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「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ

プロフィール

ブログ名
「世界という大きな書物」  中路正恒公式ブログ
ブログ紹介
世界という大きな書物の中に見出した
かげろうのような一瞬の思い、
ポエジーを、
少しずつまとめてみたいと思っています。
文字による学問の外
 (文書への信奉の外)
デカルトより、さらに兼好に近く
兼好より、さらに芭蕉に近く
愚なること、無学なること、誰にも劣らず。

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Twitterと Facebookをはじめました。
http://twitter.com/mnnakajist
http://www.facebook.com/index.php#!/masatsune.nakaji
これらは私からのメッセージです。わたしからのメッセージにはどれも「瀬谷こけし」のイメージがついています。
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私の「なりすまし」にご注意下さい。そのサイトは以下です。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/tad77/ (「h」省略)
ttp://ameblo.jp/designjimusho/ (「h」省略)。

蠅のような存在です。間違ってメールなどを出さないようにご注意ください。
===
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《夕焼け 9月13日》

2017/09/14 00:17
瀬谷こけし


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 今日の夕焼けは特別だった。それはしかし明日への希望に燃えた空というものとは少し違って、また禍々しいことの予兆に見えるというのとも少し違って、また不思議というのでもなく美しいというのでもないようなものだった。確かに壮麗なのだが、喜びをもたらしてはくれない。何なのだろう?
 色合いが特別だった。赤っぽい色が多かった。花で言えば何の花と言えばいいのだろう。思いつかない。台風18号の接近が関係しているのだろうか。
 ところで夕焼けの写真を撮るのは苦手だ。最近はカメラのカラーバランスを変えるよりも、どれだけ露出をアンダーにするかというところを変えるだけで、まずまず目で見たとおりに近い色が出せるようになったが、その上にそれぞれのディスプレイのカラーバランスの調整によって少なからず見え方は違ってくるはずだ。ともあれわたしが見た夕焼けはこんなものだった。撮り始めるのが遅く、華々しいころのものは一枚もないが。写真三枚。

 今日は久しぶりに進々堂で勉強をした。というか、学会発表の準備を。最近自宅以外でよく使う勉強場所は京大の付属図書館なのだが、そこよりも進々堂の方がしっくりくる。人文学なのでテキストをどう読むか、どれだけ正しく深く読み切るかということが勝負なのだが、思考のために場所としてはわたしには進々堂が一番だ。多くの論文をここで書いている。聞こえてくる話もそれぞれの本業のアクチュアルな問題についてのものが多く、いい刺激になる。読んでいたのはニーチェの「救済について」(Zar)だが、その凄まじいリアリティーに驚嘆しながら、これをどうまとめれば人に適切に伝わるかを考えながら読む。問題の肝心なところ、解決法のところで、彼は(ドイツ語の)接続法2式を使っていて、彼にまだ見えていないか、ここではまだ言わないでおくのか、保留をつけた言い方なのだ。翻訳ではそういうところは全く見えない。そして「ewig wieder」(永遠にくりかえして)とういう言葉を、「(行われた)行為をなかったことにはできない」ということに対して使っているのも、驚くべきところだ。氷上英廣さんは「人間存在もまた所業とその罪の負い目を永遠にわたってくりかえすものだ」と訳している(これは適切な翻訳だ)。---これをだれか否定できるだろうか? ミシェル・フーコーが映画《去年マリーエンバートで》を「起こったことと起こらなかったことの区別がつかない」世界の描写として読み取るのも、このニーチェの論点の応用として、そこからの脱出の試みとして、よく理解できるようになる。
 進々堂は、わたしにはきちんとした思考をするのに向いた場所だ。


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【小説】ALWE通り

2017/09/11 15:58
瀬谷こけし


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ALWE通り

 わたしはALWE通りを探していた。たぶんバーゼルの街で。だが、このALWEというつづりは、これが通りの名前とは思えない。それは何の略だったのだろうか? しばらく考えていた。そしてわかった。これは「Alle Lust Will Ewigkeit」の略に違いないのだ。そんな通りはどこにあるのか?
 バーゼルはニーチェの街だ。というより、ニーチェが最初に職を得ては赴任した街だ。だからといって「ALWE」というニーチェ的な名前の通りがバーゼルにあるなんてとても考え難い。だから、この通りの名は、たまたまわたしが夢の中で見た通りの名前に違いないのだ。こげ茶色のレンガの建物に「ALWE Straße」という通り名を示すプレートを見たというだけなのだ。たぶん。

 だがそんなことが何で大事なのだろう? 夢なら夢でいいが、そんな夢がなんで大事なのだろう? わたしはさがしにさがした。夜の通りを一晩さがしつづけていた。そこにわたしのホテルがあるからではない。ホテルがどこにあるかわからなくて夜の街をさがし続けた経験なら何度もあるが、そんな風に今晩泊まるための宿を探していたわけではない。わたしが探していたのは一種の真理なのだ。「Alle Lust Will Ewigkeit」という言葉が示している真理の場所、ひとつの真理の場所をさがし続けていたのだ。この真理が何を表現しているかを掴みたかったのだ。

 チューリッヒにこんな名前の通りはなかった。それはもともと期待もしていなかったのだが。だがルツェルンに行って、トリープシェンの記念館でワグナーの作品世界を描いた絵画を見てたとき、そこにもこの真理を追究している世界があった。「すべての歓びは永遠を欲する」、この言葉が語る真理を、真理の世界を、そういう歓びそのものを。

 わたしはその後バーゼルに戻ったわけではない。だが夢の中でわたしはバーゼルの街でこの通りを探していた。バーゼルにもあるはずだった。「深い、深い永遠を欲する」と追い打ちをかけるように言葉は追いかけてきた。わたしは言葉に追われていたのだ。探せ、探せ、その真理を、と。そうして夜の街をさまよっていた。いや、ほとんど走り回っていた。そう、この真理をわたしは知っているはずだった。そうしてそこを発見したのだった。ほとんど発見したのだった。その名前を「ALWE通り」というスイス語にしてもありそうもないその名前の通りを発見したのだった。

 だから今はそれでいいかもしれない。そこまででいいかもしれない。確かにその真理の世界は存在していたのだ。そして、
これは秘密なのかもしれないが、
この通りはほんとはどこにも存在しているのだった。だがそれはほんとうに掴みにくい。だがほんとうに存在しているのだ。---そのことが大事なのだった。それを、ニーチェも掴んだのだった。そしてそこにひたることができた。何日も、何日も。ナウムブルクの家でも、ワイマールの家でも。

 バーゼルで、あるいは、バーゼルに、わたしはその名の通りを発見した。死ぬ前にまたわたしはその通りを思い出すだろう。その永遠を思い出すだろう。すべての歓びは永遠を欲する、と。その永遠を。



