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《ブラームスのDem dunkeln Schoss der heilgen Erde》

2017/10/24 18:36
瀬谷こけし

 この曲がシューマン最晩年の『早朝の歌』作品133-1の旋律にかかわりながら作られていること。この曲に込められたブラームスの祈願の本質は何なのだろう。「種撒く人」の主題になぞらえているが。わたしにはあるストーリーが浮かんでくる。
 歌詞は以下だ。
Dem dunkeln Schoß der heilgen Erde vertraut der Sämann seine Saat und hofft, daß sie entkeimen werde zum Segen nach des Himmels Rat.
Noch köstlicheren Samen bergen wir trauernd in der Erde Schoß und hoffen, daß er aus den Särgen erblühen soll zu schönerm Los.

https://youtu.be/-eX0cKY5waE





=========補足 2017.11.01======
シラーの詩の原典とその拙訳をつけておきます。
ブラームスはこの第二行を省いて作曲しています。

Das Lied von der Glocke

Dem dukeln schoß der heilgen Erde
Vertrauen wir der Hände Tat,
Vertraut der Sämann seine Saat
Und hofft, daß sie entkeimen werde
Zum Segen, nach des Himmels Rat.
Noch köstlicheren Samen bergen
Wir trauernd in der Erde Schoß
Und hoffen, daß er aus den Särgen
Erblühen soll zu schönerm Los.

「鐘の歌」より
拙訳

神聖な大地の暗い母胎に
(われわれは手に行いをゆだね、)
種まく人はみずからの撒く種をゆだね
そしてそれが、天の顧慮により、祝福されて
芽生えることを望む。
さらにも精選された種を、われわれは
嘆きながら、大地の母胎のなかで護り隠し
その種が棺のなかから出でて、よき運命に会い
花開かんことを、望む。

 曲がシューマン最晩年の(ライン川に身投げするすぐ前の)曲『早朝の歌』を継承しているように、ブラームスのこの曲はロベルト・シューマンに対する挽歌だとわたしは考えています。
(201711102 00:22)


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《「歓喜」について シラーの頌歌の》(2)

2017/10/22 23:29
瀬谷こけし

 シラーの「歓喜への頌歌」の第3節を若干のコメントとともに訳してみよう。第1節、第2節はトピックが人間的なものの範囲の中に収まるので、それほど顰蹙を買うこともなく引用したり利用したりできるが、しかしこの先はシラーは自然について、動物的な自然について語ってゆくので、それを引用したり利用したり翻訳したりするのに少なからぬ覚悟がいるかもしれない。自然的なものへのまなざし。この関門こそシラーが踏み石として人類に差し出しているものなのだ。ベートーヴェンはそれを避けず、素直に従うようにみえる。ニーチェはそれを創造者から引き離し、ディオニュソス的なものへと引き付けて読み替えてゆく(『悲劇の誕生1』)。それではヘルダーリンはどうなのだろう? ヘルダーリンもそこから屈曲して自然へ、そしてディオニュソスの方に近づくのだが、しかしその際彼はこの屈曲の核になるものを見出しているように見える。それが「酒」だ。酒、酒による酩酊や陶酔、ヘルダーリンのバッカス(ディオニュソス)への傾倒は、酒による酩酊のリアリティーに基づいて着実に踏み進められているように見える。わたしにはヘルダーリンが酒に酔い、ディオニュソスに酔った詩人に見えるのだ。かの「酔いたまえ」と誘いかける詩人ボードレールに思いのほか近いように。他方でニーチェのディオニュソスへの屈曲は、いったい何をリアルな根拠としてなされているのかが非常につかみにくい。しかしそれはきっと「音楽」と言うべきものなのだ。音楽こそが自然の根底にまで達するリアリティーをニーチェに与えているものなのだ。そしてそれは多分にワグナー的な音楽なのだ。そしてそこには「苦悩」についての真正面からの考察があるのである。

 その原文と訳を提示してみよう。まずは第3節の原文から。

An die Freude.
3.
Freude trinken alle Wesen
  An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
  Folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben,
  Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
  Und der Cherub steht vor Gott.
                      Chor.
Ihr stürzt nieder, Millionen?
  Ahnest du den Schöpfer, Welt?
  Such' ihn überm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

