《宮沢賢治の修羅 ノート11 梅原猛の『地獄の思想』》

瀬谷こけし

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 梅原猛の『地獄の思想』の中には、宮沢賢治を論じた章がある。「第十章 修羅の世界を超えて(宮沢賢治)」がそれだ。今宮沢賢治について何を論じるべきかということを考える場合、欠かすことの出来ない一冊である。宮沢賢治学会・京都セミナー2014《宮沢賢治 修羅の誕生》の開催を明日に控え、今日一日、ゆっくりと読んでみた。
 わたしが気になった二つの点を紹介し、若干の考察をしてみたい。
 まずはここ。

A.
> 賢治の世界観は、このような(物質と人格の二極に分化して考える:引用者)世界観とはまったくちがった世界観であった。この世界は大生命のあらわれ、この大生命は天地自然に、山川のなかにも、植物のなかにも、動物のなかにも、人間のなかにもあらわれているのではないか。しかもこの大生命は、全体としての生命の存続と発展をはかる善なる意志をもっている。そしてこのような意志が、われわれの心のなかに、現に今、実在している。それが仏心なのである。(『地獄の思想』中公文庫2007年、pp.212-213)

B.
> すべての生きとし生けるものの世界は殺し合いの世界、修羅の世界である。(同前、p.223)
>人間ばかりか、すべての生きとし生けるものは、すべて殺し合いの世界、修羅の世界に生きている。それゆえ、この世界に生れた「おれはひとりの修羅なのだ」。そしておれという修羅は他の多くの修羅と同じように、「唾し はぎしりゆききする」。しかし、おれという修羅は、ちょうど夜の空をぐるぐるぐるぐるまわるよだかのように、この修羅の世界全体に大きな絶望をいだいている。修羅の心でもって、この世界全体に怒っている」。(同前、pp.225-226)

疑問:
1.まず「B」から。「殺し合い」というと同種の生物が互いに殺し合うことを意味すると思われるが、作品『よだかの星』をはじめとして賢治の作品には同種の生物が殺し合うものはないのではないか。
2.また、これまで見てきたように、賢治の修羅は、燃え上がる怒りを核にして形象化されており、管見、食物連鎖の関係において下位の生物を殺すことのうちに修羅を見て取るものはない。修羅は、むしろ下位の者がどうにもならない上位の者に対していだく怒りを意味していると理解すべきではないか。だからこそ修羅は「唾し はぎしりゆききする」(「春と修羅」)存在なのである。
3.「A」に関して。個々の生物、無生物の中に「大生命」があらわれているという世界観には異論がないが、問題は個々の生物、無生物が、それぞれ他に還元できない個別的な意志をもっているかどうか、という点である。賢治は個々の生物、無生物の廃棄できない個別的な意志を認めているのではないか? 意志が一つであるとする世界観は、内部的な無数の対立によって深刻な悲観論に導かれるだろう。


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