフィッシャー=ディスカウにせよ、この最後の現在時制をどう歌うかがまさに腕の見せ所だ。だがいちいち名を上げないが、非ドイツ語圏出身の歌手たちはみな一様に無造作にこの現在時制を歌ってしまっている。だが、ほんとうは、ここで、これまで未来のこととして語っていたことが、---ひとつになるということが、---まさに今現実のことになっているのだ。ほとんど永遠の現在のように。どこかこの世ならぬ不思議の空間の中に入ってしまったように……。

 杉本秀太郎の「〜が沈んでくることだろう」という訳はいったい何なのだろう? どうしてこんな風に、未来時制であるかのように訳すのだろう。またその前の「ね」「ね」の訳も理解に苦しむ。何か特別の理由があるのだろうか? 理由があるなら聞きたいものである。少なくともわたしはそう訳す文法的な理由がわからない。無茶苦茶としか見えない。もっとも、わたしの語学力が不足しているためかもしれないが……。

今日はとりあえずここで終えておこう。だがこれではまだ「邪推」にならない。
「邪推」は次にまわす。


拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』創言社





伊東静雄 (講談社文芸文庫 すD 3)
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杉本 秀太郎

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「わがひとに与ふる哀 ...

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杉本秀太郎の伊東静雄論(2) 「わがひと」が女性でないと??

2009/10/28 21:35
瀬谷こけし
簡単な問題だとわたしには思えるのだが、次のことも指摘しておこう。
杉本秀太郎は『伊東静雄』(1985年、筑摩書房)の中で次のように言っている。

>詩集『わがひとに与ふる哀歌』も、詩集中の同題の詩も、「わがひと」を女性と受け取らなくてはならないような措辞を注意深く回避していることに対して、人は少しも注意しなかった。伝記家の思い込みが広まったのだ……
(p.9)

この下線部の主張だが、はたして正しいのだろうか?
むしろ、杉本が、詩集と同題の詩において、「わがひと」が普通に見て女性と受け取られるところの措辞を注意深く見えにくくしているのではないだろうか。同書の9〜10ページで、杉本はその詩を次のように引用する(新字体にする)。

あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気(ひとげ)ない山に上(のぼ)り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

まあそれもよい。ともあれその詩「わがひとに与ふる哀歌」は次のようにはじまる。

 わがひとに与ふる哀歌

太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘うものの何であらうとも
誘わるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恆(つね)に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を

 これに杉本の引く「あゝ わがひと」以下が続くのである。

この詩行の中の

手をかたくくみあはせ
>しづかに私たちは歩いて行つた

の「私たち」は、男と女と解するべきで、それゆえ後の「わがひと」も女性ととるべきである。そして、言うまでもなく、ここにはR・シュトラウスの「モルゲン」の「太陽がわたしたち(ふたり)をひとつにする」というテーマの反照を読み取るべきである。「手をかたくくみあはせる」ことは「ひとつになる」ことである。ただ、伊東静雄の場合、シュトラウスと違って、「太陽がふたりをひとつにする」ことの成就がないのである。それゆえ太陽が美しく輝くことは、ほとんど希われたままになっているのである。


  ◇ 余談 ◇

ここでは余談になるが、
杉本は「放浪する半身」を繰り返し登場させるが、彼はそもそも「放浪」ないしは「漂泊」の本質を理解していないのではないだろうか。漂泊、ないしは放浪の本質は、愛する土地を一旦捨てたならば、ひとは決してどの土地にも安らかに定住することができない、ということである。杉本の議論からは「愛する土地を捨てた」という契機がまったく読み取れないのである。そのため議論のすべてが上滑りになっている。



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杉本秀太郎の伊東静雄論(1) 方法の一貫性の欠如を指摘する

2009/10/18 00:06
瀬谷こけし
杉本秀太郎の伊東静雄論、つまり『近代詩人選18 伊東静雄』(1985年、筑摩書房)に述べられている論のことだが、わたしは拙稿「伊東静雄の〈わがひと〉」(拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』1997年、創言社、所収)のなかで、詩の読みの核心のところですでに批判をしてあるのであるが、今また伊東静雄の「哀歌」とリヒャルト・シュトラウスの「モルゲン」との関係についてひとつの思い付きをまとめるに際して、若干の問題点を記しておきたい。杉本の論の一貫していないところ、破綻しているところを指摘する、ということだが、正式な批判に必要な資料の取り揃えのようなことはしない。その時間が取れないのだ。読者の方々には雑記のようなものとして受け取ってもらえれば幸いである。
(今こうしたものをまとめるのは、杉本氏に、ご健勝のうちに、お見せしたいがためである)

1.>伊東静雄のことを考えるというのは、私には、彼が書いた詩を彼みずからまとめた詩集のなかで考えるということにひとしい。だが、あえて言うなら、伝記家、書誌家の手によって伊東静雄は撫でまわされて黒光りしているが…… (序、p.3)

「詩」を「詩集のなかで考える」とはどういうことだろう? 杉本はそれをしているのか? たとえば、「曠野の歌」をセガンティーニを援用して読み解く、という杉本のしている行為は、「詩集のなかで考える」ということなのだろうか? というのも、この読解行為を支える根拠は、詩集のなかにではなく、伊東の昭和六年一月七日づけの酒井ゆり子あての手紙の中にしかないだろうからである1)。この「手紙」の情報がなかたとしても杉本は「曠野の歌」の読解にセガンティーニを援用し得たであろうか。疑問であり、ほとんど信じることができない。
杉本の言う方法が、詩集の外部の情報を二次的なものとしてしか扱わないというなら、それは原理的に誤っているとわたしは思う。一篇の詩も、それを取り囲む広範な織物の網のなかにしか存在し得ないのである。読解に際しても、十分にデリケートな操作が必要だが、一篇の詩を取り囲む織物のすべてを利用すべきである。杉本の主張が、読解の操作の検証の場が詩集、もしくは詩のなかにあるべきだということであるならば、特に異を立てるところはないのであるが、その辺は主張を明確に示してもらいたいところである。伝記的な情報も存分に利用すべきだとわたしは思う(伝記的情報を援用した読解は、多くの場合、その粗さにほとほと辟易する類のものだが)。

1) >『アンナ・カレニナ』は諌早まで持つて行きましたが未だよみをはりません。然し私は諌早でラプラードとセガンチニーの二人を知って帰つて来ました。世紀末の画家です。特に私の持つてゐるセガンチニーの画集は女であるゆり子さんにみせたくあります。(書簡、55)

伊東はなぜ「女であるゆり子さんにみせたくあります」と言っているのだろう? それは女には見えにくい男の生きざまと覚悟がそこに描かれていると彼が思うからである。伊東がゆり子に伝えたい自分の生きざまと覚悟もそこから語れるのだ。


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ある日の伊東静雄(六)---ある日のゆり子---(川副国基資料(一))

2009/10/16 11:10
瀬谷こけし
川副国許は伊東静雄の二歳年下の同郷人である。また小学校のときから酒井百合子(ゆり子)を知っている。川副は小学校時代の百合子についてこんな風に語っている。

