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zoom RSS 《地域学のすすめ---「草木虫魚悉皆成仏」》

<<   作成日時 : 2015/12/13 01:40   >>

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瀬谷こけし

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 以下の原稿は『会報 むろのつ』(発行、「嶋屋」友の会)第21号のための原稿である。発行から既に一年余を経過しているので、発行元への義理立てももう十分だと考える。実は昨日赤坂憲雄、鶴見和子の『地域からつくる〔内発的発展論と東北学〕』を読み、啓発されたが、しかしそこでは論じられていない重要な問題があると思えた。誤解を恐れずに言えば、それは鳥獣草木虫魚がみずからおこなう活動も地域や国の文化の創造であるという論点である。この論点の発案は岩田慶治先生に帰さなければならない。そしてわたしはその問題を継承してゆく。いつか、石垣の石の間から顔を出す小さな植物たちに、おまえも立派な日本文化の創造者だと言ってやりたい。多くのひとがそのように考えるようになる日が遠からず来ることを願う。

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 (『むろのつ』第21号「地域学」特集依頼原稿)
                                中路正恒
                        

  はじめに

 『むろのつ』の編集者から、同誌の「地域学」特集のために「地域学のすすめ」というような題で何か書けというご依頼をいただいた。ここでは学問的な議論はやめ、地域学を前進させるために今考えていることを随想的な形で書かせていただくことにする。編集者のご期待に応えているか非常に覚束ないが、その点についてはご寛恕をお願いすることにする。

             ◇  ◇  ◇

 『むろのつ』誌第21号に「地域学」の特集を組むということでお話しをいただいた時、わたしは『むろのつ』誌についてほとんど知識がなかった。東北地方にはいろいろと縁をいただいて、訪ねたり、調べたりして、ずいぶんと親しくなっていたのだが、逆に関西となると、文献も考古資料も各地に多くありまたすぐれた研究者も数多くいらっしゃる。そんなことで、関西ではわたしは京都の外に出ることが少なかった。それが最近になって、教え子が三田市の自然学習センターで働いている縁で時々兵庫県へも行くようになり、視野も関心も広がってきているところだった。そこで「嶋屋」友の会の入館案内を見る。するとそこには「文化による町づくりをめざし、地域文化の向上と全国各地との文化ネットワーク化につとめています」と記されている。「文化による町づくり」がこの友の会の狙いであることがわかる。しかし文化とは何なのだろうか? わたしにとってはこの問いが第一に考えなければならないことになった。

 そしてさらに地域学である。わたしはここ10年ほど「地域学」を提唱してきたが、その要点は現代を縄文時代以降約一万年にわたって続いて来た定住を原則にした生活様式が終る時代と捉え、その上で(ある土地に定住するも定住しないも自由な生活様式において)、今この土地に住んでいることの充実を、その土地のベーシックなものとのかかわりにおいて見出してゆくための方法の探究への提言であった。このベーシックなものには、人間の営みやその歴史ばかりではなく、天地の自然の動き、山川草木そのものの動きや営みが大きな比重をもって考えられていた。いわば人間世界の底に穴を穿ち、より大きな生命的自然との繋がりを見出し、そこに自分の喜びの本源を見出すことができるような生き方への提言であった。「草木国土」が単に「仏性」(仏となる素質)をもっているというにとどまらず、「草木国土」がことごとく「成仏」している、ということを知るその喜びであると言えるだろう。だが「草木国土悉皆成仏」のような思想は、言葉だけ唱えたところで何にもならない。それをリアルに感じ取ることがなによりも大事である。そのためにはむしろ、身近に関わることができる「草木虫魚」に関心を向けることが大事ではないだろうか。実際「草木成仏」の本覚思想を説く天台の坊さんたちも、その文章をみれば、議論にばかり関心をもっていて実際にはほとんど草木にも、虫魚にも関心をもっていないように見えるのである。草木と親しみ、そして虫魚や鳥獣に近くで接してみなければ、本覚思想も所詮観念にとどまるだろう。そんなこともあって、わたしは三年間時間がとれる限り、ある荒地の原っぱにゆき、三脚とカメラをもって、そこの雑草たちを見続け、写真を撮る時間の間、同じ天候、同じ日差しや陰り、同じ風を受け、共有してきたのである。そこで見えてきたのは、個々の雑草の、それぞれ全く利己的な振舞いであり、格闘であった。立ち草は適度な光を受けるべく、隣り合う草とのかかわりで争いながら伸び上がる。つる草は先端を風のまにまに動かし、立ち草に絡まりつき、こんどはそこを拠点にしてさらに先への蔓を伸ばしてゆく。葛などときては、その伸び方、締め方は、獰猛と呼ぶのが相応しいほど無慈悲で激しいものだ。その、その先や将来を考えない成長のさまは、しばしば合理性を欠き、無明としか呼びようがないものである。そこに利他性に見えるものがあるとすれば、それは主に昆虫に対するもので、昆虫を花に呼び寄せる甘味は、おのれの生殖拡大のためであり、そこでは自利と利他が一致する。そんな雑草たちも、花を咲かせ、種を実らせた後には、何かほっとした表情を見せるのである。ほとんど「仏様」といったような表情である。そのような時に彼らは成仏しているのだろうか。草木は、単に仏性をもつだけでなく、その時に仏になっているように見えるのである。