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《ゲーテを援用すること》

2017/09/05 23:53
瀬谷こけし
Hotel Maria
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 海外旅行の大きな楽しみのひとつは、はじめて出会った人と話をすることだ。今回のスイス旅行ではそれが少なかったのが残念だが(*。リゾート地のホテルでは夕食時にウェイターやウェイトレスが、客同士話をしやすいように繋いでくれることが多いが、今年はそんなことは一回だけだった。去年は私の方から「Brennnesselって知ってるか?」と近くのテーブルのドイツ人夫婦に話しかけたりしたものだが、今年はそんなことはしなかった。そもそもレストランでの食事をあまりしなかったせいかもしれない。だが一回だけ、シルス・マリーアのホテルの初日、アラカルトのレストランに行くと、一つ空けた隣の席の女性が、ちょっと試してみないかとワインを分けてくれたことがあった。それをいただくと、「どうか?」と尋ねられる。「優しい感じのワインですね」と答えると、「強くなくって…」と話を繋いでくれる。それで少し話していたのだが、彼女はルツェルンから来たと言っていたと思う。そうこうするうちに、間のテーブルに私と同年ぐらいの男女が座った。それでそれから4人で話すようになった。彼はケルンから来たと言っていた。そして連れの女性は声楽家だと言っていた。それで話が絵画の話になったが、彼は絵画は描く前には思い浮かべられていない細部を描きこんでゆくところに面白みがあると主張していた。それはそれで意味のある主張だと思うのだが、--ゲーテはエッカーマンとの『対話』のどこかで、画家は描く前にその細部まで思い浮かべることができなければならないと主張していた。ゲーテの言うことはもっともで、第一級の画家のほとんどはそれができていると思う。わたしはそんなことをそのケルンから来た男性に言った。---もちろん彼は気分を悪くした。彼はもう一度自説を主張し、わたしはもう一度ゲーテの考えを紹介した。---これは非常によくない事だっただろう。あるいはボッティチエリはモデルの腹部の虫刺され跡をそのモデルの亡くなった8年後にも正確に思い出して描いている、というような話をすればもっとよかったのだ。わたしがよく理解していなかったのは、ゲーテの権威の大きさだった。ゲーテの権威は今日でもなおあまりに大きいのだ。だから、ゲーテの名のもとに何かを言うと、ほとんど反論の口を塞いでしまうことになるのだ。
 それでその後は「ケルンからは何でいらしたんですか?」とか尋ねて、「車を運転して来た」「何の車で?」「BMWだ」「それはいいですね」とか、別の話題に切り替えた。スイスは何処がいいとか、ドイツはどこがいいとか。わたしは「どうしてシルス・マリーアに来たのか?」と尋ねられた。もちろんニーチェの名を出して答える。それには当然のように納得して、ドイツ文化の話になってくる。ヘッセとニーチェとどっちが上か、というような話も出てくる。それから、ドイツ音楽の話になる。「ドイツの音楽家で誰が好きか?」と尋ねられる。わたしが去年ライプチヒで買ったバッハのトートバッグを持っていたので、そちらに話が行ったのだろう。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスはもちろんだけど、今はシューマンとシュトックハウゼンが好きだ、と答える。シュトックハウゼンはケルンの音楽家だと彼は自慢げに言う。シュトックハウゼンを自慢してくれるのがわたしにはうれしかった。そして最近はマルクス・シュトックハウゼンが大変有名なのだと教えてくれる。「マルクスは素晴らしい。日本で聴いたことがある。トランペットでフルートのように柔らかな音を演奏することもできて」等々話が進む。連れの女性はシューマンについて、「美しいけれど難しい」と言っていた。その「難しい」はなかなか説明も難しいようだった。---こんな風に、話がいくらか和やかになったが、彼の方はいくらか不満も残ったことだろう。ややあって、わたしの方が先に席を立って、またお会いしてお話をお聞きしたいものですとあいさつして、別れた。最初に話していた女性は、それより先に席を立っていたが、学校の先生で、学校ではとても厳しい先生だということだった。非常に聡明な印象のひとだった。
 ドイツ文化圏でゲーテを援用してものを語るのはやめた方がよさそうだ。


 * とはいえ、今年はシルスのニーチェ・ハウスでまったく偶然に学生時代の友人と会い、とても有意義な交流ができたということを付け加えておこう。


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《ルツェルン湖の白鳥》

2017/08/30 16:11
瀬谷こけし


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 トリープシェンのワグナー博物館を見にルツェルンに行ったのは8月13日(日本時間)のことだった。この博物館はぜひとも行っておくべきところだった。一つには展示されている絵画によってコジマの人物像がよくわかること。同じく絵画によって『トリスタン』や『ジーックフリート』の作品世界がよくわかること。それらによって私にはワグナーの理解が進み、細やかになり、見方が良い方に少し変わった。そして三つめがこのトリープシェンの邸宅とその立地だろうか。ルツェルンの観光名所とは反対側の湖岸に建つこの邸宅は、自然の素直さがより多くあると思う。そして思いがけずやってきた船で中央駅近くの船着き場まで戻った。
 その行楽地の港のところにこの白鳥がいた。驚いたのはその白の美しさ。首から下全体の羽根の白さがほとんど信じがたいものだった。湖水が並外れてきれいなのかもしれないが、この白鳥自身も羽根に着く異物を自分で取り除いているようだ。これほど体が白く美しい白鳥を見たことがない。チューリッヒ湖の白鳥に数段まさるという印象だった。



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《高山 ゆったりした時の流れを》

2017/08/30 16:05
瀬谷こけし

 図書館で本を読んでいて、疲れて、町に出てみた。街のにぎわいや活気は安らぎとはならない。どこかで安らぐことはできないかと。緑の味噌買橋の近くのベンチにたどり着いた。シルス・マリーアで、あるいはシルス半島で感じていたゆったりした時の流れをこの町では味わえないものかと思ったが、易しくはない。だが、川があって、何か人間たちとは別の、ゆったりした時間の流れを発見することはできた。湖があった方が遥かによいのだけれど。8月29日。
 写真四枚。


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《コルヴァッチ山 2》

2017/08/26 23:21
瀬谷こけし

 8月7日、コルヴァッチ(Corvatsch)山ロープウェイの中間駅で下りて、こうしてピラミッド石を一つ発見したのだが、それからどうしようかというのが次の問題だった。と言うのも、次にしたかったことは最初に尋ねた女性たちの教えに従って(多分別の)ピラミッド石を探すことだったからだ。だからロープウェイの谷駅まで戻らなければならない。既に中間駅から200mほど下りているので、それをまた登るのはしんどい。このところ足をまったく鍛えていないわたしにとってはむしろ下る方が楽に思えたのだ。それで谷駅に向かって下りて行くことにした。だがそんな道はコースにはなく、パノラマ道を外れてショートカットしてゆく他はなかった。
 はじめは軽快である。苔亀石とか、ウサギよりも大きそうな生き物を見つけたりして順調だったのだが、すぐに限界に来た。何と10mほどの崖に出たのだ。ここは下りれない。左手は崖が更に高くなっている。右手はだんだん崖が低くなって見える範囲ではまだ3mはある。だからその先まで行けば崖がなくなっているかもしれない。---そうして100mほど右手に進んだが、崖こそなくなっていたものの滑落した石や岩だらけの山肌で下りて行けそうにもない。---ここはあきらめてパノラマ道まで戻ることにした。戻るのは上り道になるのでかなりこたえる。小さな峠を一つ越えて、カウベルの音が聞こえてきた時はすごくうれしかった。ハイカーたちの姿も見える。しかし、今は使われていない古いロープウェイの下を越えて更に南にゆくと、谷駅からは遠ざかるばかりだった。しかしともかくパノラマ道には復帰した。やがてスーレイ行きという道案内があったが、それが谷駅方面に行く道がどうかわからず、しかも道が踏み分け跡すらはっきりしていないところなので、見過ごし更に南に進む。だがこれではらちが開かないと思い、あるパーティーの人たちに尋ねた。どうすれば谷駅に行けるのだろうかと。そのグループのリーダーとみえる女性が地図を出してルートを検討してくれた。わたしは観光用の鳥瞰図しか持っていなかったのだ。その人が言うには、さっきやり過ごしたスーレイ行きの道を行くのが一番確実だ。だがこの草原をショートカットして行けるのならそうやってあそこの建物まで行けば後は行けるだろうと。わたしは草地の斜面をショートカットして行くことにしてそのグループと別れた。
  行くと、草地とは言え相当難ものだった。草地とはいえ、その下は崩れ落ちてきた角の立った石や岩だった。石の上には短い芝のような草が生え、石と石の間には背の高い草が生え、その間の空隙がどうなっているのかは見通しようがなかった。短い草の上だけを踏んで行かなければならない。そうやって北へ向かって下って行くと、この先へゆくなとばかりに、杭が打たれ二本のロープが張られていた。ロープの直径は6mm。これなら足を踏み外した時にも身体を支えられる。だが手袋がない。そこで手ぬぐいを出して右手に巻き、それでロープを掴むようにしていった。その冊の先は水が流れ、岩の落差も大きかった。こうして建物近くの太い道まで出た。太い車が通る道だ。
  その太い道を少し下へ辿ると、今度は幅15mほどの土石流の跡と思える土石道が下に続いていた(この土石流の上方、標高2300mあたりのところで先ほどブルドーザー二台が工事をしていたが、その工事の音が止まった。さっきのい岩雪崩のせいだろうか? 谷筋は違うのだが)。そこの土石流跡に乾いた牛のフンらしきものが一つだけ落ちていた。これはとても励ましになった。四つ足が歩けるなら人間も歩ける。こうしてわたしは道を外れ、土石流の跡らしきものの上を歩いていった。約1km程だろうか、掴まる木も草も岩もないので、自分が滑落しないように十分注意しながら下りた。下りた先には人が集まっていて、飲食を提供してくれそうな家が見えた。後で聞いたのだがここがアルプ・シュレイ(Alp Surlej)というところだった。