> 百合子さんの酒井家はもと諌早藩の武家で、北諌早村の村役場のそばに白壁塀をめぐらした格式を見せた武家屋敷のおもかげをのこすその家があった。小学校時代、下級の女性とでまずわたしの印象にのこったのはこの百合子さんであった。田舎にはめずらしい端正でいかにも良家の子女を思わせる気品があった。
(川副国基「詩人伊東静雄の報われぬ愛」、『新装版現代詩読本 伊東静雄』1983、思潮社、pp.236-243。川副からの引用は以下同じ)

いかにも良家の子を感じさせる端正な容姿の少女だったというのである。このように言われると、わたしにも自分の小学校の同級生にそんな子がいた、と見当がつく。わたしはゆり子の容姿や印象について語っているものを他に読んだことがないので、この川副の叙述はとてもありがたい。「端正な容姿の良家の子女」これで十分である。

川副は、ゆり子の側からの伊東の印象を時期に分けて記している。川副あてのゆり子の手紙を典拠にしたものである。

1.大正十三年、伊東、佐賀高校生:「あんな汚い人は見たことがない」

> わたしは大正十三年に諌早から一人で父のいる佐賀に行き、母と姉とは家の道具を始末して少しおくれて参りました。その母たちが来る前に伊東さんは遊びに来ました。が、あの顔に髪は肩まで垂らし、ズボンの膝は鍵裂きなり二寸ばかりの布が三角にさがったままでした。ニキビが一杯で私はあんな汚い人は見たことがありませんでした。父と二人だったものですから私は父の書斎兼居間のへやにいつも一緒に居りましたので伊東さんが来ましてもそこにずっと居りました。伊東さんは石のように坐ったままでお茶も飲みませんでした。
(ゆり子の手紙、川副前掲書)

2.大正十五年以降、伊東、京都帝国大学学生:「書生ぐらいの目下の者が…」

> とにかく私の同志社女専の学生の間も、うちの書生さん位の、目下の者の積りでした。私が学校を卒業しても、一族の間であの人と結婚などは考えも及ばなかったことでございました。私たちはあのひとよりもずっと年上の、父の交友関係の中から私の相手は見付けるとしか考えておりませんでした。(ゆり子の手紙、同上)

> 私が女学校の四年の時から同志社女専の予科から本科一年まで、あの人にとっては京大生としての三年間、あの人は私の批評をし通しで、無力な私は痛いところにさわられてもひどく反撃することもできずその都度たよりない言いわけはしたものの腹が立ってひとり怒り通しでした。あの人は余りに優越感を持ちすぎ、育ちのちがいで全く無遠慮でした。横着で無礼でした。(ゆり子の手紙、同上)

3.昭和四年以降、伊東、大阪府立住吉中学勤務:「文学の話しを聞くのを楽しむ」

> 伊東が大阪に勤めはじめてから次第に人間的に成長し、ひところの圭角がとれて優しくなってきたと百合子さんは書いている。文学のはなしを伊東から聞くことはひとつの楽しみであったともいっている。(川副、前掲書)

4.昭和六年以降、伊東、大阪府立住吉中学勤務(百合子、姫路に戻る):「思わずぞっとした」

>そして昭和六年に同志社女専を卒業して酒井家がまた姫路に移ってから、精神的にも大人になった百合子さんは、伊東がながい間百合子さんの欠点ばかりをあげつらってきたことについていろいろ考えたあげく、はじめてあの伊東のかねての痛烈な百合子さん批判が実は伊東流の愛の告白だったということに気づき思わずぞっとしたという。


この4つの時期に分けた紹介だけですでに十分に多くのことが語られているだろう。わたしがとりわけ注目したいのはこの第4の時期だ。ゆり子が、以前からの伊東の自分に対する痛烈な批判が、実は彼の愛の告白だったと気づく時。
この瞬間。これはどういう時だったのだろうか。
そしてそれに気づいて、ゆり子は伊東に対して何をしたか?

まさにその時、ゆり子は伊東に楽譜を見せて、シュトラウスの「モルゲン」のレコードをかけたのではないだろうか?


こんなストーリーが見えてくる。


ある日姫路の酒井家の書斎兼の居間で、伊東はゆり子から「モルゲン」のレコードを聞かされた。同時に、竹久夢二の挿画のある、日本語とドイツ語の歌詞の入った楽譜を渡された。
だがその時、伊東はそのドイツ語の歌詞のなかの”einen”(ひとつにする)が解釈できなかった。そしてまた、それに対する柴田柴庵のいい加減な日本語訳も信用できなかった。

  Wird uns, die Glücklichen, sie wieder einen,
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde …
(シュトラウスの”Morgen!”の歌詞)(sie=die Sonne)
  われわれ、幸福なふたりを、太陽はふたたびひとつにするであろう、
この日の光を呼吸する大地のただなかで。
(拙訳)

このとき伊東は、この曲を聞かせたゆり子の気持ちがつかみきれていなかった。日本語の歌詞はいい加減で、ドイツ語の方も解釈がつかない。肝心かなめの”einen”の解釈ができなかった。伊東にとっては拠り所がない!

これはゆり子が誰にも漏らさなかった秘密である。伊東にも、姉にも、川副にも語っていない。
「太陽が私たちをひとつにしてくれる」そのストーリーを、至福として、ゆり子は伊東に示したのだ。少なくとも世にはありうる男女のひとつの形として。
伊東にもう少しの余裕があれば……。気持ちの余裕か、ドイツ語力のもう少しの余裕か。あるいはひたすらに音楽に耳を傾けてこの曲のこころを聞き取る心か。
伊東は心の転換ができなかった。
(柴田柴庵にもうすこしまともな日本語訳を示すドイツ語力があったら、というのがもうひとつの憾みである)

ゆり子の方はおそらく柴庵の訳詞から大意をくみ取り、そして音楽そのものから、そして竹久夢二の挿画から、この曲に男女の至福への誘いを聞き取っていた。

ゆり子と伊東は、幸運、幸福なふたり(die Glücklichen)にはなれなかった。

この時の後、おそらくその日のうちに、伊東は再びこのドイツ語の歌詞の読解を試み、そしておそらく正解に達した。
伊東に「わが人に与ふる哀歌」の詩想が生れたのは、このドイツ語の正しい読解に達した後のことである。

