2015/03/17 00:32

◇ところでニーチェが遺した彼の考案になる聖なる遊びは何だったのだろう? 文章においても、そうしたものを幾つか上げることができるが、彼が作曲した《生への讃歌》(Hymnus an das Leben)はその最上のものの一つとみなせる。それについて数年後彼はこう語っている。
> 同じくこの中間期〔1881年8月から1883年2月までの間〕に生まれたものとしては『生への讃歌』(混声合唱とオーケストラのための)がある。これの総譜は二年前にライプツィッヒのE・W・フィリッチュ社から出版された。これはこの年〔1882年〕の私の状態を示すおそらくは軽視すべからざる兆候の一つである。なにしろその頃私の中には、私が悲劇的パトスと呼んでいるあのずば抜けた肯定のパトスが最高度に宿っていたのであった。いずれこの歌を歌って私をしのんでくれる人もあろう。---この歌のテキストについては一つの誤解が流布しているのでここではっきりとことわっておくが、あれは私が書いたものではない。あれは当時私が親しくしていた若いロシアの一女性ルー・フォン・ザロメ嬢の驚くべき霊感なのである。あの詩の最後の数句からとにかく一つの意味を聞き取ることのできる人なら、なぜ私が特にあの詩をとりあげて賛嘆したかがわかるはずだ。つまり、あの句には偉大さがあるからだ。苦痛があるからといって生を非難するにはあたらない、という。『なんじ、もはや我に与うべき幸を持たず。さらばよし! なんじ、いまだ苦痛の持てるあり……』おそらく私の作曲もここの所に偉大さがあるだろう。(『この人を見よ』、川原栄峰訳、ちくま学芸文庫。太字強調はニーチェ。〔 〕内は引用者)。
○演奏:
Friedrich Nietzsche - Hymnus an das Leben
http://youtu.be/FIOIUlDB5yU
○歌詞原文(初版の楽譜から読み起したもの)とその拙訳
HYMNUS an das Leben
Gewiss, so liebt ein Freund den Freund,
wie ich dich liebe, räthselvolles Leben !
Ob ich gejauchzt in dir, geweint,
ob du mir Leid, ob du mir Lust gegeben,
ich liebe dich mit deinem Glück und Harme,
und wenn du mich vernichten musst,
entreisse ich mich schmerzvoll deinem Arme,
wie Freund sich reisst von Freundes Brust,
wie Freund sich reisst von Freundes Brust.
Mit ganzer Kraft umfass' ich dich.
Lass deine Flamme meinen Geist entzünden
und in der Gluth des Kampfes,
mich die Räthsellösung deines Wesens finden !
Jahrtausende zu denken und zu leben wirf deinen
Inhalt voll hinein !
Hast du kein Glück mehr übrig mir zu geben,
wohlan ! Noch hast du deine Pein...
wohlan ! Noch hast du deine Pein...
http://www.nietzschesource.org/facsimiles/DFGA/HYM
生への讃歌(拙訳)
きっと、私がお前を愛するように、謎にみちた人生よ!
そのように友は友を愛するのだ ---
私がお前の中で歓声を上げたにせよ、涙したにせよ、
お前が私に苦悩を与えたにせよ、快を与えたにせよ、
私はその幸(さいわ)いと悲嘆とともにお前を愛している、
そしてもしお前が私を破滅させねばならないならば、
私は苦しみいっぱいにみずからをお前の腕から救い出す
友が友の胸から自分をもぎ離すように。
友が友の胸から自分をもぎ離すように。
全力で私はお前を抱擁する!
お前の炎が私の精神を燃え上がらせるにまかせよ、
そして闘争の灼熱の中でわたしが
お前の存在の謎を解き明かすのを許せ!
数千年間生き、考えつづけたい、そうすればおまえの中身を
すっかりとそこに投げ入れることができる!