遠望者
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これもピラミッド岩。
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苔石。
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四足動物。
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岩雪崩。

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この上のところまで引き返す。
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この草地をショートカットして下の道まで下りれるか?
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張られた6mmのロープで身を支えながら下りる。
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土石流の残した道?
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アルプ・シュレイの店。このヌス・クーヘン(Nuss Kuchen)はとても美味しかった。






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《コルヴァッチ山》

2017/08/26 22:57
瀬谷こけし


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 8月7日の話。わたしがコルヴァッチ山に行ったのはそもそもニーチェのピラミッド石を探してのことだった。ニーチェ・クロニークの1881年のところに掲載されているピラミッド石を地元の人に見てもらって、この石を探しているんだがどう行ったらいいんだろうと二人目の人がコルヴァッチ山ロープウェイの谷駅の係りの人だったことによる。最初に尋ねたのはその谷駅のすぐ下の大きなレストランで開店準備の掃除をしているおねえさんだった。だがその人は自分の一存で答える自信はなく、店の奥へ行って、コンピュータの前で仕事をしている別の女性にそのプリントを持っていって更に尋ねてくれたのだった。そのデスクで仕事をしている女性は今度はPCを使って慎重にいろいろと調べてくれていた。その最初の結論は、あのロープウェイの建物に入って、そこから散歩道に通じる出口があるから、その道をシルス・マリーアの方に歩いていったらいい、ということだった。わたしはこの他人にいい加減な情報を与えてはいけないとして、最大限正しい情報を伝えようとしてくれたこの女性達の仕事をとても正しく、また有り難い仕事と考え、その情報に従って探さなければならないと考え、実行しようとしていたのだ。今から思うとこの女性たちの教えてくれた岩は、いわゆる「ニーチェ石」と言われているものだと思う。結局その道を辿ってその石を確認することは出来なかったのだが、多分滝の隣の道を下りてくる道だったろうと思う。
 だがわたしには尋ねた女性の答を完全に聞き取れた自信がなく、それでその理解を確認すべく、ロープウェイハウスで仕事をしていた若い男性に尋ねたのだった。その答が、前にも言ったロープウェイの中間駅からパノラマ道をシルス方面に行ったところにある、という答だった。その指示に従って見つけたピラミッド石の写真はすでに補足的に紹介した。---これで尋ねた二番目の人の教えに対する義務は果たしたのだ。そしてこの二番目の情報に基づいて発見したピラミッド石は、ニーチェがこんな標高2500mものところまで歩いてきた可能性は少ないのではないかというのが目下のところのわたしの判断だが、ニーチェのトリープシェンでの行動計画などを読んでいると、ニーチェが山登りに意外と強い足腰を持っていた可能性があることはは否めない。しかしそれでもコルウ゛ァッチ中腹2500mのこの石が『この人を見よ』に言われる「ピラミッド状の塊」だとは考えにくいと思う。だが『ニーチェクロニーク』に掲載されている石の写真がこの石かどうかは、実際掲載写真の先鋭度から言って目下のところ何とも言えない。二番目のに受けた教示に正当性がないとはとても言えない。それが今語って置きたいことの一つだ。



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《20170814 ラインの滝に行くことにした》

2017/08/15 12:30
瀬谷こけし

9時46分発、S24の電車で。反対方面行きに乗らないように、そして途中までのものに乗らないように。Sバーンの発車時刻表示冊子を調べて、Thayngen行きでよいのを確認した。方向としては空港方面。この知識は明日の出発にも役立つ。

 乗る電車を探す前に昼食用のパンを買った。6.60フランで、安め。それを持っている小銭だけでちょうど用意できて、ちょうど払えたので、売り子のおばさんもそれを確認してちょっとうれしそうだった。この小銭昨日になってやっと使い方がわかるようになってきた。二分の一フラン以上の硬貨は周囲にギザギザがついているので、それで別に取っておく。その他が、大きさではなく額によってほんとの小銭になるのだが、ずいぶん集めてきたが、調べてみれば5,10,20の額のものしかない。単位がサンチームだとしたらスイスの商品は5サンチーム以下の単位の価格のものが小売りされていないということだ。これがわかると途端に小銭が使いやすくなった。結局、ユーロ、セントの硬貨体系よりも使いやすそうだ。


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《20170814 最後の観光はサンクト・ガレン少しだけ》

2017/08/15 12:17
瀬谷こけし


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 ここにもペスタロッチの香が少しだけして、公園がその花壇と女性像でよい印象が残った。しかし最終的にはスイスの印象を次のようにまとめておきたい。

>Oh, Japaner! Gib Acht!
>Die Raechnungskräfte der Sweizerinen sind wunderbar!

>おお、日本人よ、気をつけよ!
>スイス人女性の計算力は驚くべきものだ!



