戦わないこと一 「堀文子の脱走論」  ――「ニーチェ探検」(2-1)

瀬谷こけし
 堀文子は『ひとりで生きる』(2010年求龍堂)の中でこう言っている。

>人に屈伏しないためには、闘わなければなりませんが、私は闘うのが嫌いです。そうなると、脱走するしかない。こんな子どもじみた解決をする自分を恥じながら、私はその後も、「闘わず屈伏せず」という姿勢で、生きてきてしまいました。(p.157)


 「屈伏しない」ということと「闘わない」ということの両方を満たすために「脱走する」という生き方をしてきたというのである。解説をするまでもない明晰な文章であるが、ここで一つ注意しておくとしたら、それは「たたかう」に「戦う」ではなく「闘う」という字を使っているところである。この点は後に触れるだろう。
 そのように、「闘わず屈伏せず」、「脱走」を解決法として生きてきたその生は、何を優先していたのだろうか。堀の生き方はきわめて単純であるように見える。ただひたすら「美にひれ伏して」生きてきたというのである。

>肩書きを求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、何者でもない者として送ることを志してきた。(p.117)

 「肩書き」を求めないことで、屈伏しない純粋な生き方が可能になっている。そして「美にひれ伏す」とは、「美」を何よりも優先するということであり、それは、ぎりぎりの選択においては、「美」を、他人による評価よりも優先するということである。それは別の、普通の具体的な言い方をすれば「心に響く美しいものを記録する」ということである。

>私は絵で自己主張しようという意志もなく、名を揚げようという気もなく、心に響く美しいものを記録しながらここまできた。(p.123)

 「心に響く美しいものを記録する」ということは、自然をかくあらしめている力、すなわち造化の神を「神」と呼べば、美の記録とは、「私と神との合作」だということになるだろう。(p.131)

>神の造った色や形の美しさに吾を忘れ描き留めたその線は、自然の力を借りてできた記録で、私と神との合作なのだ。その時何を見、何をはぶいたか、私の能力の限界を残す自然との果たし合いの記録ともいえる。(p.131)

 堀がしてきた仕事は、美しいものとの出会いにおいて、美をめぐっておこなわれる、自分と「自然との果たし合い」の記録とも言えるものである。ここで言われる「果たし合い」も一種の「たたかい」であろうが、それは社会的な財の配分をめぐる「闘争」とは違い、みずからの能力の限界にいどむより本質的な「たたかい」なのである。

 このように、堀の「闘い」(=闘争)と「屈伏」の拒否としての「脱走」は、自然の美とのひたすらのたたかいのために選ばれた生き方なである。


画像
新しい芽(多分楓の)
(Panasonic LumixGF3+Voigtlaender Apo-Lanthar90mm)







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