次いで、責任ある訳者の訳が見つかったのでそれを引用する

手塚富雄訳
(『世界文学大系18 シラー』1959年、筑摩書房(節番号は引用者)
喜びをうたう

3.
ありとあらゆる存在は
 喜びを自然の乳房から飲む、
善人も悪人も
 そのバラ色の足あとを追う、
それはわれらに
 接吻と葡萄と
水火を辞せぬ友とをさずける、
 肉体の快楽は蛆虫どもにあたえられたもの、
だが喜びの天使は神のまぢかに立っている。

   合唱
ひざまづくのだね 君たちは? 千万の友よ。
 世界よ きみは造物主を予感するのだね、
 星空の上に彼をもとめよ、
星々の上に彼は住む。


拙訳

3.
すべての存在は歓喜を飲む、
  自然の乳房に口をつけて。
善なるものたちも悪なるものたちすべて、
  自然の薔薇の臭跡を追う。
自然はわれわれに口づけを与え、葡萄酒を与え、
  死のなかで試した後、ひとりの友を与えた。
官能の歓びが虫けらにも与えられたが、
  神の前にはケルビムが立っている。
                   合唱。
百万の人々よ、お前たちはくずおれるか?
  世界よ、お前は創造者を予感するか? 
  探せ創造者を星々の天幕を超えたところに!
星々を超えたところに彼は住んでいるはずだ。


 シラーの詩のこの第3節は、自然の存在すべてが自然によって歓喜の味わいを与えられると説くが、しかし種による歓喜の違いについては明瞭に語ってはいない。口づけに連なる歓楽、葡萄酒に連なる陶酔、そしてひとりの友をもつことの歓喜と、およそ三つの歓喜が語られていると見えるが、しかし天使ケルビムによって神に近づくことを妨げられる歓喜も考えられているようだ。そして抱擁の歓喜が切り離された者たちを再び結びつけるにしても、「ひとりの友」という個別性は存続し、したがってわたしという個体性は存続しているのである。いわば根源的一者のようなものの中への個別性の解消が問題になっているわけではないのである。とすればニーチェがその若書きの書の中で書いているような個別性の解消は、シラーの詩から導き出されるものではないと言うべきだ。しかしまた、シラーもまた自信なさげで、星々の天幕を超えたところに神が存在するとは言わず、ただ「いるはずだ」という仮定にとどまっている(*)。その半端さはいったい何なのだろう? この確信のなさはその後にも禍を残すことになるだろう。

(*)手塚訳は「星々の上に彼は住む」と訳すが、手塚がなぜ「Über Sternen muß er wohnen」の「muß」(~に違いない)を省いて訳したのか、理解に苦しむ。


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《「歓喜」について シラーの頌歌の》(1)

2017/10/13 22:03
瀬谷こけし


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 今まで読んだことがなかったのだが、『歓喜への頌歌』のなかでフィリードリッヒ・シラーは「歓喜」についていったいどんなことを考えているのかが気になって、読みはじめてみた。この歓喜への頌歌には、作詞年で言うと1785年版と1803年版がある。この詩はフランス革命時にラ・マルセイユーズのメロディーに乗せて歌われたと言われるが、1803年の詩はもともとの頌歌を、国際化し、また歌いやすく少し軽くしたもののようだ。ベートーヴェンが最初にこの詩に触れた時に読んだのは1785年版のもののようだが、彼が交響曲第九番の最終楽章に採用したのは1803年版の方の詩だ(こちらには刀や乞食が出てこない)。
 前々から気になっていたのは詩の2行目に出てくる「エリジウム」(Elysium)だ。というのもヘルダーリンがこの語を特別に貴重な言葉として使っていたように思えたからなのだ。その語は詩『エレギー』(Elegie)では「至福の島々」(seligen Inseln)に置き換えられて使われているように見えるが、元々は、亡くなったディオティーマがいる楽土として特別に思い浮かべられていたように思えるのだ(*1)。このように、ヘルダーリンの詩想の非常に深いところで、シラーの「歓喜」の詩想は流れ続けているように見えるのだ。また「至福の島々」の方はニーチェの『ツァラトゥストラ』のなかで再び取り上げられてゆく。そしてニーチェとの関わりで言えば、ニーチェの「Alle Lust will Ewigkeit」と言われる「歓び(Lust)」の思想と、シラーの「歓喜(Freude)」の思想とがどう違うかというところがわたしの大きな関心なのだ。そしてその歓喜の思想が、いつ、どこで説かれるか、シラーの説く集合的な歓喜がどのような力の下で解放されるか、ということがわたしの関心なのだ。ゲーテはシラーのことを根っから純粋な人間だと評していた。このときまたゲーテもこの『歓喜への頌歌』を念頭に置いていたことだろう。『歓喜への頌歌』でシラーは実際途方もない教えを説いているのだ。そのことを「第九」を歌う人々はわかっているのだろうか? 
わかっていないとしたらいったい何を歌っているのだろうか? そしてベートーヴェンはいったい何を訴えようとしたのか? そんなことが問題になるだろう。