その時伊東は、至福への機会が、ただ一度しか与えられなかったことを、理解した。伊東には別の縁談が進みつつあった。



「哀歌」に「モルゲン」の響きを読み取ることはこの上なく正しい。
「太陽がふたりをひとつにする」というこのテーマである。










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ヒルティの『眠られぬ夜のために』を……

2009/10/13 19:23
瀬谷こけし
単純に年齢から考えると、鳩山由紀夫氏は父の計数工学科時代の学生のひとりだ。
多分家が藤沢で、大学からは遠かったので、父が学生やらの大学の関係者を家に連れてくることはほとんどなかった。鳩山氏もだから多分家に来たことはない。
覚えているのは、父のところの助手をしている方が来たことだ。若い、勉強家という雰囲気のひとだった。わたしが高校生だった時のことだ。お会いして挨拶をした。
その方は、わたしに本を一冊プレゼントしてくれた。
それは岩波文庫のヒルティの本だった。
多分『眠られぬ夜のために』だ。
『幸福論』かもしれない。
それまで思想系の本というのを読んだことがなかったので、読み方がよくわからなかった。だが、そのストア主義的で、禁欲的な思想は、あまり違和感なく心の中に入ってきた。
実際はかなり影響されたかも知れない。
よくわかるし、自然な考えだと思えた。
わたし自身が日ごろ感じ、考えていることが、言葉になって示されているという印象が強かった。
ローマのストア主義者の名前、マルクス・アウレリウス・アントニウスとか、エピクテトスとかセネカとかの名前は、その本を読んでいる時にはじめて印象的な名前になった。
生きている人、生きていた人、という手応えがあった。

わたしの禁欲主義的な自然体は、その時の影響もあるかもしれない。

ともあれ、これは父が間接的に与えてくれて縁のひとつだということになるだろう。
この、ストア主義は。


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ある日の伊東静雄(五)---Morgen! (その二)---

2009/10/12 02:58
瀬谷こけし
川副国基が「伊東静雄の報われぬ愛」の中で紹介している酒井ゆり子の手紙を紹介しよう。

>「手をかたくくみあはせ」というのはひところ伊東さんが音楽に熱心な時、私が卒業して姫路にいたころ、まだあの人が「コギト」に出ず「呂」などに拠ってた時ではなかったかと思いますが、私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、竹久夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながらいつまでも見ていましたが、その表紙の絵が若い男女が手を組み合わせて海の方へ行っているものでしたし詩の内容は「わがひと」のもそれをとったと思われる位で、「わがひと」にはその絵が頭にあったせいと思います。詩はJ・H・マッケイの由です。
(『現代詩読本新装版 伊東静雄』1983年思潮社、p.243)

わたしがいま追求しているのは、ゆり子が伊東に「モルゲン」を聞かせた日はいつかということだ。
この「まだあの人が「コギト」に出ず「呂」などに拠ってた時」という時期をどう捉えたらいいのかという問題がある。
その周辺の問題を含めて時系列で示すとこんなことになる。

昭和四年(1929)、(23歳)
三月、京都大学文学部卒業。
四月、大阪府立住吉中学に赴任。
八月、同人誌『明暗』に参加。
昭和五年(1930)、(24歳)
四月、住吉中学教諭に昇格。
七月、音楽を聞きたいという熱願。
八月、琵琶湖のへりをぶらぶらする(20、21日)。〔誰と? ひとりで?〕。
九月、メーリケの『旅の日のモーツアルト』を読む。
十月、詩を書く(「生物の道」?)。
十二月、諌早でセガンティーニを知り画集を得る。〔「女であるゆり子さんにみせたくあります」〕(1月7日書簡)。
昭和六年(1931)、(25歳)
三月、ゆり子同志社女専卒業。姫路に戻る。
十一月、『呂』の同人に勧誘される。
昭和七年(1932)、(26歳)
二月、父惣吉死亡(12日)。約一万円の借金ともども家督を相続する。音楽への関心を深める。
四月、山本花子と結婚(3日)
六月、『呂』創刊。
十月、詩集の出版を考える。
昭和八年(1933)、(27歳)
三月、「コギト」の同人と交友がはじまる。
六月、「コギト」からの依頼に応じて「病院患者の歌」を送る。
昭和九年(1934)、(28歳)
五月、「四月の風」を「コギト」送る。
七月、「晴れた日に」を「コギト」に送る。
十月、「呂」を離れ、「コギト」に専念するようになる。
十一月、『コギト』に「わが人に与ふる哀歌」発表(第30号)。
昭和十年(1935)、(28歳)
十月、詩集『わが人に与ふる哀歌』刊行。

伊東静雄の手紙からわかることを大まかにたどると、大体こんなところである。先に引いた文章で酒井ゆり子の言っていることが正しいとすれば、ゆり子が伊東に「モルゲン」を聞かせたのは、昭和六年三月から昭和九年十月までの間ということになるだろう。ゆり子が、伊東がどのような仲間の間で詩を書いていたかをよく知っていたとは思えないのだ。

それでは、この期間の間で、さらに日を詰めることができるだろうか。



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今日はいい日だった

2009/10/12 01:08
瀬谷こけし
秋らしい天気だった。空気が透明で。
これから、落ち葉が散り果てるまで、きっと秋の日を楽しむことができる。
この日がこんな日だったのだということを、味わいぶかく感じる。
その日、甲戌、先負、月齢18。
久しぶりに子供たちがみな家に戻ってきた。
特に健康を案じなければならないような家族はいない。
それがどれほどよいことが。

父のことを思えば、
それがとてもありがたいことだと思う。
かたじけないことだ、と
こころのどこかしらで思う。

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ある日の伊東静雄(四)---Morgen!---

2009/10/10 19:15
瀬谷こけし
ここで問題の詩、「モルゲン」を紹介しておこう。
まずはジョン・ヘンリー・マッケイの詩集から。

Morgen!

Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
Und auf dem Wege, den ich gehenn werde,
Wird uns, die Seligen, sie wieder einen,
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde …

Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen.
Stumm warden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes großes Schweigen.
(John Henry Mackay’s Ausgewählte Gedichte, Verlag der Macky-Gesellschaft, 1984)

どうだろう。ドイツ語の心得のある人はぜひ訳読にチャレンジしてほしい。第一連の三行目が難しい。だがまたもっと見落としがちなのが第二連の最後の行である。シュワルツコップモ、フィッシャー=ディスカウも読み落としていないが、ドイツ語圏の出身でない歌手は、だいたいそのニュアンスをつかみきれていないのだ。

とはいえ先述したように、日本人がもっとも文法的に解釈しずらくなるのは第一連の三行目だ。

酒井ゆり子は、後に川副国基の質問に答えて、手紙にこう書いている。

>私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、(伊東は、引用者補)竹久夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語の歌詞を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながらいつまでも見ていましたが……
(川副国基「詩人伊東静雄の報われぬ愛」、『現代詩読本10 伊東静雄』思潮社、1979、所収)

あの、ヘルダーリンの翻訳に誘われるほどドイツ語に堪能だった伊東静雄でさえ、初見ではこの詩の意味がつかめなかったのだ。それは、断言していい、三行目の終わりの”einen”をどう解いていいのかわからなかったのだ。

わたしが思うのは、伊東が、もしこの時この場で、この詩の意味を適切につかむことができていたならば、ゆり子との関係も変っていたのではないか、ということなのだ。言霊の力、言霊の幸いというものは、ある思いの、ある事柄の、すっきりした把握から生れるものなのだ。

