戦わないこと(三) 「醜いもの・必然的なもの・美しいもの」 FW. 276.  ――「ニーチェ探検」

瀬谷こけし
 もう一度テキストから紹介しよう。『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft) 276のアフォリズムのからである。

> 事物における必然的なものを美として見ることを、私はもっともっと学びたいと思う、---このようにして私は、事物を美しくする者の一人となるであろう。運命愛 (amor fati)、これを、これからの私の愛としよう! 私は醜いものに対して、戦いをいどむまい。私は責めまい。私は責める者をも責めまい。眼をそむけるということをわが唯一の否定としよう!
(氷上英廣訳、1980年、強調はニーチェ)

ドイツ語原文は以下。

> Ich will immer mehr lernen, das Nothwendige an den Dingen als das Schöne sehen: --- so werde ich Einer von Denen sein, welche die Dinge schön machen. Amor fati: das sei von nun an meine Liebe! Ich will keinen Krig gegen das Hässliche führen. Ich will nicht anklagen, ich will nicht einmal die Ankläger anklagen. W e g s e h e n sei meine einzige Verneinung! (FW. 276)

 戦わないという生き方について堀文子はこう語っていた。

> 人に屈伏しないためには、闘わなければなりませんが、私は闘うのが嫌いです。そうなると、脱走するしかない。こんな子どもじみた解決をする自分を恥じながら、私はその後も、「闘わず屈伏せず」という姿勢で、生きてきてしまいました。(堀文子『ひとりで生きる』p.157.)

 共通するところも多いこの両者の主張の、異なるところをわたしは明確に取り出したいのである。「眼をそむけるということをわが唯一の否定としよう」というニーチェの主張する生き方は堀の「脱走」とそう違いはない。無駄なことをやっている暇はない、ということである。そのとき堀が何を大事なこととしたかについては先に「戦わないこと(一)」で見た。ひたすら「心に響く美しいものを記録すること」(前掲書p.123)に人生を向けてきたのである。ニーチェもまた「眼をそむける」ということをみずからの唯一の否定行為とすると語る。そしてみずからはもっぱら「事物を美しくする者の一人となる」ことを目指すのである。両者がともに「美」をもっとも重要なこととするのも共通している。その美がどういうものであるかについては先に「戦わないこと(二)」で見た。ここではむしろ戦い/闘いの違いについて考察を進めよう。

 ニーチェは今後は行うまいとする「たたかい」に対して "Krieg" の語を使っている。この "Krieg" はヒトラーの『我が闘争』で有名な "Kamp" とは違ったものであり、通常の語義でいえば「戦い」「争い」「戦争」などの意味である。ここで "Kamp" の方をさしあたり「闘争」と訳すことにするが、この語は「戦闘」「争い」「抗争」「格闘」などの意味で使われる。例えばボクシングの試合などは "Kamp" ではあっても、決して "Krieg" ではない。つまり、「闘争」には、それに加わる者たちの間で共通に了解されている価値があり、それは世界チャンピョンとか、名声とか地位とかの既存の社会的価値であり、闘争とはそのような共通に理解されている価値を獲得するための争いなのである。堀文子はあるところで「肩書きを求めず」(p.117)と、自分はそのような既存の価値をめぐる争いには加わらないと宣言している。ニーチェもまた「名声と永遠」(>>Ruhm und Ewigkeit<<)という詩のなかで、自分は名声を唾棄すると宣言している。彼らはともに「闘争」を拒否しているのである。

 しかしニーチェが上に引用したアフォリズムで語っているのは、闘争の拒否についてではない。そうではなく、戦いの拒否、強く表現すれば戦争の拒否なのである。それでは戦争の拒否とは何なのだろうか? 戦争や戦いにおいては、双方の間で共通の価値観が存在しない。目指されているのは勝利であり、みずからの価値観、つまり最高価値と諸価値の序列の押し付けである。そこには闘争においては存在していた共通の価値目標がすでに存在しないのである。そして仮に今ここで戦争や戦いが存在しないとすれば、ここで既に何ものかが勝利しているからである。

 ここでニーチェが「私は醜いものに対して、戦いをいどむまい」と言うとき、彼が「醜いもの」と呼ぶものは何なのだろうか? この問いはきわめて難しい問題にわれわれを導くように思われる。「醜いもの」とは何か。この問いをニーチェは『ツァラトゥストラ』第四部にまで引っ張ってゆくのであるが、そこで示されるしつこい目撃者である神を殺害するという問題には今は触れない。今問題になっているのは「無視する」(Wegsehen、眼をそむける)という態度が、戦争をしないというもひとつの態度と深く結び付いているということである。ニーチェが醜いものと戦争も闘争もしないとすれば、それは彼が肯定者になりたいという切望をもっているからであり、運命愛をわが愛としたいという願望を最も強い願望として彼が懐いているからである。事物における必然的なもの(これは微妙に「必然性」と異なっている)を美しいものとして見ることをさらに学びたいと思っているからである。まず自らが肯定者になることが先決なのであるが、それがまだ十分にできていないというのである。だがしかしここでわれわれは幾つかのまだ問われたことのない問いを問わなければならない。これはおそらくニーチェ自身がはっきりとは気付いていなかった問題である。それは、端的に「醜いものは何か」という問いであり、つまり醜いもののなかに必然的なものは存在していないのか、という問いである。これは道元の幾つかの問いと同じ問題である。つまりすべての有情が仏であるのを知るのは、ただ仏になった者だけだという問題である。これに対する道元の答えはいつも「只管打坐」であり、ただひたすらに修行せよということであるが、ここにおけるニーチェの答えも同じようなものであると見える。恐らく醜いものの中にも必然的なものがあり、その必然的なものを美しいものと見ることができた場合には、醜いものがその中の必然に解消され、必然的なものとなり、醜いものではなくなってしまうのである。ニーチェがいろいろなもの、責める者をさえ責めず、ひたすら眼をそむけるとすれば、それは彼がみずからが肯定者になるという先決的な問題に直面しているからである。

 しかしながら、この問題をこのように解釈することで満足するとすれば、それはこのニーチェの問題を、ドゥルーズ以前の地点に引き戻してしまうことになるように思われる。ドゥルーズはこの問題を、肯定がその前と後とに従える否定と、そして二重の肯定の問題として深めたのである。これはいわばニーチェにおけるディオニュソス的次元の問題であるが、われわれとしてはこれをディオニュソス的芸術創造の問題として探求したいのである。つまり最高の美をどうやって取り押さえるかという問題、まさしく美的作品の創造的創生の問題として考察したいのである。つまり先にわれわれが『悦ばしき知識』399の解釈のなかで示したことである。これはわれわれにとっては、シュトックハウゼンの直観音楽の問題である。そのときわれわれはニーチェがそこで語った一回性の問題と、他方で永遠回帰の思想において語られる反復の問題との会合点の問題として、実践的に直面することになるであろう。
 (2012.4.12)



*20120421 ミスタイプで抜けていた「Wegsehen」の「s」を補足。

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