◇   ◇   ◇

 ところでこの詩なのだが、日本語の訳で読もうと思っても、簡単には見つからない。ウィキペティアの「歓喜の歌」には独文、日本語訳文が対訳されていて、見やすいのだが、残念なことにこの日本語訳には訳者名が記されておらず、訳の責任者が分からず、実際には使いにくい。「ウィキ訳によれば」という風にでも紹介しようか。基準になるしっかりした日本語訳があるということはとてもありがたいことだ。ここでもまずはシラーの原文を読み、ついてウィキ訳を検討しよう。まずは「Chor」で区切られた最初の2節を紹介する。使用するのは1803年版。ドイツ語はWebのグーテンベルク版を使用する。http://gutenberg.spiegel.de/buch/gedichte-9097/27


An die Freude.

Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligthum.
Deine Zauber binden wieder,
Was die Mode streng getheilt;
Alle Menschen werden Brüder,
Wo dein sanfter Flügel weilt.
                       Chor.
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder – überm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.



Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!
Ja – wer auch nur eine Seele
Seinnennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund.
                       Chor.
Was den großen Ring bewohnet,
 Huldige der Sympathie!
 Zu den Sternen leitet sie,
Wo der Unbekannte thronet.



次のものは上掲の詩のウィキ訳である。
http://bit.ly/2cH0sCv
ここに掲載しておく。語順は(ベートーヴェンの歌詞にではなく)上掲のシラーの原詩に合わせて変更している。また第2節の「Chor.」以下はベートーヴェンが採用しておらず、ウィキにも訳がない。


「歓喜に寄せて」(ウィキ訳)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
汝の柔らかな翼が留まる所で

抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ
そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい


◇   ◇   ◇

 第1節から検討してゆきたいが、まず1行目の「schöner Götterfunken」(神々の美しい火花)である。ここは三つのものが同義的に並列に並んでいるところで、これは呼びかけと解せるが、「Funken」(火花)は現代語では普通単数1格とは考えられないが(1格形は普通は「Funke」)、呼格形としてこの形もあったのだと考えたい。3行目の「feuertrunken」過去分詞を副詞として使っているものと考えられるが、「feuer」(火)は「Funke」の縁語で、それと「trunken(=betrunken)」との関係は「火を飲んで(=体に入れて)陶酔した」というものであろう。
 しばしば誤読されているのが4行目の「Himmlische」であるが、この語尾の「-e」は女性形もしくは複数形と取るしかないが、次の「dein」がその「Himmlische」を受けているとしか考えられないので、ここは単数形と取り、「天上的な女性」つまり2行目に出た「Tochter aus Elysium」の言い換えと取るのが自然なところだろう。「エリジウムの娘」と「天上的な女性」と言い換えて呼びかけているのである。従って「Wir betreten ... dein Heiligthum」は、「われわれは(汝)天上的な女性、エリジウムの娘(=歓喜)の至聖所に足を踏み入れる」という意味である。

◇   ◇   ◇

 ここまでの4行と次の5から8行目までが、この詩のエッセンスとなるところである。つまりわれわれが歓喜の至聖所の中に踏み入ることによって、天上的な女性(=歓喜)の魔力(Zauber)が今まで隔てられていた者を結び付け、万人が兄弟となるという主題である。その厳しく隔てていた者の名は「die Mode」と言われる。「die Mode」とは多数の従う世の取り決めのことであろう。社会慣例として通用しているさまざまな差別のことである。その現実の社会の様々な差別を歓喜の魔力は破壊し、隔てられていた者たちを「再び結びつける」(binden wieder)、というのである。

