高橋哲哉氏の『国家と犠牲』NHKブックス\920![]() この高橋さんの議論には概念の構成上に問題があると思うので、取り上げてみます。読者の方々は損はしないと思うのでできたら買ってみてください。 高橋氏はこんな結論を出しています。(p.234) >「あらゆる犠牲の廃棄」とは特異な他者たちの呼びかけに普遍的に応えることにほかなりません。私たちは「絶対的犠牲」の構造の中で、しかし、あらゆる犠牲の廃棄を欲望しつつ決定しなければならないのではないでしょうか。 疑問は幾つかあるのですが、まずは「絶対的犠牲」(の構造)とは何なのか、という点です。 高橋さんはこの概念をデリダから継承していると称します。 >「私は他の他者たちを犠牲にすることなしには、ある他者の呼びかけ、要求、責務、それどころか愛に対しても応えることはできない」。これが絶対的犠牲の構造で…… (p.229) 【「」内はおそらくデリダ】 ここですでに混乱があるように見えます。 「絶対的」とは何なのでしょう? 「絶対的義務」という観念は成立するでしょう。 つまりそれはある他者を「絶対的他者」と私が措定すれば、その他者に従うことが「絶対的な義務」になるということがある、ということです。そのとき私が他の他者たちを二次的な存在にするというのは必然的です。 もし高橋さんがそのことを「絶対的犠牲の構造」と呼んでいるのであれば、それは一応理解できるし、彼の言う「絶対的」を「必然的」と言い直すなら表現としても妥当なものになるでしょう。 しかしながら高橋さんは「絶対的犠牲」の構造と表現します。この表現では、「絶対的」は「犠牲」にかかるとしか考えようがありません。しかしもし「絶対的犠牲」ということが成立するとしたら、それはまずもって私がある者を「絶対的他者」として措定しているからです。 しかしそれではなぜある他者を絶対的他者として措定しなければならないのでしょう。そしてその者の命令を絶対的義務と考えなけえればならないのでしょう? この疑問を出すだけで、最初に引いた高橋さんの主張は混乱をあらわにして自壊してゆく他ないと思うのですがどうでしょう? 国家と犠牲
|
| << 前記事(2007/06/17) | トップへ | 後記事(2007/06/20)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2007/06/17) | トップへ | 後記事(2007/06/20)>> |