 しかしながら、このような草木成仏の問題は「文化」の問題とどうかかわるのだろうか。岩田慶治は京都新聞のエッセー「日本文化と自分文化」の中で「日本文化」と呼ばれるものをひとわたり見回した後でこう言う:「(いわゆる日本文化の:引用者補足)創造者たちはそれぞれに自己表現の究極を目ざしたのであった。別に、日本文化をつくろうとしたわけではない。強いていえば、自分文化を作ろうとしたのである」。こうした指摘は、いわゆる日本文化の創造者について、まさに正しい指摘だろう。彼らはそれぞれ、「自己表現の究極」を目ざしたのである。この「自己表現の究極」は、「自己実現」と言い換えてもよいだろう。そこに「究極の」、とか「徹底した」とかの限定語をつける必要はあるかもしれないが。そしてさらにこう言う。「文化という歴史的な堆積物を、どういう額縁にいれるか、それを人間集団のどのレベルで切って、その裁断面を点検したらよいのか。自分か、民族か、国民か、人類か、それとも草木虫魚か。それが問題である」と。さまざまな切り方によって、文化は、さまざまなものとして見えてくるだろう。「文化」を語るときには、自分が人間集団のどのレベルで歴史的な堆積物の塊を切り取って論じようとしているのかを自覚しておかなければならない。地域という問題を考えるなら、ここに「地域の」という付ける必要があるだろう。「地域の歴史的な堆積物」が、ともあれ「地域学」の関わる対象である。そこにともかく異論はない。しかしここでさらに重要なのは、岩田が「それとも草木虫魚か」と加えているところである。つまり、「地域学」が対象とする「地域の歴史的な堆積物」は、それ自体、事実上非常に多くの部分が草木虫魚や鳥獣のそれぞれが作り為したものの堆積物であるということを認識することであり、そしてまたさらに、草木虫魚や鳥獣のそれぞれにとっても、生存の取り組みの枠(額縁)となるものであることを認識する必要があるということである。草木虫魚(や鳥獣)を一人称の主体の立場におく草木虫魚の「地域学」、これはユクスキュルや宮崎学の仕事の中にその原型的なものが見出せるものであるが、地域の認識の学としての地域学においても、本来的な課題の一部をなすべきもののはずだ。なぜなら人間にとっての環境は人間だけが作ったものではなく、草木虫魚が作る草木虫魚にとっての環境でもあるからだ。「私の願うことは、日本文化を支えることではなくて、自分文化を開花させることなのである」と岩田は上記のエッセーを結ぶ。われわれも、そして草木虫魚たちも、それを望んでよいだろう。
(2014.4.13)

 


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