 しかしながら、複数形で言われるこの魔力(Zauber)は、どういう条件のもとに働くのだろう? それについてもシラーの詩は明確に語っている。「Wo dein sanfter Flügel weilt」。「お前の柔らかな翼がとどまるところで」というのである。これは歓喜の余韻につつまれている限りということであろう。しかしこれは曖昧にすぎる表現ではないだろうか? より的確な規定をわれわれはこの詩の中に見出すことができるだろうか? われわれはこの問いを旗に立ててさらに読解を進めてゆこう。まずは第1節、第2節の拙訳を紹介して、とりあえず筆をおく。拙訳は、いつでも変更する可能性があるとご承知おきいただきたい。



歓喜によせる(拙訳)


歓喜よ、神々の美しい火花よ
至福の島の娘よ、
われわれは炎火に酔って足を踏み入れる
天上的な娘よ、お前の聖所に。
お前の魔法は再び結びつける、
世の取り決めが厳しく分け隔てたものを;
お前のやさしい翼がとどまるところで、
人はみな兄弟となる。
                      合唱。
抱かれてあれ、百万のひとびとよ!
全世界のこの口づけをうけよ!
兄弟よ---星の天幕を超えて
愛しい父が住んでいるに違いない。


大いなる企てが成就して、
ひとりの友と友になれた者は、
ひとりの愛らしい女性を獲得した者は、
おのれの歓声を投げ入れよ!
そうだ、---世界の中でただひとつの魂であっても
それを自分のものと呼べる者は歓声を上げよ!
しかしそれのできない者は、こっそりと
泣きながらこの結びつきから立ち去るがいい。
                      合唱。
その大きな輪に住む者は、
共感に忠実であれ!
共感は星々へと導き、
そこでは知られざる者が玉座についている。




*1. 「楽園(エリジウム)/そこでまことにわたしは見いだすのだ/あなたがた、死の神々のもとに/そこにディオティーマを へロスたちを。//わたしはあなたのことを歌いたい/けれども涙ばかり。/そしてわたしがさまよい歩く夜のなかでは消えてしまう/あなたの澄んだ眼(まなこ)が!/天上の霊。」浅井真男訳、ヘルダーリン全集2、1966年、河出書房新社、p.364。(ただし一語変更)
“AN/ Elysium / Dort find ich ja/ Zu euch ihr Todesgötter/ Dort Diotima Heroen. //Singen möchte ich von dir/ Aber nur Thränen./ Und in der Nacht in de rich wandle erlöscht mir dein/ Klares Auge!/ himmlischher Geist.“ (Pläne und Bruchstücke 18, S.519. Hölderlin Sämtliche Werke2,1.Stuttgart 1951.)

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《ジェノヴァの桜》

2017/04/21 11:31
瀬谷こけし


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 去年、オルタの帰りにジェノヴァに寄った時の桜。フェラーリ広場から海の方へ古い町を少し散歩しているときに見つけた花。3月11日。
 シラーの『フィエスコの叛乱』を読んでいると、提督アンドレアス・ドリア公爵の甥のジャネッティーノの乱脈ぶりは、まるで今の日本の政権のありさまを見ているようだ。

 シラーの『フィエスコの叛乱』をニーチェは読んでいると思うが、あのヘルダーリンも読んでいて、詩の中に「ドーリア」の名前が出てくる。去年ジェノヴァにちょっと寄った時、この本を読んでいれば、アンドレア・ドーリア提督の館がどこにあり(多分今の市庁舎)、フィエスコの館がどこにあって、叛乱を企てた時どこを押さえようとしたか、などよくたどれただろうと思う。ジェノヴァのロレンツォ教会は、どこかライプツイッヒのトマス教会と似た印象がある。それがゴチックとういものか。1547年のジェノヴァが舞台。シラーの技(構成の、文章の、そして人間洞察の)に感心しながら読んでいる。



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