生成変化---強度に、植物に、微塵になること (哲学コラム)

瀬谷こけし

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 ひとがある触発を受け、心の奥底のひそかな繋がりに動かされるとき、ひとは何か見知らぬものに生成変化を遂げているのではないだろうか。宮沢賢治の「告別」という詩はこんな言葉からはじまる。
「おまへのバスの三連音…中略…/その純朴さ希みに充ちたたのしさは/ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた」
賢治はこのとき草へと、草葉へと、生成変化したのではないだろうか。こんな振動、こんな顫えを、わたしたちは確かにどこかで知っている。このときひとは家族制度や、国家機構のような組織体から離れて、別の繋がりのなかにいるのだ。別の、異質な、多種多様なものたちとの繋がり。そんな繋がりの中へと、ひとは生成変化してゆくことができるのではないだろうか。
 6月の「哲学への案内」のレポートの中にジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著の『千のプラトー』に取り組んでくれたものがあった。それはこの科目が始まって以来、初めてのことだった。そのことに私は少なからず感激した。こんな途方もない本に取り組んでくれて……。この本のエッセンスにどのようにしたら近づけるか、それをこのコラムで語りたいと思いながら花巻に来た。「環境文化論・花巻」の授業のためだ。この授業は宮沢賢治の思想の理解を目指して組まれているものだ。その賢治の仕事の中で、詩「告別」は、私には、人の生き方への示唆が最も現実的に美しく示されたものに思える。そしての詩の中に、まさに組織体から離れた知覚され難いものへの生成変化、触発、そして情動が、描きこまれているのではないだろうか。
 花巻の空港に着いた時、大阪とは打って変わって空が晴れ、その空の一か所からひばり鳴き声が聞こえてきた。その節回しが、精魂がこめられていて、一瞬、瑠璃色に輝くように聞こえてきた。私は、詩「告別」の中の「空いっぱいの/光でできたパイプオルガン」を思い出した。まさにそれをひばりは弾いているように思えたのだ。その啼き声によって。賢治の詩は、こう結ばれている。

>みんなが町で暮らしたり
>一日あそんでゐるときに
>おまへはひとりであの石原の草を刈る
>そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
>多くの侮辱や窮乏の
>それらを噛んで歌ふのだ
>もしも楽器がなかったら
>いいかおまへはおれの弟子なのだ
>ちからのかぎり
>そらいっぱいの
>光でできたパイプオルガンを弾くがいい

 ここには私が微塵への生成変化と呼びたいものへの示唆がはっきりと示されている。


(本稿は、京都造形芸術大学通信教育部補助教材『雲母』2014年9/10月号の原稿です)

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*註
「示唆」→「指示」へ一語変更しました。
(2014.7.12)

*註
「生成変化と呼びたいものへの指示がある」

「生成変化と呼びたいものへの示唆がはっきりと示されている」
に変更しました。
(2014.07.17)




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