津波と焚火 (柳田国男『雪国の春』)

瀬谷こけし
 柳田国男が「二十五箇年後」(『雪国の春』、「豆手帖より」大正九年)という随筆の中で語っていることを紹介しておきたい。次の2段落である。

> 唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずの中(うち)、ただの一戸だけ残って他はことごとっくあの海嘯(つなみ)で潰れた。その残ったという家でも床の上に四尺あがり、時の間にさっと引いて、浮くほどの物は総(すべ)て持って行ってしまった。その上に男の児を一人亡くした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍に店を出している婆さんの処へ泊りに往って、明日はどことかへ御参りに行くのだから、戻っているようにと迎えにやったが、おら詣(まい)りとうなござんすと言って遂に永遠に還って来なかった。
> この話をした婦人はその折十四歳であった。高潮の力に押し廻され、中の間の柱と蚕棚との間に挟まって、動かれなくている中に水が引き去り、後ろの岡の上で父がしきりに名を呼ぶので、登って往ったそうである。その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見掛けて、泳いで帰った者も大分あった。母親が自分と同じ中の間に、乳呑児と一緒にいて助かったことを、その時はまるでしらなかったそうである。母はどんな事があってもこの子は放すまいと思って、左の手で精一杯に抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤(すす)の埃(ほこり)で胡麻(ごま)あえのようになっていたそうである。その赤子が歩兵に出て、今年はもう還って来ている。よっぽど孝行をして貰わにゃと、よく老母はいうそうである。

これは明治二十九年の、いわゆる「明治三陸大津波」のときの話しであろう。これは五月五日(旧暦)の夜の出来事だが、この村は火事にはならなかったようだ。もともとそう明るくはない上に、真っ暗になったことだろう。この語ってくれたひとの家では、後ろの岡の上で、一晩中薪を焚きつづけたのだという。それが燈台のようになって、津波で海に流されながら、まだ泳ぐ力の残っている人には、目印にも励ましにもなったことであろう。三百束もの薪というのは、有りったけに近いものだろうか。村の人々のつながり、そして難のなかにあって何をすれば有効かという洞察、そういうものが活きたという話だ。今回の地震・津波でも、きっとそういう村人同士ではわかる有効な手立てがあるのだと思う。あるのならそれが活かされればと思う。津波で壊れ瓦礫となったもの中にも有効に活かされる物があるのではないか。柳田は「食うが大事だ」とずんずん浜辺近くに出た者が、かえって「漁業にも商売にも大きな便宜を得ている」と語っている。明治と今とでは同じには行かないだろうが、この話の中に、きっと活かしうる知恵もあるだろう。







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