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2009/10/30 02:33

さて、いよいよ「モルゲン」である。これについてはまず伊東静雄の書簡を引こう。酒井ゆり子がこのようにはっきり言っていることを、否定する理由を杉本秀太郎氏は十分に提出しているようには見えない。そこのところを少し邪推してみようと思うわけだ。「邪推」などということを普段わたしはしないのだが、これも日文研からの風が少し吹きかかっているせいかもしれない。もちろん井上章一風の風だ。
まずは引用から。
> この前お逢ひしたとき私の哀歌はモルゲンに似てゐる。又拒絶という題は独逸のリードに似てゐるといはれましたが、あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです。身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました。
(『定本伊東静雄全集』1971年人文書院、p.392、書簡九七、昭和十一年十二月二十一日、酒井ゆり子宛)
わたしの方法は、「哀歌はモルゲンに似ている」というゆり子の感想に対する「あれは私の詩の今迄の批評の内で一番正しいものです」という伊東の評を信じてみようというものだ。逆に必死になってゆり子の感想を退けようとする杉本秀太郎(『伊東静雄論』1985年、筑摩書房)のやりかたには、何か疚しいことがあるのではないだろうか。その辺を見てみようというわけだ。
そのためにまず何よりもリヒャルト・シュトラウスの「モルゲン」のドイツ語の歌詞を引こう。これは、マッケイの詩に基づくが、マッケイの選集に載っている詩とは2ヶ所(下線部)が違う。選集に載るその詩については「ある日の伊東静雄(四)」http://25237720.at.webry.info/200910/article_6.htmlで既に紹介した。今はそのシュトラウスの歌曲op.27-4の歌詞として普通に紹介されているものを紹介しよう。
Morgen
Und morgen wird die Sonne wieder scheinen,
Und auf dem Wege, den ich gehenn werde,
Wird uns, die Glücklichen, sie wieder einen,
Inmitten dieser sonnenatmenden Erde…
Und zu dem Strand, dem weiten, wogenblauen,
Werden wir still und langsam niedersteigen.
Stumm warden wir uns in die Augen schauen,
Und auf uns sinkt des Glückes stummes Schweigen…
(RICHARD STRAUS, FOUR LAST SONGUS, ELISABETH SWARZKOPF, CC33-3324の歌詞カードによる。下線は引用者)
本来なら伊東静雄が確実に見た歌詞を使いたいのだが、今は入手のための手間を省く。現在は様々なところで使われているこの歌の歌詞は安定しており、またシュワルツコップもフィッシャー=ディスカウもは確実にこの詞の通りに歌っているので、この辺の詮索はしない。ゆり子が伊東に見せたこの楽譜のドイツ語も、杉本が指摘していないところを見ると、これと同じものであるとみられる。
ところで、この詞の読解はなななか難しい。昨日も学生に読解させていたのだが、なかなか三行目の”einen”が掴めるようにならない。三行目が難しいのだ(そしてまた別の意味で最後の行が)。三行目を読み解くためにわたしが学生に与えるヒントは、「この”sie”は何、だれ?」と言ってこの”sie”を掴ませることだ。それがわかると、この文の構造に連想が働き、”sie”が一行目の”die Sonne”(太陽)指し、そしてこの文の主語だとわかってくる。つまり”wird”の主語だということである。ここまでわかると、「未来時制」かもしれないという風に頭が働き、そうすると”einen”が動詞かもしれないとう発想が生れ、そして正解に達するのだ。
