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zoom RSS 《『短歌研究』勉強帖 2017年4月号》

<<   作成日時 : 2017/03/26 18:47   >>

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瀬谷こけし


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---喜多弘樹の前登志夫論「樹木みな」にまなびつつ---


 少し休んでしまったが「『短歌研究』勉強帖』を再開しよう。2017年4月号から。欠いてしまった号もまた補ってゆくつもりだ。
 2017年4月号巻頭の「12ヶ月の歌」喜多弘樹が前登志夫の歌三首を取り上げて吉野の桜を論じる。引かれる三首の歌は以下だ。

>杉山にとだえもなしにさくら花流るるひと日ひと日を生くる 『樹下集』
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

 前の歌にはある程度親しんでいたつもりだが、こうして桜歌三首を示されると、とても自然に桜を迎えていた歌人の姿が見えて来る。それは西行の、身と心が添わなくなるような浮かれとはまた少し違うものだ。
 一首目の歌は桜の花の流れるさまを歌うが、私は杉山の中にではなく、それをやや距離を取って眺めやる場所にいるようだ。花は流れ来るのではなく流れつづける、とだえもなしに流れつづけるのだ。喜多が「いったい、どこから花が流れてくるのか」と問うのは正しい。その木々の姿が見えずに花だけが杉山に流れつづけるさまはとても不思議だ。花は風の道を流れてゆくのだ。だからかえって普段は見えない風の道が今はどこにあるのかを桜の花は教えてくれるのだ。だから喜多が「現世から他界へと流れていく一筋の〔…〕河だ」と説くのはとても正しい。普段は見えない道を花は流れてゆく。壮麗な景だ。
 だが、ここまで読んでくると、下の句の措辞がとても気になってくる。僭越を承知で言えば、わたしなら「流るるひと日この日を生くる」とするだろう。つまり、とだえもなしにさくらの花が流れる日は、一日しかない、いや、一日もつづかない、と思うからだ。だから前の「ひと日ひと日を生くる」とは、日ごと日ごとを生きるということではないか。毎日を、日々を生きるということでは。「流るる」の連体形は上の方の「ひと日」にかかるが、言ってみればここまでが非常に長い序詞で、その、この上なく壮麗な一日として、毎日を私は生きる、と、そのような生きる決意を歌った歌ではないだろうか。そのひと日のさくら花の流れつづける光景は、日々こころの奥にあって私を生かせると。
 「流るる」の連体形と「ひと日ひと日」の複数性との間の措辞の破綻をしっかりと受け止める必要があるだろう。それによって、歌は毎日毎日とだえもなしに流れる生死の川を壮麗な現実の日々のまことの姿として見せてくれるのである。

 二首目の歌を再掲しよう。
>樹木みなある日はゆらぐ行きゆきて乞食(こつじき)の掌に花盛られけり 『霊異記』

 この歌の解釈の要点、あるいは難点は「行きゆきて」にあるだろう。どこかに原一男監督の映画《ゆきゆきて 神軍》への連想をさそう措辞だが、この歌では花びらの流れてわたってゆく距離の遠さ、はるかさが言い示されているであろう。なべての樹々がゆらぐほど激しい風の吹くある日のことである。その日はじめて桜の花びらは乞食の掌(て)にまで届く。やっと届くのである。そしてそのことによってはじめて桜の花が荘厳される。桜の花を聖化するのはまさにこの乞食なのである。乞食の掌にいっぱいの花びらが盛られることによって、つまり彼が花たちを美(よ)しとすることによって、桜の花は聖化されるのである。そのような乞食が山の奥のおくのどこかにいる。芭蕉が「こもをきてたれ人います花のはる」と元禄三年の歳旦に問うた問いの、これは前の答えでもあろう。

 三首目は、
>さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり 『童子』

である。これはどのような夕べだったのだろう。桜咲く春の季節といっても、西の空が美しく夕焼けに染まることもある。そんなときでも、夕焼けののちに陽が沈んで、光が雲のみを照らし空があわく透明な水色に変わり、さらに色が薄れ沈んでいって、暗くなってゆくことがある。わたしはその夕焼けののちの透明な水いろの空がとても好きなのだが、その暗くなってゆく時の間はそんなに短いものではない。「まで」と区切られる時は、ともあれひとつの死に別れの時だ。そして「めで」と時を区切るのは歌人自身だ。思いを死なしめるのは歌人自らだということだ。その思われびとはすでに歌人のところから去っている。だから歌人がみずから思いを止めるとき、その時ひとつの死が成就する。さくら咲くゆふべの別れと言えるだろうか。鎮魂はこののちは暗くなった空そのものが引き受けてくれるだろう。わたしもこの作を前登志夫のもっとも美しい歌の一つに数えるだろう。