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《歩いてフランスに行ってきた》

2017/08/13 04:18
瀬谷こけし

今日フランスに行って飲んだエスプレッソ
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このレシートが2017年8月12日午後4時20分ごろ
フランス国内の然る店で1.6ユーロでエスプレッソを飲んだ証拠になる。
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 今日は午前中はまずバーゼル大学を見に行ってきた。また例によって迷いながら、苦労しながらである。というのも昨日もらった簡易的な市内図では、載っていない道や建造物も少なくなく、大学すら上手に探しきれなかったのである。その代わりギムナジウムの方はすぐに見つかって、「いっそここに勤めたらどうか」とオーヴァーベクが病気休職中のニーチェに真心から勧めたところだったのが。このギムナジウムの雰囲気はわるくない。いわばバーゼル大学教養部といったような感じのところだ。きっと学生もしっかりしている。
 しかしそこからが少し道を間違って、シナゴーグのある地域に入ってしまった。しかしそこは何の苦もなく抜けて、次には音楽アカデミーを発見して、さらには奇妙な塔のある門を発見した。名前はどうやらシュパーレンの門(Spalentor)と言うらしい。そして千載一遇ののような好都合に、その門のそばに書店を発見したのだった。---これで地図が買える!
 結局安い7フランのものを買ったが、コンパクトで使やすく、これでよかったのだろう。それからは道がわからないというような問題はなくなった。大学図書館を発見し、そして構内を歩くと、今日は広場で蚤の市をやっていた。いろいろ見て回ったが、どうも面白いものがない。だがともかく話を急ごう。キオスクで買って簡単な昼食をライン川沿い、大学前のフェリー渡しの近くのベンチで取った。もうバーゼル大学にもかなり飽きが来ていて、またミュンスターの大聖堂にも大した期待が持てなくなっていて、最初に教えてもらった11番のトラムの端まで行ってみようと思って、来たトラムにさっそく乗った。宿で市内のバスでもトラムでもどこまででも何回でも無料で乗れる券をもらっていたので、乗りながら町を理解してゆこうという策だ。トラムは南方に向かい、「Aesch」と書いてエシュと訓むのだろうか、その終点まで行って降りた。写真を撮りながらあたりを一回りするが、一番目についたのはcoopの店で、三足一そろいで特売をしていた靴下だった。郊外の山の方の写真も撮ったりはしていたが、「エシュ」は郊外の住宅地以外の町ではなかっただろう。それでその靴下三足だけ買って、また11番のトラムに乗り込んだ。今度は北へ。この旅行もスイス国内滞在はあと三日になり、持ってきた靴下が今日で切れて、洗えばよいのだが三足買ってしまえばそれもしないですますことができる。非常に好適な買い物だった。
 それで北に向かっていって、国境に近い「Hüningerstrasse」(ヒュニンガーシュトラーセ)で降りてみた。そこで「Rhynpark」という表示に従ってライン川の方に行くと、大きな橋が見えた。二段(もしくは三段)になっていて、下段は自動車専用道路になっているようだ。その上の幅広い橋を渡ってゆく。橋の半ばまではなんでもなかったが、その先の方ではどうやら水かけ祭りをやっているようだった。橋のこちら側とあちら側で対決して、敵側にびしょびしょに水をかけてやろうという戦いだ。投石機のようなものも持ち出して、それで水風船を敵側に向けて飛ばすのだ。いろんな変装をしている人もいる。IS風もいる。野蛮人の類、悪魔の類もいる。ビキニの女性もいる。さすがに年長者は加わっていなかったが、子供たちももちろん大はしゃぎで投げあい、撃ち合いをしていた。撃つのはもちろん水鉄砲だが。そうして、橋の両側の人間が入り乱れて、水をかけ、掛けられて、楽しんでいるのだった。---そう、夏らしいよく晴れた日だった。暑い日というわけではなかったが、これで十分夏の日だったのだろう。わたしもカメラに水を掛けられないようにしながら、橋の向こう側まで行った。そこはどうだろう、ドイツ国内だったのではないだろうか?
 ともかく、被害と言うほどのこともなく交差点まで引き返して、こんどはそこを右折して、北へと向かった。トラムには「St-Louis Grenze」(セントルイス境界)と表示された駅があった。道路標識には「St.Louis F」というような表示がある。この先が国境で、その先はフランス国内の「サン・ルイ」なのだ、という意味だろう。一本の道路の中央には検問施設があった。まあ、求められればパスポートを提示して、必要なら荷物検査もしてもらって、フランスへの入国の手続きをしてもらえばいいことだ、と考えて歩道を進んで行くが、何のお咎めもお呼び付けもない。なのでそのままフランス国内に入った。これはなかなか面白い経験だった。ともあれ国境線を境に、あちらに行けばユーロを使い、フランス語が国語になるのだ。右手にフライドポテトの店があり、入ってみたくなったが、人がいるのかどうかわからなかったのでやめた。更に進んでいっても道路右側の店は休んでいるところばかりだった。それで少し先で道路を左に渡った。(北に向かって)左側にはテラスでくつろいでいる客たちのいる店が二軒あった。いっそフランス国内で食事を済ませてしまってもよかったのだが。
 ともあれ少し疲れているので、店の前にテラスを出している喫茶店に入って、メニューに書いてあった「昼食」を頼んでみた。答えは、それはもう時間が過ぎてしまっている、ということだった。全く久しぶりのフランス語でのやりとり。「時間が、過ぎてしまってるんですね?」と確認のおたずね。「そうだ」という返事。「だったらコーヒーをくれ。」「はい、大きいの? 小さいの?」「小さいのを。」「じゃあエスプレッソですね?」「そうだ」、と久しぶりのフランス語での実用的なやり取りだった。途中どこかで一回だけ「ビッテ」とドイツ語が出てきてしまったが。
 リュックなどを置いて外のテラスで待っていると、美味しそうなエスプレッソが出てきた。請求書の代金は1.6ユーロ。これは納得の価格だ。チューリッヒの空港近くの店で、エスプレッソ一杯で4.8スイスフランを請求されたとき、味は悪くなかったが、あきれてしまって、もうスイス国内でコーヒーを注文する気はまったくなくなってしまった。このフランス「サン・ルイ」の店では1.6ユーロで、しかも砂糖が二本ついて出て来る本格的なもので、味もイタリアのどこと比べても引けを取ることのないしっかりと美味しいものだった。わたしが思ったのは、わたしがバーゼルに住んでいたら、毎日でもフランスに遊びや買い出しに行くのではないか、ということだった。
 ユーロはもしかしてと思って20ユーロと50ユーロの札しかもっていなかったので、20ユーロ札で払うしかなかった。「えー、釣りがないぞ」というような表情だったが、隣の店で両替してもらってきたようで、きちんと釣りをくれた。大いに感謝して、砂糖を溶かし、さっと飲んで、用意をして立ち上がり、店の方に「どうもありがとう」と声をかけて、店を出た。
 それから、先ほどのポテトチップスの店が気になって、入ってみた。ショウケースには三本のバケットサンドがあるだけで、ポテトチップスの気配はなかった。わたしがはいると椅子に足を上げてくつろいで座っていた店主が、立ち上がって応答してくれた。「ポテトチップはないの?」「ありますよ、大きいの? 小さいの?」とケースを見せる。小さいの、と注文する。そこから揚げてくれるのだ。わたしもしばらく壁側の席に座って待つ。するとここにバケットサンドが気になってくる。それで、「このパンください。持ち帰りで」というと、「どれ?」と言って三本のどれかをたずねる。わたしは一番外側の、たまごサンドでないもの、レタスなどの野菜の目立つものを頼む。さっとアルミホイールにラップしてくれる。ポテトの方も揚げ上がってくる。四角いケースに入れていって、「こっちはどうなの?」と。「こっちも持ち帰りでお願いします」と。こちらもアルミホイールでケースごと包んでくれる。そして両方を紙の手提げ袋に入れてくれる。請求されたのは6ユーロ。わたしはさっきの喫茶店でお釣りにもらった2ユーロ玉を三枚出して支払った。---これもスイス国内にくらべたら驚きの安さだ。ユーロとスイスフランとは今6%ぐらいの差だと思うが、このバケットサンド、スイス国内なら8.5フランはする。フライドポテトも多分5フランぐらいは取られる。そうすると同じものがフランス国内ではほぼ半額ぐらいで食べれるのだ。
 何か痛ましい思いをしながら11番のトラムに乗っていた。スイス人は意地を張らないとやっていられないのではないだろうか。意地でも自分たちの方が質のいいものを食べているんだ、と。だがそのシーチキン入りのバケットサラダサンドの味は、スイスのものに勝るとも劣らないものだった。
 ---揚げてくれたフライドポテトだけは早く食べたいと思って、途中「ミュンヘン石」駅で降りてそこのベンチでいただく。自宅で味付けして食べるようにごくごくわずかの塩味しかついていなかったが、それでも十分美味しくいただけた。量も十分に多かった。このと市役所前でもう一度降りて飲料水などを買って宿に戻ったが、スイスは物価が高すぎるという胸につかえていた思いが、ほんの30分にも満たないフランス行きの経験で、すこしはほぐれた気がした。