お前はもはや私に与える幸(さいわい)を何も残していないのか ---
ならばよし --- お前はまだお前の責め苦をもっている。
ならばよし --- お前はまだお前の責め苦をもっている。
(下線は引用者)
◇ルーにとって、生は自分を包摂しつつ、少し間をとることもできるべきもののようだ。抱きしめられて身動きできなくなってしまうのは破滅させられること。そこからは身を離し、自分と灼熱の炎のなかで闘争しあうべきもの。距離の必要性。距離を持ち、そしてその本質の謎を解き認識することによる献身。認識行為を通じた自己贈与。
みずからの身を傷つけつつ生の本質を認識しようとするこの献身の姿勢はニーチェと共通する。その姿勢を「精神」(Geist)と呼ぶ。
○ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』II、「名声高い賢者たち」より
>しかし、あなたがたは、あなたがたの徳においても、やはり民衆、にぶい眼をした民衆と異なるものではない。---精神とは何か、を知らない民衆でしかない!
精神とは、みずからの生命(いのち)に切りこむ生命(いのち)である。それはみずからの苦悩によって、みずからの知を増すのだ。---あなたがたはまだこのことを知らない。
そして、精神の幸福とは、油を塗られ、涙できよめられて、犠牲(いけにえ)の獣となることである。---あなたがたはまだこのことを知らない。
そして、たとえ盲目となっても、その模索、その手さぐりがなお、その人が見つめた太陽の力を証(あかし)すべきものなのだ。---あなたがたはまだこのことを知らない。
[中略]
あなたがたは、帆が海原(うなばら)を渡って行くところを見たことがないのか? はげしい風に背を丸め、膨らんで、おののきながら渡って行く所を?
その帆のように、精神の激しい風におののきながら、わたしの知恵は海を渡って行く、わたしの「荒々しい知恵」は!
(氷上訳、岩波文庫。太字強調はニーチェ。下線は引用者)
◇ニーチェにとって精神は炎でもなく、火花でもない。激しい風となって知恵の帆船に海を渡らしめる。
○原典。
>Aber Volk bleibt ihr(=berühmten Weisen) mir auch noch in euren Tugenden, Volk mit blöden Augen, - Volk, das nicht weiss, was Geist ist!
Geist ist das Leben, das selber in's Leben schneidet: an der eignen Qual mehrt es sich das eigne Wissen, - wusstet ihr das schon?
Und des Geistes Glück ist diess: gesalbt zu sein und durch Thränen geweiht zum Opferthier, - wusstet ihr das schon?
Und die Blindheit des Blinden und sein Suchen und Tappen soll noch von der Macht der Sonne zeugen, in die er schaute, - wusstet ihr das schon?
〔...〕
Saht ihr nie ein Segel über das Meer gehn, geründet und gebläht und zitternd vor dem Ungestüm des Windes?
Dem Segel gleich, zitternd vor dem Ungestüm des Geistes, geht meine Weisheit über das Meer - meine wilde Weisheit!
(下線は引用者)
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◇ルーの詩に戻ると、この詩において注目すべきは最初の二行だと思われる。
>Gewiss, so liebt ein Freund den Freund,
>wie ich dich liebe, räthselvolles Leben !
>きっと、私がお前を愛するように、謎にみちた人生よ!
>そのように友は友を愛するのだ ---
ルーにとっては、自分が(謎にみちた)生を愛することがどういうことかがよく分かっていて、その実感をもとにして、(友が)友を愛するとはどういうことかを推測しているのであって、その逆ではない。ルーは(謎にみちた)生に魅惑されている。個々の友人のだれかれよりも。実際『回想録(Lebensrückblick)』でルーは「räthselvolles Leben」(謎にみちた生)ではなく「Räthselleben」(謎=生)という語による詩をニーチェに呈示したと語っている。「Räthselleben」という語はより直裁だが意味する所を読み解きにくい。「räthselvolles Leben」への書き換えは、そこをともあれ通りやすくするためのニーチェによる修正ではないかと愚考する。
ともあれこの詩でルーは、自分が生の謎に魅惑されていて、その謎解きに人生のすべて、感受性の最後の一滴までを賭けて進んでゆきたいという思いを語っている。だれかれへの献身ではなく、生への献身、灼熱の中に身を投じる実験によって、幸いと悲嘆、歓喜と苦痛のすべてを認識し、その謎の全てを解き尽くしたいというそのような形での生への献身を語っている。
(ルーの「生への讃歌」にはさらに別稿もあり、それらを詳細に検討したいところだが、それも別の機会にゆずる)
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