《いのちを無暗にとること ---芥川龍之介の「蜘蛛の糸」》

瀬谷こけし

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 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は彼のもっとも成功した小説の一つである。しかしその作品の理解についてはあまり異論を聞かない。試しにウィキペディアを見てみると、「あらすじ」がこんな風に記されている。

> 釈迦はある時、極楽の蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。カンダタは悪党であったが、一度だけ善行を成し、それは小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたのだ。それを思い出した釈迦は、彼を極楽へ導こうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
極楽からの蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば助かる」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって昇り始めた。ところがふと下を見下ろすと、地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸が切れるだろう。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄に堕ちてしまった。
> それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
(ウィキペディア「蜘蛛の糸」、あらすじ; 2014.10.27)

 犍陀多(カンダタ)という悪党がお釈迦様の意のあるところを解さず、せっかく与えてくれた地獄脱出の機会をむなしくしてしまったという話である。こうした理解に関しては問題がない。
 だがこの小説を少し注意深く読むと、芥川の、意外と深い善悪論が見えてくる。それは、釈迦が犍陀多という人物のどういうところに善を見たのか、という問題である。そのあたりを引用してみよう。

> するとその地獄の底に、犍陀多(かんだた)と云ふ男が一人、外の罪人と一しよに蠢いてゐる姿が、御眼(おめ)に止まりました。この犍陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ惡事を働いた大泥坊でございますが、それでもたつた一つ、善(よ)い事を致した覺えがございます。と申しますのは、或時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を擧げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無暗にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつたからでございます。
> 御釋迦樣は地獄の容子を御覽になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思ひ出しになりました。さうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出來るなら、この男を地獄から救い出してやらうと御考へになりました。幸、側を見ますと、翡翠のやうな色をした蓮の葉の上に、極樂の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釋迦樣はその蜘蛛の糸をそつと御手に御取りになつて、玉のやうな白蓮(しらはす)の間から、遙か下にある地獄の底へ、まつすぐにそれを御下しなさいました。
(青空文庫、http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

 釈迦の見た犍陀多は、まず、「いろいろ惡事を働いた大泥坊」である。「人を殺したり家に火をつけたり」、そのような悪をいろいろしてきた人物だということだ。だがその男がたったひとつだけだが善い事をしたことがあるというのである。それは道端を這っている蜘蛛を見つけて、足で踏み殺そうとしたとき、ふと次のように思って、その蜘蛛を助けてやったという事だ。そのとき彼が考えたのは、底本の通りに引用すれば「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無暗にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ」ということである。ここには重要な二つの契機が見出せる。一つは、彼がその蜘蛛を、小さいながらも<命のあるもの>だと認識したということである。第二の契機は、命あるものの<命を無暗にとる>のは可哀そうなことだ、という倫理的な判断である。この二つの契機は相関しているであろう。殺そうとしている相手が<命あるもの>として立ち現れてくるということのうちに、何か大きな善があるのだと芥川は考えたのではないだろうか。

 こうしてみると、われわれが芥川の描く犍陀多という人物の一貫性を信じてよいのであれば、犍陀多が「人を殺したり家に火をつけたり」という悪事を行ったとき、彼にとっては、「人」が<命あるもの>として立ち現れなかったのか、あるいは、<命あるもの>として立ち現れた場合には<無暗に命をとった>わけではないのか、どちらかであることになる。<無暗にではなく命をとった>とすれば、それは然るべき理由があってそうしたということになるに違いない。それは自分が生きるためには殺さなければならないと考えたから、ということが理由になっていることだろう。これは、この小説の終わりで、蜘蛛の糸が切れる寸前に彼が考えることと同じだと推測される。

> 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。

 このとき彼は、糸が切れないように、ついて上ってくる罪人どもを再び地獄に落としたいと思っていたはずである。利己的ではあるが、合理的な理由のある行為であり、人間の普通の行為であると見ることができる。
 他方、相手が<命あるもの>として立ち現れてくることのない殺人や殺戮は、今日では枚挙に暇のないほどになってしまった。小さいながら命あるものの命をむやみにとることは、いくらなんでも可哀そうなことだ、という犍陀多の倫理思想は、ささやかでつつましいものだが、そこにはしかし非常に善いものがあるように見える。それこそが芥川の描く釈迦のまなざしなのだ。



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