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《ホテル・マリーア》

2017/08/12 13:06
瀬谷こけし


 シルス・マリーアで泊まった宿は「ホテル・マリーア」というところだった。ここのホテルのひとびとから(スタッフから、また客として来た人々から)デリケートな挨拶をいろいろと学んだ。まず朝一番に会ったときは「モルゲン!」(Morgen!)。日本の「おはよう」に近いのだと思うが、朝に相手を認知したことを互いに確認し合うというのが一番の意味のようだ。この場合「グーテン・モルゲン!」(Guten Morgen!)とはしない。「グーテン」をつけてしまうと、「あなたによき朝を」というような予祝の言葉になってしまうからだ。すでに朝なのにそれをすると、とてもおかしなことになってしまう。
 この「モルゲン!」という挨拶を、原則会う人みなに対してする。朝の食堂では会う人が多いが、そのそれぞれに「モルゲン!」ということで、「今日もまたお会いできましたね、だから良い日を迎えられたわけです!」、あるいは「初めてお会いしましたね、これからもどうぞよろしく!」というような意味になる。互いに「モルゲン!」を交わすことで、その食堂全体がとても親和的な空間になるのだ。そのご別のところでまた会ったとき、あるいは確か前にもお会いしましたね、という時、それだけで互いに声をかけやすくなるのだ。

 それで、食堂で席を立って近隣の人たちに声をかけるときは、「(アウフ)ヴィーダーゼーエン!」(Auf Wiedersehen!)、そしてもっといいのが「シェーネンターク!」(Schönen Tag!)という言葉をかけることだ。前者は「またお会いしましょうね」の意味で、「今回の出会いはよいことでしたね」という相手への好感の表現だし、後者は「あなたにとって今日の日がよい(=素敵な)日になりますように」という予祝の言葉になる。こう予祝してもらえると、ありがとう、あなたにも素敵な日でありますように、と返したくなるのが自然の感情で、当然そうなって、たいていはもっと会話が広がってゆく。
 そんな風に、食堂から出たところにある受付の女将さんか若女将さんが時宜にあった、そして関係の浅さ深さに応じた適切な挨拶の声をかけるので、わたしなどでもそれなりに話しかけやすくなるのだ。わたしなどには、その日のプランに大いに参考になる。高齢者の客の多いホテルなので、とてもいたわりや配慮のゆたかな人間関係になってゆく。このホテルから学ぶことはとても多かったし、また言葉がもっと豊富にわかり使えるようになったら、もっとたくさん気持ちのよい会話ができるようになるだろう。そしてシルス・マリーアの村全体がそんな、成熟した大人風の雰囲気の場所になっているのだ。夏にも涼しい場所だというだけでなく、そんな心の居心地のよさでも、病みつきになるひとびとの気持ちがよくわかる経験だった。

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《ニーチェとピラミッド型の石塊》

2017/08/10 15:33
《ニーチェとピラミッド型の石塊》
瀬谷こけし


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 問題は割合簡単で、出発点になるのは『この人を見よ』の中の『ツァラトゥストラ』の誕生にかかわる次の説明だ。まずはその原文を紹介する。

> Ich ging an jenem Tage am See von Silvaplana durch die Wälder; bei einem mächtigen pyramidal aufgetürmten Block unweit Surlei machte ich halt. Da kam mir dieser Gedanken. (EH, Zar 1)

一応訳しておく。

> あの日わたしはシルヴァープラーナ湖のほとりを、森をいくつも通り抜けながら歩いていた。シューレイからほど遠からぬ、ある力強い、ピラミッド型に積み上げられた塊のそばで、わたしは立ち止った。その時わたしにこの思想がやってきたのだった。(拙訳:逐語訳的)

 このドイツ語の表現では[bei einem mächtigen pyramidal aufgetürmten Block]のところのいくつかの語を正しく押さえておくことが必要である。まずは「ある塊のそばで」と言われていることである。これは、ここで中核とされている名詞が「石」としてではなく「塊」として名指されていることである。もちろんモノとしては「石の塊」ということで理解しておけばよいのだが、ともかく単に石と呼ばれているわけではないことに一応注意しておくことが必要である。まずは「ある塊のそばで」([bei einem ... Block])である。
 次いでこの「塊」を修飾限定している形容詞であるが、二つの形容詞「力強い」(mächtig)と「積み上げられた」(aufgetürmt)が「塊」を修飾限定している。「力強い」の方は普通の形容詞だが、「積み上げられた」の方は過去分詞が形容詞として使われているもので、その過去分詞の不定詞形は[auftürmen]である。「積み上げる」がその基本の意味である。
 そしてこの「積み上げる」という動詞に「ピラミッド型に」という副詞がかかって限定している。つまり「ピラミッド型に積み上げる」という動詞が基本にあり、その過去分詞がここで用いられている。ここに多少誤解しやすい点があるのだが、一つには「ピラミッド型に」の意味である。これは、地元で現物とされている「塊」を見てみれば、この「ピラミッド型に」は「角錐型に」と理解した方がよいように思う。というのも、このあたりでは、一方から見るとピラミッド型に見えるが、他方向からはそう見えない岩塊が数多くあるからである。この「ニーチェ石」と呼ばれている岩塊が特異なのは、湖に出ている方の形は見えないものの、湖に向かって左手から見ても正面から見ても右手から見ても、更には右手奥の方から見ても、この石は角錐に見えるのである。これがこの辺りのとんがり石(ピラミッド型石)の中でもこの石がもつ際立った特性である。
 さらにもう一点注意しておきたいのは、「ピラミッド型に積み上げられた」と表現すると、われわれはエジプトのピラミッドが、四角形の地面の上に水平に石を積み上げていって四角錐の形を作り上げたものだと知っているが、この「ニーチェ石」の方はそうした積み上げ方をしたものではなく、大きな褶曲と切断と落下の結果この場所とこの角度に落ち着いたものに見えるからである。この点に関しては地質の専門家ならもっと適切に形成過程を語れるだろう。ともかくピラミッドのように頂点に向かって積んでいったものではないのだが、そこが誤解されかねない。
 そしてこの石の塊は、大きくみてこの地方の屋根葺き(鱗形屋根)に多く使われているものと同じものでないかと思う。地質学的には結晶片岩と言うのだろうか。この石はアルプスの山塊の北側にも南側(イタリア側)にも広がっているように思う。北イタリアのオルタの町でも、屋根は昔からおおむねこの石で葺かれていたと見えたのを思い出す。
 そして「力強い」であるが、このニーチェ石には、堂々とした張り出しがあると言えると思う。つまり、いわば老孤のような、老獪に秘密の隠しどころや隠し事をたくさんもっているような石ではなく、非常に堂々と、すっきりした形で自分を示しているように見えるのだ。大きさとしては高さ3mにも満たない、巨石と言うほどではない岩塊だが、その270度どちらから見ても美しいとんがり石なので、わたしとしてはある種のかわいらしさを感じたのだった。だが、その細部を見れば、非常に緻密で力強いものを感じる石である。
 実は一昨日にもこのピラミッド型の岩塊の前を通り、多少は気になったのだが、写真を一枚撮るだけで立ち去ってしまったのだった。今は、今度はこれこそが地元で「ニーチェ石」と呼ばれているものだということの認識の上で、ニーチェの散歩道を辿るべく、シルス・マリーアからシルヴァープラーナ湖の東側の湖畔にそって、多少は森を抜けて、ここに着いたのである。一昨日もコルヴァッチ山の山腹・山麓で「ニーチェのピラミッド石」を探して多くの岩塊をみて歩いたが、その経験を踏まえて言っても、地元で「ニーチェ石」と語り伝えられている「石塊」が『この人を見よ』に言われる「力強い、ピラミッド型に積み上げられた塊」であることに間違いないと思う。
 そうして、この石塊に「いつまでもここで元気で居れよ」と心の中で声をかけて、わたしはシューレイのバス停に向かったのだった。