昨日わたしがこのテキストの日本語訳を課した学生は、大学二年生としてはきわめてよくできる学生たちだ。それでも独力で”einen”が動詞だという正解に達したのは、ひとりだけだった(十人中で)。ゆり子にいきなりこのドイツ語の歌詞を見せられて、---しかも辞書もなしだ---、伊東はこの正解に達することができなかった。その時の伊東のようすを語るゆり子の手紙を川副国基は紹介している。こうだ。
>私がシュトラウスの『モールゲン』という歌のレコードを聞かせようとしたとき、竹久夢二の幻想的な絵のついた楽譜の日本語の歌詞を読みながら意味がよくわからぬといい、ドイツ語の方の意味もわからぬといいながら(伊東は)いつまでも見ていましたが、……
(註は引用者)
「わからぬ」と言いながらドイツ語の歌詞を眺めつづける伊東静雄。このときどれだけ多くの時間が流れたことか。ほとんど一生のすべての時間がここで流れてしまったのだ。自慢にしていたドイツ語力の不十分ささえ、ゆり子に見せてしまったのだ。ゆり子にとってもこの時間はとても貴重なものだったはずで、だからこそ、後年、川副にそのことを語り伝えるのだ……。
まずこの歌詞の題一聯だけを訳しておこう。拙訳するとこうなる。
>そして明日太陽は再び輝くだろう、
>そしてわたしが歩み行くであろう道の上で、
>太陽は、われわれ幸福な者たちをふたたびひとつにするだろう、
>この、太陽を呼吸する大地のただなかで……。
少なくともシュトラウスにとって、この「われわれ」とは、男と女だ。この曲自体がパウリーネ・デ・アーナとの結婚の記念に、彼女に捧げられた。ふたりがひとつになるというモチーフが中心にある。ゆり子もそれを感じていたはずだ。
そしてこの詩だが、その杉本秀太郎氏の訳を紹介しておく。杉本は、「試みに訳せば」と断ってそれを示す。(杉本、上掲書、p.166)
>そしてあす、太陽は再びかがやくだろう、
>そして私が辿るだろう道のうえで、
>私たちを幸福なふたりとして、ふたたびひとつにするだろう、
>太陽を呼吸しているこの大地のまっ只中で。
>そして青く波立っている広々とした海辺まで、
>ふたりはしずかにゆっくりとくだってゆこうね、
>だまって、お互いの目を見つめ合おうね、
>するとふたりのうえには、幸福の無言の静寂が沈んでくることだろう。
特に問題のない訳だと言えるだろう。少なくとも5行目までは。わたしが違和感を感じるのは6から8行目までの結び方だ。「〜ね」「〜ね」「〜が沈んでくることだろう」のところのことだ。
どうしてこんな風に訳せるのか、わたしにはわからない。わたしならこう訳す。
>そして広い、青い波のうちよせる海辺に、
>わたしたちは静かに、ゆっくりと降ってゆくだろう。
>無言のままわたしたちは互いの目を見つめ合う、
>そしてわたしたちの上には、幸福の、無言の沈黙が降りてくる……。
ひとはこれまで最後の行の”sinkt”の現在時制に、あまり注意をしてこなかった。いやいや、そんなことはない。シュワルツコップにせよフィッシャー=ディスカウにせよ、この最後の現在時制をどう歌うかがまさに腕の見せ所だ。だがいちいち名を上げないが、非ドイツ語圏出身の歌手たちはみな一様に無造作にこの現在時制を歌ってしまっている。だが、ほんとうは、ここで、これまで未来のこととして語っていたことが、---ひとつになるということが、---まさに今現実のことになっているのだ。ほとんど永遠の現在のように。どこかこの世ならぬ不思議の空間の中に入ってしまったように……。
杉本秀太郎の「〜が沈んでくることだろう」という訳はいったい何なのだろう? どうしてこんな風に、未来時制であるかのように訳すのだろう。またその前の「ね」「ね」の訳も理解に苦しむ。何か特別の理由があるのだろうか? 理由があるなら聞きたいものである。少なくともわたしはそう訳す文法的な理由がわからない。無茶苦茶としか見えない。もっとも、わたしの語学力が不足しているためかもしれないが……。
今日はとりあえずここで終えておこう。だがこれではまだ「邪推」にならない。
「邪推」は次にまわす。
拙著『ニーチェから宮沢賢治へ』創言社
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