伊東静雄は、この時に、まさにこの時に、それに失敗してしまったのだ。まるで運命のように。「ゆり子さん」と呼び掛けようとして、その名が出てこなくなるような、そういう一瞬の魔に、このとき伊東静雄はとらえられていたのではないだろうか。普段の伊東であれば、この”einen”が動詞であるというような別の考えが、さほど苦もなく浮かんできたことであろう。それができない何かがそこにあった。楽譜に付けられていた柴田柴庵のあやしげな日本語訳のせいかもしれない。あるいは竹久夢二の挿画のせいかもしれない。この時、何かが伊東静雄を混乱させ、酒井ゆり子との仲を近づけさせないような力として働いていたのだ。

この時伊東静雄は、いつまでもドイツ語の字面を追いかけていたのだ。やがては呆然としてただ見ているだけになっていた。このとき、二人の関係の中の何かが終わった。それは多分昭和六年のことだ。場所は姫路の酒井家の応接間だろうか。レコードが聴ける部屋だ。伊東静雄と酒井ゆり子の二人の心は、太陽によってひとつに結び付けられることはなかった。シュトラウスの「モルゲン」の音楽が懸っているまさにその部屋のただなかで。「モルゲン」の語る「太陽が二人を一つにする」というその関係が、そのとき伊東静雄には読み取れなかったのだ。その時ゆり子の方は、柴庵の訳詩におおまかに従いつつ、二人が一緒になることの至福を歌う詩であり音楽であることを理解していた。そう考えてゆり子は「モルゲン」を静雄に聞かせたのだ。

ある日の伊東静雄、それは何年のいつのことだったのだろう。ゆり子はその時期について「私が卒業して姫路にいたころ、まだあの人が「コギト」に出ず、「呂」などに拠ってた時ではなかったかと思いますが」と言っている。年譜によれば伊東が「コギト」詩を出しはじめるのは昭和八年八月のことだ。そしてゆり子が卒業して姫路に戻るのは昭和六年三月のことだ。それでは伊東静雄が姫路に行って、ゆり子とともに「モルゲン」を聴いたのはその間のいつのことだったのか? 遺され、公開されている手紙のなかに、それをより狭く特定する手がかりはないのだろうか。



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ある日の伊東静雄(三)---余談(杉本秀太郎の解釈の余白に その二)---

2009/10/10 05:34
瀬谷こけし
ついでにもう一点、杉本秀太郎の解釈への違和感を記しておきたい。

杉本は、伊東静雄の昭和十年十二月二十一日づけの酒井ゆり子あての手紙に出てくる「いろんな事実」を楽譜『モルゲン』と関連づける小川和佑の解釈に反対して次のように述べる(ちなみにわたし自身は小川和佑の「前記の静雄の書簡にある「いろんな事実」とは、この楽譜『モルゲン』との接点を指したのであった」という説に賛成している)。

>「接点」という語は苦心の用語にちがいない。しかし、伊東静雄の手紙にいう「いろんな事実」が『モルゲン』に果たしてかかわるかどうかは、にわかに判じがたい。すでにしるしたように、手紙の文脈では、まずは地名にかかわることとするのが自然なことに思われる。仮に「いろんな事実」を広げてゆけば、伊東静雄の視野にいつも入っていたセガンティーニ、ヘルダーリン、ゲーテ、リルケ、『古今和歌集』、『伊勢物語』、芭蕉、蕪村、いずれも『モルゲン』と同じ資格で「事実」の仲間入りをするだろう。散歩も昼寝も、学校も、帽子も靴下も、伊東静雄の生活上の一切のモーメントが同じ仲間のうちである。
(杉本秀太郎『伊東静雄』1985年、筑摩書房、pp.170-171。強調は引用者)

この解釈も途方もない。まずなによりも「いろんな事実」が酒井ゆり子にとっても推測されること(=秘めた事実)でなければならない、という当然のことを杉本は忘れてしまっている。ゆり子が思いもよらないような、伊東の一身の経験に関ること、たとえばどれも同じような靴下に昨日できた穴などは、ゆり子なら推測できる事実と何の関係もないのだ。杉本は手紙の文脈で出てくる「いろんな事実」を解釈するための前提を忘れて暴走している。まるで真実からひとのめを遠ざけるのがほんとの狙いであるかのように。

そしてそれはまずは「事実」という言葉のニュアンスの誤解から生じていることだ。この「いろんな事実」を杉本は「手紙の文脈では、まずは地名にかかわることとするのが自然なことに思われる」と言うが、賛同しがたい。それはずいぶんニュアンスの読みを欠いた解釈だろう。伊東が地名を出してくるのは、まずは韜晦のためである。恋慕の情を韜晦するためである。「いろんな事実」は、二人の間でなら間違いなくわかるある事実のことである。それは、この手紙の文脈で見れば、二人で聴いた、もしくは楽譜で見た、シュトラウスの「モルゲン」である。なるほど詩集『哀歌』のなかには、二人の間でだけ了解されるさまざまな事実があるであろうし、「いろんな事実」は共有されるさまざまなことを指すであろうが、こと詩「哀歌」が問題であるなら、まさに「モルゲン」にかかわる「事実」が最も重要なことのの一つであるはずだ。そのつながりをゆり子自身が言っているのであるから。

伊東の十一月二日のゆり子宛書簡のその部分を紹介しておく。

>あなたこそ、私の第一番に送らねばならぬひとです。私の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。家島のことや姫路のことや本明川のことがどつさり歌つてある筈です。
(『伊東静雄全集』昭和四十六年、人文書院、p.391。強調は伊東)

「事実」とは畢竟すれば、ゆり子への愛のことである。さまざまな情景のもとで、さまざまな機会に、そしてさまざまな関係の網のなかで感じてきたゆり子への愛。とりわけ関係のさまざまな網こそ、ゆり子にしか感じ取れないはずのものなのである。





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ある日の伊東静雄(二)---余談(杉本秀太郎の解釈の余白に)---

2009/10/10 04:27
瀬谷こけし
(一)で引いた伊東静雄の昭和十年(1935年)十二月二十一日づけの酒井ゆり子あての手紙を再び紹介しておく。次のものである。
>この前お逢いしたとき私の哀歌はモルゲンに似てゐる。又拒絶という題は独逸のリードに似てゐるといはれましたが、あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです。身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました。

この手紙に関連して杉本秀太郎は次のように言う。
>けれども、詩集が出版されて間もなく、このひとが伊東静雄に伝えた感想、『哀歌』は『モルゲン』に似ているという感想のほうは、舌足らずなのは言うまでもないが、なお考慮の余地を残す。『哀歌』につづくはずの次の詩集名『拒絶』という題はドイツリートに似ていると酒井百合子が言った。伊東静雄がこの言葉を尊重している点を考え合わせるなら……
(杉本秀太郎『伊東静雄』1985年、筑摩書房、pp.169-170)

この手紙のなかの哀歌と拒絶を杉本は詩集と考えているのだ。この考えはわたしからみると途方もない。というのはつまり第一に、詩集『哀歌』全体が、シュトラウスのop.27の中の一曲「モルゲン」と似ているという風に言うことが、そもそも考えられないことだからだ。「モルゲン」との類似を考えうるとしたら、それは詩集『哀歌』ではなく、詩「哀歌」の方のはずだ。それを杉本は詩集『哀歌』の話に仕立てあげているのだ。これは途方もない考えだ。