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《ニーチェの新しい思想たちと安らぎ---シルス・マリーア》

2017/08/09 15:50
瀬谷こけし

シールス・マリーアのニーチェの部屋
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滞在中にニーチェが使っていた部屋がシルス・マリーアの「ニーチェハウス」に保存されている。

 1881年8月14日付のケーゼリッツ(Köselitz)宛の手紙でニーチェはこんなことを言っている。発信場所はシルス・マリーアだ。

>それについて私は何も口外しないでおきたい。そして自分自身をゆるぎのない安らぎの中に保っておきたい。 (KSB Bd. 6 Nr. 136)

上記の中の「それ」は、「わたしの地平線に昇ってきた思想たち」であり、そのようなものは「私が見たこともないようなものだ」と語っている。新しい思想が一群となって現れてきているさまが適切に語られている。そしてニーチェは「(この新しい思想群のために)自分はまだ二三年は生きなくてはならないのだろう!」と語る。自分に訪れてきた新しい思想群、それをはっきりと語れる形にするために、自分はもう何年か生きなければならない、と語っているのである。ニーチェの身体の健康状態はじつはこの時非常に危険な状態であったのだ。それは「自分の感情/感覚(Gefühl)のさまざまに異なった強さ(Intensitäten)のせいで震えたり、笑ったりする」そういう状態であり、眼の炎症のせいで一日中部屋を離れられなかったりするが、その原因は、その前日にほっつき歩き(Wanderngen)の途上であまりにも泣きすぎてしまったからなのだ、とわかっているという。そしてその涙もセンチメンタルな涙ではなく、歓呼の涙なのだ。そこで自分は歌を歌ったり、わけのわからないことを語ったりするが、---ここまでは『ツァラトゥストラ』序文の森の聖者のようだが---その歌や語りは彼ニーチェが万人に先駆けてもったある新しい展望(Blick)にみたされてのことなのだ、と記す。この新しい展望は、彼のいう新しい思想群の意味の一つ一つとして見通されてくるものなのである。

 ニーチェの手紙をやや長く紹介しすぎたが、このシルス・マリーアの土地で彼は新しい思想の啓示を受け、その思想がもたらす見晴らしのせいで、泣いたりわけのわからぬことを語ったりしながら、このシルス・マリーアの近辺を日々ほっつき歩いていたのである。
 シルス・マリーアは『ツァラトゥストラ』の思想/詩想群の生誕地である。それは思想/詩想自体の生誕地であるが、それと同時に、この地でニーチェは、「ゆるぎのない安らぎ」の日々を保ちえて、その後の何年かの激しい生を安らげることができたのである。



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《20170808 シルスの岬の先端へ》

2017/08/09 15:42
瀬谷こけし

シルス岬西側の「ニーチェ思想石」 at シルス・マリーア
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 朝食後シルス・マリーアの半島の先端近くにあるという「ニーチェ思想の石」(Nietzsche Gedankenstein)に行った。前日の晩に宿のおねえさんが「Nietzsche Stein」を知らないかと尋ねたところ、教えてくれたものだ。「Nietzsche Stein」と呼ばれているものとは少し違うようなのだけど。
 ともあれ、シルス滞在中この岬にもニーチェはよく来ていたはずだから、ニーチェを理解するためにもよい経験になるはずだ。
 ところが、前日のコルヴァッチ山での難行(なんぎょう)のために、足が重くてゆっくりとしか歩けない。そんな足を引きずって、ゆっくりと、休み休みしながら歩いて、岬の先端にある石のところまで行ったのだが、この経験でよくわかったのは、シルヴァープラーナ湖の方とは違い、シルス・マリーアの方は高齢というより老人といってよい人たちが、ゆっくりと静かな時間の流れをたのしむために訪れる場所だった。静かさを楽しむ場所。この朝のシルスの半島の空気感をニーチェをまねて三つの言葉で言うと「やわらかく、穏やかで、うるおいがある」ということになる。この朝は霧にはならないもののそれに近い湿気がシルスの村に遍在していた。そんなこともあっての形容になる。
 それでゆっくり歩きながら、そして写真を撮りながら、会う人々とこの日の祝福を互いに与えながら、緩やかな時の流れを楽しむという気持ち、きわめて静かな気持ちを得ながら、岬の先端まで行ったのだった。そしてその先端にあるいろいろな岩が、「ニーチェ思想の石」なのだろうと思いながら、それはそれとしてこの場所を楽しみながら宿に戻ったのだった。

 宿の部屋に戻って、昨日もらった地図を見ると、どうやらニーチェ石は岬の先端ではなく、少し西側の方にあるようだった。まあどうでもよいようなものだが、少し気になっていた。また何よりもつかれていたので、宿で休眠を取って、午後3時過ぎに今日は開いているはずの「ニーチェハウス」に行って、それから」ややあって、それで夕方近く、5時ぐらいになって、地図にかかれている「ニーチェ思想石」を見に行こうと思った。まずは宿の前の大きな草原を横切って西の屏風山を近くで見て、何とか遠近感とか細部とかを見て、一応様子を掴んでから、西側から半島に向かった。足が驚くほど軽くなっていた。朝足を引きずっていた老人がが夕方には子供のように足も軽く、ニーチェの石に向かった。西側から近づくメリットはあんまりなかったが、まずあっという間にその石のところに着いた。石には碑文が刻まれていた。刻まれていたのは、「人間よ、用心せよ」から始まる(『ツァラトゥストラ』の)「第二の舞踏の歌」の真夜中の鐘の詩だった。これがニーチェの思想だと称して申し分ないものが選ばれていたのだ。
 歌の詩文は写真から読んでもらえるだろうか。

 きっとここにも訪れていたはずのニーチェ、あるいはこの歌の詩を、ニーチェ自身はこのシルス・マリーアで思いついたかもしれない。そのニーチェの詩文に共感の心を捧げるべく、この碑文の前でわたしはそれを音読することにした。授業でも何度も使っている詩なので難なく読めると思ったが、細部でいくつか読み損じたところがあって、もう一度読むことにした。今度は一カ所、「HERZELEID]を「HERZENLEID」と言いそうになったが、その思想を正しく読むことができた。するとその読みの最後の方で、わたしの耳には反応して「OH! OH!」と言う声が聞こえた。誰かが聞いていて、感応してくれたのかと思って、その人が出て来れるように、わたしは海の方に近づき、石碑とは距離を取った。---だが、だれも現れてはこなかった。あるいは打ち付ける波の音がそのように聞こえただけかもしれないが、わたしには、それはニーチェ自身が共感の声を上げてくれたのだと思えた。
 それからしばらくして、ならばきちんと録音して献呈の証拠としようと思った。「Zum Nietzsche」からはじめて読み始めたが、簡単に失敗してしまう。それで「もう一度」として、四回目になる読みをした。今回も「OH! OH!」と半ば感涙を交えたような声が聞こえた。---それは録音物に入っているだろうか。未確認だがそれはそれでいい。この詩ほどニーチェが「夜」の立場に身を置くこと、そして自分は「よろこび」は「苦しみ」よりも深いという思想によってワグナーを越えていることを明確に示そうとしている詩はない。これがニーチェの思想だと言って何の誤りもないだろう。まさにこれは「ニーチェの思想石」なのだ。