 他の作品を見よう。今号には「特別作品」として十名各二十首の歌が掲載されている。掲載順に、福田龍生「雪の一人旅」、桜井登世子「寒しじみ」、横山岩男「一閃」、野地安伯「睦月きさらぎ」、村木道彦「昏睡」、冬道麻子「ショートステイ」、大辻隆弘「塔の立つ校舎」、荻原裕幸「誰かが平和園で待つてる」、佐藤弓生「誰も見てない」、田中綾「『労働基準法』再読」である。
 目に止まった作を作者別に記そう。
 福田作品
>迢空のたづねし木曽の山里に風船かづらの朱の実あれば和みぬ
(迢空の名を出すことによってふくらみが出て、師の後を追う旅と見えてくる。雪道を歌いながら雪歩きになれてないひとの歌に見える点がそれで納得される)

 桜井作品
>風の匂ひコートにつけて帰宅せし大寒の夜を抱き合ひしか
 (「男のごとき匂ひ」「木材の匂ひ」「風の匂ひ」と「匂い」の歌が多いが、なかでも「風の匂ひ」が新鮮。こういう日常詠をみると古典的仮名遣いの必要があるのか疑問に感じる)

 横山作品
>農家より米買い帰りに十キロを搗くは車にわが乗れるうち
(写生派の日常雑詠集とみえるがこうした自己の限界の自覚には詠嘆につながるものがありホッとする)

 野地作品
>手伝ひのわれら本堂の椅子を置き座布団を敷き 明日節分会
>春早き足柄平野横切りて御殿場線の三輌が行く
 (前の歌は節分会の手伝いを通して歌人のいる社会空間を大変明瞭に語る。後の歌は「三輌が行く」が効いて足柄平野の様を描く。写生派のこれらは達人の技に見える)

 村木作品
>なにげなく見上げし視線のそのさきにきそひあひつつ雲峰ふたつ
>その掌(て)もてわれのまなこをふさぎしか日常と呼ぶ深き昏睡
>旺盛な生命をもつ雑草であることの罪 夏の庭にて
(日常を批判しうる精神の明晰さ、明敏さがが「晩年」にあっても写生派の原理を超えることを示す歌群。日常を維持しようとする力は生命あふれる雑草をその存在から断罪する。道元や山中智恵子が「棄嫌に生ふる夏草」と詠じたレベルを超え、ニーチェ的な権力批判の場に達している)

 冬道作品
>ベッドより救い出されて帰宅せんストレッチャーへの平行移動
 (ショートステイの体験を歌にしたもの)

 大辻作品
>塔の立つ校舎が見えて丘の上は何がなし楽し春が来れば
 (「何がなし楽し」は分析か、分析の放棄か?)

 佐藤作品
>倒れても誰も見ていないところでは樹でも人でもなかった It(それ)は
>人は言う 生んだことばに生かされる存在だから言う 愛してる
>咲くことは傷ひらくこといくたびもさくらの道をゆきかえりして
 (不可視もしくは不可聴の領域にたっぷりと身を置いてこの世を見つ両界のアナロジーを言葉の喩法によってつなぐ。注目すべき認識方法と歌法をもった歌人。三首目はなんと素晴らしい桜歌だろう!)

 田中作品
>セヨ、スベシ、シテトーゼンデショ、ネバナラヌ そういうコトバやめてにブチョー!
>けっこういい給料って耳打ちされたのに残業代込みなんてマジかい
>サイテーのこの金額で生き継いだことないヒトが線引く最低賃金(さいちん)
 (こうした批判が労働基準法の各条への違反だということを教えてくれる。啓蒙歌とうい新しいジャンルが創造される)

感想:
 村木、佐藤、田中の作品が抜群に面白い。ほんとうを言えば、批判がなければ短歌も成立しないのだと勉強した。

 2017年4月号の勉強は以上としたい。


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