第二に、伊東静雄がこのころ『拒絶』というタイトルの第二詩集を出そうとしていたことは、同年十一月二日の同じく酒井ゆり子あての手紙の中に「来年の六月頃またポケットには入るほどの詩集を出すつもりでゐます」と言っていることから明らかだが、ゆり子が述べたという「拒絶という題は独逸のリードに似てゐる」という感想が、来るべき詩集『拒絶』の全体にかかわる感想と考えるのも途方もない考えである。というのも、このゆり子の感想が「拒絶という題」にだけ関わるものであって、その詩集の構成内容にまで関わるものでないことは明らかだろうからだ。ゆり子が知っていたのは、十一月二日の手紙で伊東から示された「詩集の題」だけのことであって、その内容を知っていたとしてもせいぜい詩「拒絶」一篇かそこらでしかないだろうからだ。
ちなみに、「拒絶」という詩は次のものである。

  拒絶
荒れにし寺井のほとり
白き石の上に坐り
多くの時をわれは消しぬ
意味ありげなる雲浮かび
草は莖高く默し……
またも夏の来れるさまを見たり
わが胸を通らずなりにしのち
しかく尚わが目にうつり
四季のめぐり至るは何ゆゑぞ
萬物よはやわれに關(かゝ)はるなかれ
隠井(こもりゐ)の井水(ゐみづ)はあへて
汝らを歌ふことはあらじ
(『拾遺詩編』)

『拒絶』という詩集は出されなかった。だが拒絶というタイトルから、ドイツリート、おそらくシューベルトの『冬の旅』を連想したゆり子の読みは、きわめて正しいものであった。それはゆり子自身がその「拒絶」の当事者であるから、であろう。





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ある日の伊東静雄(一)

2009/10/09 02:55
瀬谷こけし
伊東静雄を読むと、胸が張り裂けそうになる。それは何よりも彼を衝き動かしていた疾風がなまなましいからである。そしてその疾風はどこに落ちたものか。その疾風はこれもまた激しく「地を襲ひ砂を飛ばせ」たのであった。そういった疾風の行方が痛ましい。


今わたしが取上げたいと思っている「ある日」だが、それがいつかということがよくわからない。伊東静雄の昭和十年(1935年)十二月二十一日づけの酒井ゆり子あての手紙に、つぎのようなことばがある。「この前お逢いしたとき私の哀歌はモルゲンに似てゐる。又拒絶という題は独逸のリードに似てゐるといはれましたが、あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです。身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました」。ここで言われる「哀歌」は、詩集『わがひとに與ふる哀歌』のことではなく、詩「わがひとに與ふる哀歌」のことであり、「拒絶」も詩「拒絶」のことである。この酒井ゆり子が、この前会ったときに述べたという感想が問題なのだが、詩「拒絶」は詩集『わがひとに與ふる哀歌』(以下『哀歌』と略)には収められていないのである。だからこの感想は、詩集『哀歌』とは別の仕方でゆり子が印象にとどめていた詩であるということになる。

それで、上に引いた手紙のなかの「この前お逢いしたとき」というのは普通はその年の十一月二十三日夕に開かれた『哀歌』の出版記念会のことと考えられ(1)、わたしもそれに間違いないと思うのであるが、そうだとすると、この記念会の時に(その席上かどうかは別にして)ゆり子はこの伊東静雄の記念すべき最初の詩集に含まれていない詩についてコメントしたことになるのである。

しかし、それもたいしたことではないかもしれない。おそらく最良の読者と思われ、伊東の多くの詩を最初に与え示されてきたゆり子にとっては、とりわけその二篇の詩が、印象深く、そしてコメントしたいものだったに違いない。とりあえずそのように理解しておいて、この手紙からみると、伊東は、ゆり子はもちろんだが、このとき「モルゲン」を知っているのである。「モルゲン」とは、ジョン・ヘンリー・マッケイの詩にリヒャルト・シュトラウスが曲をつけたものであり、シュトラウスはそれを1893-94年に作曲し、さらに1897年にオーケストレーションした。シュトラウスの曲と別にマッケイの詩を読むということは考えがたいので、ここはゆり子も、伊東も、シュトラウスの曲を通して「モルゲン」を理解しているに違いない。

問題は、その「モルゲン」を、ゆり子と伊東はそれぞれ、どのようなものとして理解していたか、ということなのである。ゆり子の父酒井小太郎は英文学者だった。ドイツ語の素養もなくはなかったであろう。だがゆり子が父にこの詩の意味を尋ねたかどうかはわからない。慎重なゆり子のことだから、こうして伊東に感想として堂々と引いてみせる所をみると、その可能性もなくはないのだが、だがそこのところの真相はわからない。他方で伊東の方は、おそらくこの曲を姫路の酒井家の家で、ゆり子に紹介されて、ゆり子とともに聴いている。そしてそれ以降も、この曲を聴きと歌詞を読んだことはなかったのではないだろうか。そのマッケイのドイツ語の詩は、落ちついて読まないと、日本人にはなかなか読みにくい、誤解しやすいものであると思う。あるよく見慣れた一語が掴みにくいのである。その一語とは”einen”である。不定冠詞(もしくは不定代名詞)男性単数4格、と普通なら直ちに考えてしまう所である。だがそれが違うのである。そこのところを次にみることにしよう。




(1) 小高根二郎『詩人とその生涯』1976年、国文社、p.283。


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台風のあとで

2009/10/07 11:30
瀬谷こけし
台風のあとで父と海に行ったことがある。
鵠沼の海だ。
台風一過の翌朝のことだったと思う。

海岸を歩いた。
浜にいろいろなものが打ち上げられていた。
魚も何匹か砂にまみれてあった。
「昔は台風のあとにはこうやって浜に来て、打ち上げられた魚をとっったものだ」
というようなことを父は言った。
自分のことかもしれない。
あるいはもっと一般的な、普通の人々のことかもしれない。
今治の豆腐屋に里子に出されていたころのことかもしれない。
その今治中学での生活のなかで、あるときこのままではだめだ、と思って、決意して勉強をはじめたと、これは母から聞いた。

父と台風のあとの浜を歩いたのは一度だけではなかったかも知れない。
もう一度そんなことがあったような気がする。
わたしが小学校だったころの話だ。
一度は江ノ島に台風が上陸した時の翌朝だっただろう。
台風の目の中に入って、風が止んで、驚くほど静かになったことを経験している。

父と二人きりでした経験は、どれも心に残る。

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連帯

2009/10/07 00:02
瀬谷こけし
地方の大学では、
まして地方の私立大学では、
ふんだんな研究費、研究時間を得ることはほとんど有り得ないことだろう。
他方で、ふんだんな研究費を投じて押し進められる研究というのは少なくない。
そういう環境にいて、
そういうスタイルの研究があたりまえだと考えている人たちに対して、
違和感がぬぐえない。
あなたは、ご自分がもし地方の小規模な大学や研究機関にいたら、どんな研究をなさるつもりか、と問いたくなる。