 この(献呈の儀の)あと、わたしは歓呼の声を上げてこの場所を走るように立ち去ったのだった。


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《20170808 夕方の読書 シルス・マリーア》

2017/08/09 04:08
瀬谷こけし


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 ちょうど夕方の鐘が三回鳴ったころ、つまり夜の7時ごろ、ある作業場の外で本を本でいる人がいた。いっぱい字の詰まった本だった。
 少し離れて写真を撮らせてもらった。断りなしに。ただ彼の方に手を合わせて。
 屋内だともう暗くて、本が読めないのだろう。
 セガンティーニの世界にいるようだった。


 
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《2017.8.7コルヴァッチの岩雪崩》

2017/08/08 16:32
瀬谷こけし

一度目の岩雪崩 13時43分撮影
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二度目の岩雪崩の走り 14時15分撮影
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 8月7日はほぼ一日中コルヴァッチの山中にいて実にいろいろな経験をしたが、わたしにとって最も驚いたのは、岩雪崩を見たことだった。それも雪崩の下の方にいて、もしこれが途中で止まらなければ、雪崩の流線の外に出るべく必死に動かなければならないと思いながら見たのだった。岩雪崩が起こったのは現地時間13時43分ごろ。急峻なコルヴァッチ山(3451m)の9合目あたりで、轟音とともに大きな岩が、もんどりを打ったように飛び出してきて、それに続いて続々と大小の岩や石や土が流れ落ちてきてやがて土煙が舞い上がって、谷筋を降りてきたのだった。それをビデオや写真に撮っていたりしたのだが、その流れ落ちる音が止まるまで安心ができなかった。岩雪崩は10分以上続いた。

 そんなことで、あ、終わったかと思いひと安心して再びパノラマ道を歩いていると今度は14時15分ごろまた大きな音がして、同じ谷筋を先行して大きな岩が暴れ飛び散りながら流れ落ちて来るのが見えた。続いてその岩のせいでバランスを失って落ちて来る岩屋や石、そして舞い上がりながら落ちて来る土煙。今回はさっきより小規模のようだったが、落下した岩がどっちへどうぶつかるかで、岩雪崩の規模も方向も変わってくるので、ともかくよく見ておかなければならない。今回も途中までで止まって、急いで逃げるような必要はなかったが、山のガレ場がどうしてできるのか、そして下まで落ちて来る大岩がどんな風にして落ちて来るのか、そんなことがわかるようになった。こういうことは、奥飛騨の方でも起こっておかしくないことなのだろう。
 何でこんな光景を見ることになったかというと、ニーチェのいう「ピラミッド型のブロック」を探していて、ニーチェクロニックに乗っている写真と記事を見せながら人に尋ねていたのだが、ある人からは、コルヴァッチのロープウェーの中間駅からパノラマ道をシルスの方に向かって歩いてゆくとこれがあるという風に言われ、それでもってロープウェーに乗り、標高2700m地点の中間駅まで来たが、終点のステーション駅までゆけば標高3303mの展望台までゆけることを知って、この高さはわがしがまだ行ったことのない高さだったので、安易なやり方ではあるが、行ってみたくなったのである。

 上の展望台では、左手近くに大きな氷河が見え、そして全周360度のアルプスのパノラマは、まったく素晴らしく、これがアルプスなのかと驚きとともに実感できたのであった。展望台では、モンテ・ローザ方向表示もあり、この日はとてもよく晴れていたので、多分あれがモンテ・ローザだと思える小さなちいさな白雪の山塊をみつけたが、それがそうだったかは確認できない。宿に戻って受付のおねえさんにモンテ・ローザの話をするとすぐに眉に唾をつけてまともに取り合ってくれないが(岩雪崩のビデオは感心してくれた)、去年イタリアのオルタの方からモンテ・ローザの形はしっかり覚えたので、多分あれだろう、と弁明はしておいた。

 帰路はロープウェーを中間駅で降りて、一応アドバイスされたように探してみようと思って下のコルヴァッチ・タールステイション(谷駅)まで、自分に行けるかどうかの見当をつけた。標高1900mぐらいまでの800mぐらいの比高差なので、比叡山から下まで下りるのとそう変わらない。このところずっと山歩きをしていないとはいえ、下りだから行けないことはないだろうと考えたのだった。そして道も、パノラマ道として整備され、そう無理な道ではなかった。まずはピラミッド岩までと思って歩き出したが、中間駅から離れれば離れるほど、今度は戻ってゆくための体力が心配になる。だが結局歩いて下まで(スールレイまで)行ってしまうことにした。そうすればシルヴァープラーナ湖の湖周の散歩道にも出られ、そこからならニーチェのピラミッド石にも出会えるだろうと思ったのだった。失敗と言うなら、はじめに谷駅に来た時、近くにあった店でパンとアップルショルレでも買っておくのを不要だと思ったことだった。実際買っておけばずっと楽だったろう。実際コルヴァッチ山中にはピラミッド型の石ならいくらでもある。そしてニーチェが中間駅近くまでの標高差を上ったはずがないのは明らかで、ただ写真の石の所在をアドバイスしてくれたひとに従ってみようと思ったのだった。

 その後、下り道の苦労は続くが、京都の滝谷山周辺、、滋賀の権現山周辺、そして津軽の岩木山での経験が活きて、そして下山の山中で尋ねた二人のひとのアドヴァイスのおかげで、疲れ果てたということを除けば、無事に下まで、シルヴァープラーナまで、下りて来れたのだった。

写真は一度目と二度目。どちらも走り始めは小さい。


=== 2017.8.18 写真二枚追加 =========

モンテ・ローザ?
矢印の山がモンテ・ローザではないだろうか? 
コルヴァッチ山ロープウェーの山駅展望台から撮影
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コルヴァッチ山腹のピラミッド岩。
(標高2500mほど)
ロープウェー受付の人が(私が持参した)ニーチェ・クロニークの写真を見て、
これじゃないかと教えてくれた「ピラミッド状の塊」はこれのことだと思う。
 後ろに見える湖はシルス湖(シルヴァープラーナ湖ではない)。
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《2017.8.5午前 チューリッヒ、明日の切符》

