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みんなの「シューマン」ブログ


《アンデルシェフスキのシューマン《早朝の歌》終曲讃》

2017/04/23 21:28
瀬谷こけし

《アンデルシェフスキのシューマン《早朝の歌》終曲讃》

 アンデルシェフスキの演奏は多種多様な流れのリズムをつかみ取って複合させ、また移行させていっている。霧の流れのリズム、木の葉の細かく震えるリズム、太陽が東の空に近づいてくるリズム、水面のさざ波のリズム、そして木々の梢から雫の引いてゆくリズム、などである。この多様なリズムの把握が、例えばポリーニの演奏とまったく違うところだ。ポリーニの演奏の分析はあえてここではすまい。アンデルシェフスキの演奏は、革命的に新しい。そしてシューマンは、アンデルシェフスキにおいてはじめて自曲の正しい演奏者を見出したことだろう。シューマンの晩年の楽譜には、アンデルシェフスキのような自然の細部と密着した様々なリズムを聞きわける感覚によってはじめて読み取るとのできるデリケートなさまざまなリズムが書き込まれているに違いない。それらはまだほとんど読み取られていないのだろう。
 (シューマン、op.133)




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《アンデルシェフスキのバッハとシューマン》

2017/04/23 02:38
瀬谷こけし

 このパルティータ1番も穏やかさの中に鋭さ激しさ暖かさのある緻密で真っ直ぐな演奏で音色も美しくすばらしいと思うが、アンコールにシューマンの《早朝の歌》(Gesäenge der Frühe)の終曲が、さりげなく弾かれて、それがさらにすばらしい。シューマン晩年のこんな難解な曲がこんなに自然に聴けるのは奇跡的なことと言ってよいのではないか。(試しにポリーニと聴き比べてみればその違いに愕然とすると思う)。

https://youtu.be/Kvhurpp-wDc





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《シューマン: 懺悔、というよりは悔過》

2017/04/15 02:43
瀬谷こけし

 東大寺二月堂の修二会の悔過(けか)作法のなかでも五体人と呼ばれるひとりの僧が礼堂の五体板に全身を膝から打ち付ける五体投地の行は、わたしにとっては、最も激しく、力強い悔過の行為のひとつだ。そのことを、この行為を近くで体験したひとは、納得してくれるだろう。
 だが、ここでわたしが言いたいのは、もっと違った悔過もあるだろう、ということなのだ。それは耳を澄まし、感覚を澄まし、感受性の限りを尽くして音を聴こうとする行為のことなのだ。例えばシューマンの晩年の《早朝の歌》(Gesänge der Frühe)op.133のような、きわめてデリケートで、きわめて難解な曲を聴こうとすること。ピアニストはそれを、楽譜と自分のピアノの音との何回もの繰り返しから、曲の隠れた秘密、隠れた音楽を引き出してゆく行為をおこなうが、その行為のただなかに、他ならぬ悔過のおこないがあるだろう。しかしその隠れた秘密、隠れた一貫性を引き出しえないとき、ピアニストは解釈をあきらめ、演奏をあきらめることになるだろう。シューマンの晩年の曲は、このようにきわめて難解な作品群になっている。
 このところある縁があって、アンデルシェフスキ(Anderszewski)の《早朝の歌》の演奏を聴いたが、彼はこの曲のきわめて深いところまで、きわめて深い秩序にまで達していて、それを聴き取るためにわたしは、感覚と感受性の深みを呼び覚まし、掘り起こすためにきわめて大きな努力をした。その行為は、わたしには悔過と言えるものだった。それはそれまでの鈍い感受性のまま物事を感じて生きてきたために深くデリケートなものを聞き逃していたという過ちを悔いることだったから。アンデルシェフスキのこのような達成をこれまで知らず、その感覚の深さに達することができていなかったからだ。昨日ようやくその悔過の段階が五段あるとすれば、その三段にまで達することができた。第一曲は、湿気のある朝まだきの林の中の表情。どこかに小さな清らかな湖があり霧が細やかに流れる。第三曲にはある征服感があること。征服する喜びがあるとともに、征服されるものにも征服される喜びがある、そのような征服の達成。馬のギャロップのような歩みのなかで、何かが征服されるのだ。第五曲、終曲は、第一曲と相当よく似た表情だが、ここには泥気があり、清澄な湖あるいは池というよりはむしろ沼で、藻が生え、泥が遊びさまざまな生物が遊ぶ。しかしそれを善しとする微妙な風に包まれて終わる。
 第二曲、第四曲はまだ聴き取れていないが、アンデルシェフスキとシューマンがこの曲で描き示そうとしたものの少なくとも過半は、読み取れたと思う。
 この段階で、わたしはわたしのこの悔過行を一旦終えようと思う。


補足:
そういえば、ここのタイトルの「Gesänge」の中には、ヘルダーリンの「bald sind wir aber Gesang」(ほどなくわたしたちは歌になるのだ)という思想が流れているだろう。そこのところ、長めに引用紹介する。
Viel hat von Morgen an,
Seit ein Gespräch wir sind und hören voneinander,
Erfahren der Mensch; bald sind wir aber Gesang.
(Hölderlin: Friedensfeier,91-93)
 シューマンは、早朝の霧や森や光や色のいろいろなものと、互いを聴こうとし、ひとつの対話となって、この歌になったのではないだろうか。




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《旋律 ---ロベルト・シューマンに寄す---》

2016/07/11 21:38
瀬谷こけし


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(写真はオルタのモンテサクロ)


 ロベルト・シューマンのop.14、「オーケストラなしのコンチェルト」(ピアノソナタ第3番)の終楽章を聴いていて思うのだが、ある旋律の発見が解決になる、救済になる、という苦闘の経験を作曲家は持つことがあるのではないか? わたしたちはあまりにもメロディーに慣れ過ぎていて、そうした肝心かなめの旋律を見出さねばならない苦闘を忘れてしまっているのではないだろうか。その旋律だけがもたらすであろう解決。
 この終楽章は、そのような旋律の発見をテーマにして作った作品ではないだろうか。発見へのプロセス、そして発見される僥倖。この曲ではその旋律が展開されることなく、ひそかに姿を見せているそのさまで置かれているように見える。そしてこのような苦闘のうちに、シューマンの人生はあったように思う。---これは、「鬱(病)」というものの本来の形ではないだろうか?


 






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地蔵瞑想 ロベルト・シューマン

2007/10/16 00:39
瀬谷こけし

黙ふかく地中に時のあるごとく重く流れてたましひに逢ふ

 九月二十三日と二十五日、札幌のある喫茶店のカウンターの暗がりの中、ひとり精神を迷走させ、あるいは瞑想をしていて、到りついたのはこういうことではなかったか。時を遡る力が、ようやく、身についてきたようだ。シューマンの音楽が語っている何かだ。交響的練習曲のような若書きの曲にもあるが、むしろ後年の、錯乱にいたる、逃れ難い苦闘のただ中で見出していたものだ。つまり、イ短調のピアノ協奏曲の、自問自答を繰り返す、不安げな第二主題の追究が時々ほのかに見出す光明。
 やっと突きとめられた気がする。
                   (2007.10.15)

シューマン : 交響的変奏曲&ピアノ協奏曲
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