地方でも、恵まれない条件のもとでも、研究を続けるひとたちがいる。
地方での授業を組み立てていて、
そういう人たちに会った。
多くは大学に所属するのではない。

地方で、恵まれない条件のもとでも研究を続ける人たちと連帯したい。


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  あやしげな鎮魂 (追い出しの思想)

2009/09/24 22:16
瀬谷こけし

 狩猟文化の研究をして、熊狩りをする猟師のいる村々を訪ねていると、その村に住んでいた人々が、ダムを新設するために追い出されるということを幾度か経験する。青森県西津軽郡の砂子瀬・河原平(目屋ダム・津軽ダム)、岩手県花巻市湯口村豊沢(豊沢ダム)、岐阜県揖斐川上流の徳山村(徳山ダム)、岐阜県丹生川村五味原(丹生川ダム)などだ。最近ではここ七、八年、毎年熊狩りに連れていってもらっている猟師橋本繁蔵さんの生まれ故郷である五味原のことが心にかかる。工事が始まって、地形ごと原形がわからないほどに破壊されてゆくさまを毎年見ていると、わたしが育った村ではないものの、やはり心が痛む。あそこに屋敷があって、あそこに畑があり、田圃があった、と最初の年から教えてもらっていたので、その土地の、最近の急激な変貌ぶりは悲しく、痛ましい。

 生まれ故郷から追い出されること。実をいえばわたしに最も身近な「追い出され者」は、義父だった。義父は岐阜県白川村の尾神の出身だった。村は御母衣ダムのために沈んだ。実家は寺をやっていたという。柳田国男の言う毛坊主の寺だろう。義父はダムの水が少ないときには橋が見えるといっていたが、そこを案内してもらうこともないまま、今年亡くなった。御母衣ダムは電力開発のために国策として造られたものと聞く。もちろん水没予定地の人々は猛反対したという。そして若山芳枝を先頭に「死守会」を結成し反対を続ける。しかしその間も交渉が行われ、いわゆる分断工作も進められる。義父はそのことについても何も語らなかった。ただある時「御母衣ダムというが、御母衣地区は沈んでないんだぞ」と言った。無駄ごとを一切言わない義父だが、義父にはそのダムの名称に割り切れないものが残っていたのだろう。

 この問題の解決に向けて画期をなしたのは、当時の電源開発副総裁、藤井崇治が1956年に「死守会」住民に対して示した『幸福の覚書』だったという。その内容は、「御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、これを実行することを約束する」というものだった。ここに示される姿勢にはやむなくして「立ち退き」を求める場合に考えられる「最良」のものがあるように思う。また工業立国を進める当時の日本にとって、新しい電力の開発は不可欠のものであっただろう。他方で住民の生活スタイルの破壊は、やはり壊滅的なものであろうと思われるのであるが(1)。

 わたしは御母衣ダムのあたりには何度も行っているのだが、ここは必ずしも不快な場所ではない。それは余分な施設が一切ない潔さによってである。車を止めて湖を見下ろす場所すらないのである。ダムはそのダムの存在だけで意義のある施設であるべきではないだろうか。観光風の、あるいは鎮魂風の美的装いの施設があると、わたしはすぐにうっとうしくなってしまうのだ。それらは通例、そこを追い出された人々の創案によって作られたものではなく、むしろ追い出した側の人々が自分たちの顧慮に基づいて作ったものなのだ。そのどこかわざとらしい意匠の数々、そういうものを見るたびにわたしは不快になってしまうのだ。そこには何か、まがいものによって「鎮魂」を済ませておこうとするような思想を感じるのだ。そのために多く用いられるのが芸術風の意匠である。そしてまた展望台をはじめとして観光的な施設もよく造られるものだ。最近では温泉づくりも流行っている。それらにふんだんな金が投じられている。また水没した村の生活道具をあつめ、保存した民俗資料館のような施設も必ずと言ってよいほど作られるが、そこにどれだけの熱意がこめられているかはしばしば疑わしくなる。御母衣ダムが気持ちいいのは、ここにそうしたまがい物のような施設が一切ないことだ。

 この追い出しの思想を探ってゆくと、『常陸国風土記』行方郡のある条のことが思い浮かぶ。そこの夜刀(やつ)の神の話だ。夜刀の神とはそこの蛇のことだと言われるが、いずれ先住者のことだ。この神は二度追い出されることになる。はじめは継体天皇の時代に。箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)は、その郡の西の谷の葦原を切開き、開墾して新たに田を作ろうとする。するとその時蛇がたくさん出てきて、邪魔をし、耕作をさせてもらえない。そこで麻多智は甲鎧(よろい)を身につけ、仗(ほこ)を手にとって蛇を打ち殺し、追いやる。そして山口の境界の堀に標の大杖を立てて、夜刀の神に「ここから上は神の地にすることをゆるす。だがここから下は人の田とせよ」と告げる。そしてさらに、今後自分は神の祝(はふり)となって永代に敬い、祭る。だから決して恨んだり祟ったりするな、と言いやるのである。そして実際社を設け祭りを始め、子孫がずっと祭りを継承したというのである。おそらく神田も用意したことだろう。

 ここには、先住者を追い出したからには、一族のものが永代にわたってその神のために祭祀をつづける、という思想がある。恩恵を忘れず、そしてみずからも犠牲や負担を負いつづけるというのである。ここには、みずからが追い出した者の魂の鎮めとして納得できるものがある気がする。

 だが次に孝徳天皇の時代には、壬生連麿(みぶのむらじまろ)が、この谷を占有して、堤を築き、池を作る。池の辺の椎木に夜刀の神が昇って集まるが、それに向かって、麿は、「この池を作るのは、要は民を活かすためなのだ」と言い放つ。そして加えて、「おまえたちはどうして風化(おもむけ)に従わないのだ」と、かえって夜刀の神の不服従を咎めるのである。そして魚虫の類のもの(夜刀の神を含む)をことごとく民に打ち殺させるのである。

 ここには対話的な姿勢がまったくない。あるのは自称する善悪の押し付けと不服従な相手の殲滅だけである。「要は民を活かすためなのだ」という言葉がどれほど建前だけのことかということを感じさせる。大化時代から始まったことの一面がここにはよく読み取れる。われわれはそこからまだそれほど隔たっていない。わたしには、バラク・オバマ米国大統領が表明する対話の姿勢に、期待するものが大きいのである。



(1)若山芳枝『ふるさとはダムの底に』(小寺廉吉編著『山村民とその居住地(ふるさと)の問題』1986年かとう印刷所、所収)の随所を参照。



本稿は、
『歴史懇談』第二十三号(創立二十五周年記念号)、平成二十一年八月、大阪歴史懇談会、に寄稿したものです。


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『土佐日記』の歌六十一首

2009/09/15 21:54
瀬谷こけし

(○印は「亡き子」についての歌)



