【小説】 閻魔王の前で

瀬谷こけし
閻魔王の前で 
 ---フランツ・カフカに---

王: んー、お前にはひとりの娘がおるな? ケイカという名前だ。何やら坊さんみたいな名前だな。
ジハ: そんな名前の坊さんがいたのは知ってます。
王: ひょっとしたらお前、助かるかもしれんゾ。その娘のお陰でな。んんー、感心な娘じゃ。大震災の時にはボランティアに行っておるナ。大学受験の前だというのに。センター試験がよくて余裕があったんだろうが。その娘に免じて地獄落ちを免じてやらんでもない。どうだ?
ジハ: 要りません。
王: お前が地獄に落ちていることを知ったらその娘が悩んで苦しむぞ。
ジハ: それならそれ、あいつの業という他ない。
王: お前は地獄を馬鹿にしておるな?
ジハ: 馬鹿にしているわけではない。
王: 地獄は坊主たちが言ってたようなものと全然違うぞ。
ジハ: そうだろう。地獄のことなら王より私の方が詳しいかもしれない。
王: 何もないのだ。緑の海の底のように。だが意識はあり、時間はある。時間は無限にあるのだ。あたりには誰もいない。何も見えない。地獄の獄卒というやつもおらんのだぞ。
ジハ: 私はそれを知っている。
王: 苦しくないか?
ジハ: 苦しいだろう。
王: そこでおまえは永遠に置き去りにされるのだ。それでもいいのか? むしろお前は死にたいだろう。
ジハ: もちろんそうだ。
王: ならばお前の娘に願え。あの娘がひとこと救ってやってくれと言ったら、お前を地獄から救ってやる。そしてどこかに送ってやる。そう簡単に死なせてやるわけにはいかないからな。
ジハ: 不要だ。私は誰にも頼らない。
王: 何とも因果な奴だ。ちょっと前にもお前のような奴に会ったぞ。そいつは何とか賢治と言ったな。だがお前の方が業が深い。そいつは最後に妹に頼りおった。それにいろいろめそめそしとったわ。
ジハ: それはわかる。だが王は何が言いたいのだ?
王: お前はおれがどこから生れたか知っているか?
ジハ: 考えたこともないが、考えればわかるだろう。
王: お前はおれの寿命を知っているか?
ジハ: 考えたこともない。
王: お前は奇跡のような奴だ。
ジハ: 王は何が言いたいのだ?
王: おれにも寿命が来たようだ。
ジハ: どういうことだ?
王: お前が来たために地獄が壊れるということだ。前にひとりの女が来た。名前は智恵子といったな。お前のように、地獄をよく知っていた。それで地獄が壊れそうになった。だがその女の場合は、鳥になってどこかに飛んでいった。おれはそれを黙認していた。だがお前の場合はそうはいかない。お前はおれよりも地獄を知っている。おれはもう閻魔大王をつづけることができない。お前はおれの後継ぎになる気はないか?
ジハ: ひとを裁くのは私の趣味ではない。
王: そうか。それなら仕方がない。
ジハ: そうするとどうなるのだ?
王: わかっているだろう。地獄が無くなるのだ。
ジハ: そうか。
王: それがどういうことかはわかるな?
ジハ: 推測はつく。
王: 言ってみろ。
ジハ: 世界が地獄になるのだ。ありとあらゆる生き物が、おのれの心の底の地獄の中に生き続けることになるのだ。永劫に。どのような終りも、どのような変化もないその海の底のような世界の中に打ち捨てられるのだ。
王: その通りだ。今まではおれが善人/悪人の線を引いていたおかげで、ひとはだれも本当の地獄を見ないですんだ。極悪人すらほんとの地獄をまったく見ないですんだのだ。だがおれの寿命も終った。お前が閻魔王を継いでくれない限り、地獄は消えてしまうのだ。も一度頼みたいが、お前はおれを継いで、次の閻魔王になってくれないか? お前が閻魔になってくれれば、お前の娘は地獄を見ないですむ。
ジハ: そうか。
王: それでもいやか。
ジハ: 仕方がないことだ。
王: 苦しいぞ。
ジハ: いつまでも続くのか。
王: そうだ。
ジハ: 何か変わることはないのか? たとえば仏陀が生れたり。
王: まったくない。というより、仏陀はもう生れているのだ。だがあいつにも何もできない。
ジハ: そうか。仏陀も死ぬことはできないのか。
王: らしいな。
ジハ: 人間は生きている時、みな心の底に地獄を抱えて生きることになるのだな。
王: そうだ。
ジハ: そして死んだら今度は地獄の中に沈んで終わりのない時を過す。
王: そういうことだ。だがおれの知らないことがまだ何かあるかもしれない。
ジハ: そうか。それは地獄の中でだけ発見されるかもしれないものなわけだ。
王: そうだ。それをまだ誰も知らない。
ジハ: そうか。だが私には少し分かる。地獄もまんざらではないかもしれないぞ。
王: そうか。見つけたらおれにも伝えてくれ。
ジハ: いいだろう。ではその時まで。間もなく、あっという間にこれまで多くの魂を閉じ込めて来た地獄は消滅するのだろう。
王: そうだ。あっという間に消える。
ジハ: ではさらばだ。
王: あ。


(2012.2.7)


* こちらにも貼っておきます。すぐに削除するかもしれません。



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