2017/08/06 05:24
瀬谷こけし

 明日はシルス・マリーアに発つ。そのためにどんな切符を調達したらいいのか知らず、ガイドブックを見てもよくわからなかった。それで中央駅に行った。赤い玉子のようなインフォメーションがあって、まずはそこで尋ねたが、頭注まで列車、それからバスということしかわからなかった。これで駅の構内の方に行くと、ライゼビーロー(旅行そこで会社)のようなものがあったのでそこに並んだ。
 州都のChur(クーアと詠むのかヒューアとよむのか知らない)まで列車(ICE)で行って、そこでサン・モリッツ行きに乗り換えて、そこからバスということのようだ。一枚のティケット、そして一枚の行程表を作ってくれた。84.60スイスフラン。一万円弱だ。途中帰りの切符のことを聞かれた。わたしは往復はいらない。片道だけで、戻ってこないとと伝えた。しかし彼はそれでも不安があるようで尋ねる。そこでスルスマリーアには6日いて、それからバーゼルに行くのだと伝えた。それで納得してティケットを作ってくれたのだ。
 こうして明日の準備はできた。
 そこでビューローを出たのだが、行程表を見ると、日付が今日になっている。それで戻って、これは正しいのかと尋ねた。行くのは明日だということを伝えて。もちろんチケットの方は明日の日付になっている。行程は同じなのだがと言いながら、彼は先の行程表を破棄して、新しいものを作ってくれた。作る前に何時ぐらいの列車がいいかと尋ねてくれて。わたしはだいたい10時ごろと答える。---それで新たに作ってくれた行程表は、先のものと内容では全く同じだった。しかし彼としては出発希望時間を尋ねずにさきのものを作ってしまっていたので、お互いにとても納得してティケット類を発行してもらうことができたのだ。そういうやり取りのあとは気持ちがいい。彼にしても「正しいか?」(richtich?)と聞かれたことは気持ちよかったようだ。正しい仕事を相手の確認の上でし終えたときは、普通の場合以上に気持ちがよくなるものだ。これは一般にドイツ人でも同じなのだが。そういう性格をわたしはとても好ましいものだと思う。


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《2017.8.5 チューリッヒ夕方》

2017/08/06 05:15
瀬谷こけし

 夕方、仮眠から覚めて、かねてから探していたマウスを買いに出かけた。そのためには誰かから情報をもらわなくてはならない。お値打ちの(preiswert)にPC用のマウスを買えるところはないか? 教えてくれとお願いしたのは、宿の受付のおねえさんだ。コンゴの出身だということを昨日誰かと話していたひとだ。ここの受付のおねえさんはみな友好的で感じがいい。昨日さいしょに応対してくれて、荷物を預かってくれたおねえさんも、英語もドイツ語もうらやましくなるほど達者な、アラブ系かな思えるような褐色の肌のひとだった。そのひともとても親切だった。
 コンゴ出身のおねえさんは、中央駅構内のS10電車を降りて上がってすぐの向かい側にある店だとして「Interdiscount!」という店を教えてくれた。わたしが中央駅で降りるときはいつも「アジアの食べ物、持ち帰り」と銘を打ったケバブの店の前に出るので、その電子関係お値打ちの店には気づいたことがなかった。出かけて、言われたとおりにエスカレーターを上ると、左手に、今度は確かに「Interdiscount!」という店があった。カメラもあり、いろいろな電子機器を割安に売っているありがたい店だった。そこでUSBのコード付きの一番安いマウスを買った。店の人は、ほんとならもっといいものがあるので勧めたかったようで、「旅行者なのか?」とわたしに尋ねた。旅行者だと答えると、それならこれでいいと納得して売ってくれた。実際親切な人だ。今回はブルートゥースのマウスをたまたま荷物に入れ忘れて、これまでずいぶん苦労してパソコンを使っていたのだ。その苦労からこれからは解放される! 
 宿のおねえさんは、もう一軒「Medimarket!」」という店も安くて大規模でいいが、チューリッヒの郊外に行かないとないのだということだった。結局は先の店で用事がすんで、「Medimarket!」まで行く必要はなかったのだが。
 そこで早速用事がすんだので、夕方の時間、ペスタロッチ公園まで行った。そこで写真を撮って、芝生に座ったり、ベンチに座ったりして、ゆっくりと沈んで行く太陽と、やっと吹き始めた涼しい爽やかな風を、長く楽しんでいた。ドイツの夏の夕方というのも、とても気持ちのいい時間だったが、チューリッヒでもこの時間はとても素晴らしい時間で、この刻を逃さずに味わうために多くの人が屋外に出てくるようだった。通りにテーブルを並べただけのレストランや喫茶店で、何するともなく、通りを見流している人々も、ただこの刻を、この爽やかな風を味わうためだけに出てきて、コーヒーなりビールなりをテーブルに置いてもらっているようだった。
 ドイツでもそうだったが、夏は夜8時ごろまで、外が気持ちよい。激しかった一日を回顧するための心地よい時間なのだ。

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《試験問題を作った》

2017/07/25 19:38
瀬谷こけし

 明日期末試験を実施するのだが、その問題を作り、大学へ行って印刷をし、そして問題・解答用紙を大学に預けてきた。これでずいぶんとほっとした。
 今まで前日に問題の印刷を終えたようなことは一度もなく、いつも徹夜に近い作業で当日に間に合うように問題を作成し、当日の朝大学の印刷機で印刷をしていた。今年はなぜそうしなかったかというと、明日返してやることにしている宿題の採点と記帳が結構重たいから。それと問題作りとを一晩でこなせる自信がない。問題作りは、結構練度のいる仕事で、問題形式を前年度と同じにする場合も個々の問題はすべて作り直している。授業でこれは覚えておけと言った問題はやっぱり出題してやるし、このくらいの問題はできてほしいと思う問題はずいぶんと工夫して作る。同じドイツ語の三科目の授業だが、それだけでほぼ丸一日かかる。担当している「応用」の一科目は、「訳して鑑賞せよ」という問題形式に決めているので、要は出題する一篇の詩を何にするかという選択と決定だけで、あとはあまり手がかからない。「入門」の二科目は30問のすべてを、どれも一題一題、考えて作る。そうやって作っても期待以上にできてくれたことはほとんどない。まあともあれこれで一段落。明日試験を担当して、それから採点し、評価し、成績評価を出すことだけだ。これでほっとした。そして終わってみると、このためにいろんなことを後回しにしていたのだということが分かってくる。返信やいろいろなお礼もそうだが、スイス旅行の最後の二日の(リルケの「秋の日」のようだ)宿の予約も、やっとこれから手を付けることができる。まあ明日は6時過ぎまで大学にいることになるので、動き出せるのは明後日から。それでも、これでやっと肩の荷が下りた。半分だけ。---採点と評価も結構手間も時間もかかるのだ。
 そして明後日から一週間後にはチューリッヒに向けて出発。
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《京都の散髪屋ビリケンの親爺さんの名言》

2017/07/22 01:20
瀬谷こけし

 今日、7月21日、久しぶりに散髪に行った。行くのは百万遍のビリケンさん。昔は京大教養部の東側の細い通りに「美留軒」という名の散髪屋をやっていて、西田幾多郎も通ったという店だったが、二年ぐらい前にここを閉じて、百万遍の店一本に切り替えた。親父さんは今も元気に散髪をしてくれる。学生時代は生協の床屋に比べて少し高かったのでほとんど行かなかったが、福島の郡山から戻って、滋賀県に住むようになってから25年余り、床屋といえばほぼここにしか行かなくなった。それは、エイズが流行し始めていたころ、ここは刃物を紫外線消毒していて、安心感があったということも大きかった。親爺さんももう80歳を少し過ぎたぐらいになるのか。未だに気力は立派なものだ。色んな話を聞かせてもらってきたが、百万遍に移ってからは、親爺さんの政談があまり聞けなくなったのは残念だ。それでも聞いた名言をどこかにとどめておきたい。
 親爺さんは自分の仕事に「床屋」という言葉を使わない。由緒正しく「散髪屋」と呼ぶ。これは多分非常に大事なことだ。
 それで、今日とどめておきたいのは次の言葉だ。一二年前、美容室で散髪をしてもらう男子が増えたころの話だ。美容室の技術やセンスもそれなりに褒めるのだが、ただ譲れない、誇りとする一線はあるのだ。

> 男の凛々しさは散髪屋でないと出せない。

 この言葉だ。立派な言葉ではないだろうか。男子一生の仕事としての散髪屋、その誇りと技と美学を見事に言い表していると思う。後世に残しておくべき言葉だ、とわたしは確信する。

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