(01)都出でて君に逢はむと来しものを来しかひもなく別れぬるかな

(02)白栲の波路を遠く行き交ひて我に似べきは誰ならなくに

(03)都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり ○

(04)あるものと忘れつゝなほ悲しきは帰らぬ人のあればなりけり ○

(05)惜しを思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は気にけり

(06)棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな

(07)浅茅生の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり

(08)行く先に立つ白波の声よりも遅れて泣かむ我や勝らむ

(09)行く人もとまるも袖の涙川汀のみこそ濡れ勝りけれ

(10)照る月の流るゝ見れば天の川出づる港は海にざりける

(11)思ひやる心は海を渉れども文しなければ知らずやあるらむ

(12)見渡せば松の末ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる

(13)春の野にてぞ音をば泣く、若薄に手切る切る摘んだる菜を、親やまぼるらむ、姑や食ふらむ。帰らや。 (船歌)

(14)昨夜のうなゐもがな、銭乞はむ、虚言をして、おぎのりわざをして、銭も持て来ず、おのれだに来ず。 (船歌)

(15)まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな

(16)世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな ○

(17)雲もみな波とぞ見ゆる海人もがないづれか海と問ひて知るべく

(18)立てば立つ居ればまた居る吹く風と波とは思ふどちにやあるらむ

(19)霜だにも置かぬ方ぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける

(20)水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるは桂なるらし

(21)影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎ渡るわれぞわびしき

(22)磯ふりの寄する磯には年月をいつとも分かぬ雪のみぞ降る

(23)風に寄る波の磯には鴬も春もえ知らぬ花のみぞ咲く

(24)立つ波を雪か花かと吹く風ぞ寄せつゝ人をはかるべらなる

(25)青海原振り放け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

(26)都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ

(27)なほこそ国の方は見やらるれ、わが父母ありとし思へば。帰らや。 (船歌)

(28)わが髪の雪と磯辺の白波といづれまされり沖つ島守

(29)漕ぎて行く船にて見ればあしひきの山さへ行くを松は知らずや

(30)波とのみ一つに聞けど色見れば雪と花とに紛ひけるかな

(31)わたつみの道触りの神に手向する幣の追風止まず吹かなむ

(32)追風の吹きぬる時は行く船の帆手打ちてこそ嬉しかりけり

(33)日をだにも天雲近く見るものを都へと思ふ道の遥けさ

(34)吹く風の絶えぬ限りし立ち来れば波路はいとゞ遥けかりけり

(35)おぼつかな今日は子の日か海人ならば海松をだに引かましものを

(36)今日なれど若菜も摘まず春日野のわが漕ぎ渡る浦になければ

(37)年ごろを住みし所の名にし負へば来寄る波をもあはれとぞ見る (なくひ)

(38)玉くしげ箱の浦波立たぬ日は海を鏡と誰か見ざらむ

(39)曳く船の綱手の長き春の日を四十日五十日まで我は経にけり

(40)麻を縒りてかひなきものは落ち積もる涙の珠を貫かぬなりけり

(41)寄する波打ちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ ○

(42)忘れ貝拾ひしもせじ白珠を恋ふるをだにも形見と思はむ ○

(43)手を漬てて寒さも知らぬ泉にぞ汲むとはなしに日ごろ経にける

(44)行けどなほ行きやられぬは妹績む小津の浦なる岸の松原

(45)祈り来る風間と思ふをあやなくも鴎さへだに波と見ゆらむ

(46)今見てぞ身をば知りぬる住の江の松より先に我は経にけり

(47)住の江に船さし寄せよ忘れ草しるしありやと摘みて行くべく ○
(うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地しばし休めて、またも恋ふる力にせむ、となるべし。)

(48)ちはやぶる神の心を荒るゝ海に鏡を入れてかつ見つるかな

(49)いつしかといぶせかりつる難波潟葦漕ぎ退けて御船来にけり

(50)来と来ては川上り路の水を浅み船もわが身もなづむ今日かな

(51)疾くと思ふ船悩ますはわがために水の心の浅きなりけり

(52)世の中に絶えて桜の咲かざらば春の心はのどけからまし

(53)千代経たる松にはあれど古の声の寒さは変はらざりけり

(54)君恋ひて世を経る宿の梅の花昔の香にぞなほ匂ひける

(55)なかりしもありつゝ帰る人の子をありしもなくて来るが悲しさ ○

(56)さゞれ波寄する文をば青柳の影の糸して織るかとぞ見る

(57)ひさかたの月に生ひたる桂川底なる影も変はらざりけり

(58)天雲の遥かなりつる桂川袖を漬てても渡りぬるかな

(59)桂川わが心にも通はねど同じ深さに流るべらなり

(60)生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ ○

(61)見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや ○
(忘れ難く、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。/とまれかうまれ、疾く破りてむ。)



(新日本古典文学大系24 岩波、による)



