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《東大寺修二会 お松明 3月10日》

2017/03/14 02:44
瀬谷こけし

 東大寺のお水取りの練行衆上堂のための松明。一枚加えて写真10枚。


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《お水取りの十一面観音悔過》

2017/03/11 16:31
瀬谷こけし


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 招待してくれる人があってお水取りに行ってきた(3月10日)。最近はお水取りの「行」の部分に関して、厳しくするようになったようだ。見学に来る人の乱れや安易さに、別当になられた佐川普文さんがたまらなくなったようだ。今日は、見学者の人数も少なく、会式の内容も非常にはっきりと感じることができた。初夜と中夜だけ見て、(早めに)引き上げたが、十分以上に学ぶことがあった。
 初夜の行が「十一面観音悔過」から始まるのも初めてだった。その五体投地。板に身を投げる音が響く。---いや、それは重く激しく響くのだが、それ以上に床板の振動として、伝わってくる。今まさに何が行われているか、が。五体投地は懺悔の行だ。懺悔すべきことがあるのだ。自分にも、世のためにも。その僧侶の行。強く激しい。だが痛ましくはない。わたしが思ったのは、『ツァラトゥストラ』の「大いなる軽蔑の時」にも懺悔の行があるべきだ、ということだった。昨日書いた《『ツァラトゥストラ』の超人論(1)》を読んでくださった方には容易に理解がゆくと思いうが、「大いなる軽蔑の時」の強度は、五体投地のような激しい行によって、表現される形式を伴うべきなのだ。---これはわたしが『ツァラトゥストラ』を越えるための要点のひとつになるだろう。今日は何よりもそれを学んだ。
 もう一つ。直観音楽の演奏としてみれば、わたしたちIMAの演奏は「お水取り」に優っていると思う。奏せられ発せられる様々な音の意味を全力で聴いていたが、その上での判断だ。だが、その最高強度や、その印された最高強度から生まれてくる「ゆとり」という点では、もしかしたらわたしたちの方が負けているかもしれない。---そうではない、と思うが、しかし実際にやって見なければわからない。---それほどに、今日の五体投地は実質があった。右ひざを上げて、その右ひざに全体重がかかるように、体の塊を持って行くようにするのだ。---わたしの見たところでは、ほんとうにそれができたのは、ただ一回だった。7回目にもう一歩のところまできて、8回目に完成した。---ここにお水取り=十一面観音悔過の最も重要なところがある。
 ますます東大寺が好きになった。




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《お水取り2014.3.13》

2014/03/17 02:15
瀬谷こけし
 東大寺のお水取りを見てきた。「達陀」(ダッタン)まで見て、家についたのが3時半頃。お水取りはシュトックハウゼンとも深い縁がある。シュトックハウゼンが両手でしてくれた強い豊かな握手を思い出す。私が彼から継承しているもの…。
 それと見ておきたかった阿修羅像と、春日の石窟仏。たっぷりものを見てきた。阿修羅像がやはり素晴らしい。まさにエッジの上にある像。一瞬後に彼が何をしているか、分からない。彼の本質は悲しみであり、憂いだ。そのまま仏教に帰依した存在として、あのまま彼が納得してしまうとは思えない。一瞬後彼が何をしているか、分からない。当然のように狂暴性があり、素早さがある。(生足なのは八部衆の中で彼だけ。あまり指摘されたことがないことだと思うが)。
 春日石窟仏は五来重を読んで以来、ぜひとも行きたかったところ。春日の深さの予感は得られた。このごろ滅多に奈良に行かなくなってしまっていたが…。

 写真はお水取りの「お松明」のシーン。連行衆(かその侍者)が松明を二月堂の欄干に乗せて、端から端まで走って、端まで来てそれを華々しく燃え立たせる。華やかで見ていて愉しい。
 もちろんお水取り、修二会のメインがそこにあるわけではないが、この楽しもうという気持ちは、このお松明にも十分に現れている。
 その最も深いところは、十一面観音悔過にあると思うが、その真夜中を過ぎて、すべては真昼の楽に転ずるのである。少なくとも転じさせようとする。火遊びまでして(「達陀・ダッタン」)。
 今回修式を見聞きしていて、声の技の素晴らしさに、もっとも感嘆した。「神名帳」の読み上げ、「過去帳」の読み上げ等々。ひとりの僧(導師)が、低い低いバス音での読呪から、高いテナーの張りのあるそれまで、易々とこなしてしまう。この声の技については、わたしには到底まねが出来ない。また、「度一切」/「度一切」の間髪を入れない応答も見事で、うっかりしているとついてゆけなくなる。そしてまた、かすれたようなほら貝の吹き方と、何か竹かマラカスか(あるいは貝か)のような音との掛け合いも、驚くべき、初めて聴き取った音楽である。---その音楽の自由性。---だがその点では、わたしたちの直観音楽アンサンブルの演奏も、決して引けを取ることはないだろう。近々「七つの日より」のCDを発表、発売する。



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奈良新聞 平成19年12月29日版に シュトックハウゼン追悼

2008/01/17 00:09
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瀬谷こけし
奈良新聞 平成19年12月29日版第6面にわたしの「シュトックハウゼン追悼」の記事を載せてもらった。
サブ・タイトルを「音楽の『大道無門』開く」と付けてくれた。このサブ・タイトルがとても嬉しかった。

わたしが書いた原稿は以下のとおりだ。わたしが言いたいことはほぼすべてここに述べられている。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

シュトックハウゼン追悼

直観音楽アンサンブル代表
京都造形芸術大学教授
       中路正恒
           
 二十世紀を代表する作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンが十二月五日にこの世を去った。奈良の東大寺などからも多くを学んで西洋音楽の革新を最終的な地点にまで押し進めた人だ。わたしはそこに「大道無門」の思想が生きているように思う。
 その最期のさまが伝えられている。前夜にオーケストラ版の「双子座」の作曲を完成させたシュトックハウゼンは、翌朝七時、付き添う人々に〈新しい時が始まった。私は全く新しい呼吸の方法を見つけたのだ〉と語った。そしてこの感覚に興奮して、できるだけ素早く起き上がりたいと言って立ち上がる。だがそれと同時に倒れてしまう。彼の心臓の鼓動がそこで止まったのだ。
 これはシュトックハウゼンの弟子、カチンカ・パースヴェーアが松平敬氏に伝えたものだ。カチンカさんは「この美しい体験の中で彼は苦しむことも病に冒されることもなく彼の肉体から離れていったのでした。何という旅立ち方なのでしょう!」とその時の感動を述べている。
 十二月九日の夜、わたしたちはささやかな追悼演奏会を開いた。その時演奏した「正しい長さ」で、私は一つの音を奏するとともに生れるその音のいのちが、他の奏者の奏する音のいのちの中に何一つ差し引かれることなく引き継がれてゆくということを経験した。急遽集まってくれた三人だけでの演奏会だったが、神聖で、貴重な演奏会になった。
 シュトックハウゼンの仕事を人々が将来にわたって誤解しないために一つのことを明言しておきたい。シュトックハウゼンの音楽の最高のものは一九六九年四月九日演奏の『短波』だ。音楽の歓びの最高のものがここにある。それは二月堂お水取りの音響空間と双璧をなすものだ。
 わたしたちもまた、その歓びを再び世に示すべく彼の直観音楽の演奏を続けたいと思っているのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 奈良新聞のWEBページにはこの記事がなかったので、ここに再録して紹介する。写真は
http://25237720.at.webry.info/200712/article_7.html
のページのものを使ってもらっています。

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