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なめとこ山の哲学 00 序

2009/09/12 13:34
なめとこ山の哲学



 なめとこ山の熊のことならおもしろい、と宮沢賢治は言う。作品「なめとこ山の熊」の冒頭での話だ。しかし、この「おもしろい」とは、この作品に描かれる「なめとこ山の熊たち」と主人公の猟師、淵沢小十郎たちの織り成す話のことなのだろうか? そうだとすると、「おもしろい」とは簡単に同意したり理解したりできることではない。この話は、普通にいうならば、おもしろい話というよりは、悲しい話であろう。宮沢賢治が描いた、多くの話と同じように。例えば、作品「なめとこ山の熊」は、作品「二十六夜」とよく似ている、とわたしは思う。宮沢賢治は、何のことを、どういうことを思って、つまりどいういう意味を込めて、おもしろいと言ったのだろうか? もしかしたら、賢治が言ったのは、なめとこ山あたりの熊たちのことなのかもしれない。そこ熊たちのことを、賢治は、少しは聞き知っていた。今日地元のひとたちにきけば、みな、等しく、なめとこ山あたりの熊は性格がおだやかだと言う。早池峰山をはじめとする北上山地の熊たちに比べたら、ずっとおとなしいという。事故に遭う人もめったにいない。なめとこ山あたりの熊はおだやかだ。賢治がこの作品を書いたとみなされる昭和二年ごろがどうだったかは知らない。また、何が原因でそうなのかも知らない。しかし、なめとこ山のあたりにはブナやナラの林が保たれており、それはひとつ峠を越えて雫石町に入れば、はっきりと違いがわかるものだ。なめとこ山のあたりは山が豊かだ。杉や檜といった針葉樹の植林は、ほとんど見られない。山がゆたかで、山の食べ物もゆたかなのだ。熊たちもたべものの争いをあまり知らないのかもしれない。もっとも、わたしが言っているのは、最近の話、せいぜいここ数十年の話で、それ以前のことはほとんど知らない。もっとも、鉛から豊沢にかけて、多くの人が炭焼きや山菜取りで生活を組み立てていたということは聞いている。豊かな山と山の恵みに、ひとははおそらくは今日以上に恵まれていたに違いない。だから最近でも大村(雫石町)の猟師は、熊をとるために、オートバイで峠を越えて、なめとこ山のあたりに来ていたのだ(檜山善六氏談)。豊かな山の豊かな恵み、これは宮沢賢治の時代から、なめとこ山あたりの生き物たちに恵まれていたものにみえる。なめとこ山の熊たちは、食べ物には困っていなかった。
 これが「なめとこ山の熊」の舞台をなすなめとこ山あたりの山々の様だ。熊たちには、猟師さえいなければ、平安な生活が約束されている。仲間同士の、個体間の争いは、当然あるにしてもだ。だがそこに猟師が住み着いて、熊狩りをかてに生活を組み立てていたとすれば、そこに、熊たちにとって、のっぴきのならない問題が生じる。猟師淵沢小十郎とその家族がどのようにしてこのなめとこ山の近くに住み着き、そしてそこの村人たちとどのような交わりを結んでいたか、それはこの話ではよくわからない。というより、宮沢賢治自身がそのことについて明確な理解をもっていたようには思えないのだ。猟師淵沢小十郎のモデルとみなされる松橋和三郎が、どのようにしてこのなめとこ山の近くの村、つまり湯口村の豊沢部落に受け入れられ、住み着いていたか、ということについては、今日少なからぬことが判明しつつある。その村(豊沢村と呼んでおく)の総本家である中野家(屋号)からかまど(分家)にしてもらい、「にらげ」という屋号をもらって豊沢川の川の近くに家を構えていたことが、今日ではわかっている(1)。じっさいこのように、村から、分家として仲間に入れてもらえなければ、村に定住して生活していくことはほとんど不可能であっただろう。山中にこっそりと小屋がけしてひっそりと住むようなことも、村人の承諾なくしては困難だったはずだ。村の多くの人が付近の山の恵みによって生活を組み立てていたのであるから。こっそりと家族生活をいとなむというようなことができたはずがない。宮沢賢治のこの点でのあいまいさ、不明確さは、この作品に深刻な疑問を残してしまっている、とわたしは思う。「仕方なしに猟師なんぞしるんだ」という小十郎の決定的な言葉と認識が、信憑性を疑われるのである。
 しかし、それにしても「なめとこ山の熊のこと」は、なぜ「おもしろい」のだろうか? 熊たちの生き死に、そしてその思いの数々は魅力的だ。その魅力的な生き物の社会を発見したこと、きっとこれはおもしろいことだったに違いない。弱い生き物ではなく、主(ぬし)のような生き物。そのような生き物が主人公になること、これは賢治の語った物語の中でもきわめて特異なことだ。人間さえいなければ熊は山の生き物の食物連鎖の頂点に立つ。いやいや、人間さえ恐くはない。恐れるべきものは人間のなかでも猟師という特別の存在だけだ。そしてその猟師というものも、この山々には小十郎以外の者は入ってこない。用心すべきは小十郎ただひとりだ。それほど困難なことではない。むしろ知恵比べ、技比べを楽しめるというぐらいだ。もちろんそれには命を賭けることになるが、熊の方にも十分に勝機はあるのだ。もっとも子育てをする母熊であれば心配の種はさらに多い。子熊は、油断をすればキツネにもタカにもやられてしまう。崖から落ちることだってあるかもしれない。心配しなければならないことは多い。そしてこの作品で、宮沢賢治はこの作品で、とりわけ母熊という存在に目を注いでいるように見えるのである。母熊という存在こそこの作品の真の主人公であるように見えるのである。

 ところでわたしはこの作品の何に惹かれているのだろう。何に惹かれて本まで書こうというのか? そんな質問が聞こえてくる。当然の問いだ。おまえはそれにどう答えるのか? 
 わたしはかつて、拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』のなかで、宮沢賢治のなかにひとつの多元論を見出した(2)。賢治が「打つも果てるもひとつのいのち」と言う場合、彼はそこで、しばしばそう考えられているように、いのちは根本においてひとつであると言いたいのではなく、むしろいのちは本質において多数であると言おうとしたのだ、と読み解いた。これは賢治自身も明確に自覚していたとは思わないのだが、この多元論の思想のみが、賢治自身の思想を救うものであると見えたのである。そしてそれが賢治自身によって無意識に予感されていると見えた。実際ひとつの生命が殺しあいを続けるのであれば、生命の世界全体が矛盾に巻き込まれ、汚れたもの、全体として否定されるべきものとされる他はない。賢治はこの問題にくり返し直面するのであるが、そのなかで賢治はくり返し不純でないものを見出しているのである。不本意にも死を迎えることになった者たちの、さまざまな納得の形を、そして納得のできない形を、賢治は思索しつづけた。生は決して矛盾しているのではない。異なっているのだ。それぞれの生が。そういう生の多元論的な賢治は見出そうと努めていた。それは多く無意識的な仕事であったであろうが。いわば悲しいお話を越えて、賢治はそこにいのちのかがやきを見ていた。天台教学でいう十界互具の思想は、さまざまな生きものたちのなかに、「仏」そのものとなる生命のかがやきを見出したものではないのか? 賢治の思想も最終的に、「如来寿量品」に言われる仏の常在のもとで、それぞれの生き物がどこでどのようにして仏に出会い、みずから成仏を遂げるかということの探求であり、賢治みずからの実践的な探求であったように見える。晩年の熱苦はその探求のこの上ない機会であった。賢治自身はそれを「道場」と呼ぶ。
 しかしそうだとして、それでなぜ「なめとこ山の熊」か? この作品でいのちの問題が主題であることは言うまでもない。それ以上に興味深いのは、賢治の無意識がここで活発に働いていることである。それはさまざまな記述上の矛盾、不整合、欠陥、穴として現れている。先に見たように、この「なめとこ山の熊」というテキストの織物は、現実の稗貫郡湯口村豊沢(今日の花巻市の西山)の山や川や、熊やひとびとの生活を織り糸にしているために、その織り方の誤りが大変見やすいものになっている。織り方の誤りはひとつ二つではなく、それはこの作品の根本的な主張すら危うくさせているのである。そしてまた賢治作品にしばしば登場する言葉遣いのあいまいさ、不十分さも、ここでは追究することが可能である。よりフィクショナルな作品では、そうした検討がより困難でになるであろう。
 欠陥において、まさに矛盾の開口部において、無意識は活発に働く。そしてその無意識の仕事は、相互につながりあい、せめぎあって、非常に奥深い空間を形作っているのである。いわばイーハトーブよりも深い四次元の空間を。宮沢賢治はわたしにとって、その欠陥をもった無意識の言説においてこの上なく豊かな存在なのである。その道がどこまで届くか、探検してみよう。この作品が招く、なめとこ山を出発点にして。






(1) 拙稿「なめとこ山の熊の胆」(『季刊東北学』第十号、2007年東北芸術工科大学東北文化研究センター)、pp.205-209。
(2) 拙稿「『ひとつのいのち』考」(拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』1997年創言社)、pp.199-222。



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