《ヘルダーリンの「生の半ば」》

瀬谷こけし


画像



 わたしが30歳ぐらいのことだったと思う。生協の食堂で上田閑照先生をみつけて、少し話したことがある。わたしは最近ヘルダーリンの「Hälfte des Lebens」を読んで考えていると言ったつもりだったのだが、わたしは「Hälfte」の発音に自信がなく、よく通じないようだったので、ヘルダーリンの「命の半ば」を読んで考えていると言いなおしたのだった。
 先生は、人生の半ばを過ぎると、後は衰えてゆくばかりだ、という感慨を語られた。主に体力的なことを言っておられたようだが、また気力の衰えのようなことも含めて言ってらっしゃるように感じた。先生はわたしより二回り年上なので、そのころ55歳ぐらいだったことになる。それからのお仕事ぶりを拝見すれば、衰えどころか、さらに明晰に西田哲学の、あるいは禅の、本質を語ってゆかれるところにさしかかっていらしたはずだ。いわば命の半ば、命の頂点に到達されていたように思う。
 今わたしは再びヘルダーリンの「Hälfte des Lebens(生の半ば)」について少し論じたいと思っている。それはその詩の中の「heilichnüchternes Wasser」にこだわりたいからだ。この「heilichnüchternes Wasser」の中には「聖なる夜」というべきものがあって、それはアポロン的なものとディオニュソス的なものの両方を含むものではないか、と思うからだ。そしてそれはニーチェが「アポロン的なもの」「ディオニュソス的なもの」と概念化するとき取り逃がしていたものではないかと思えるからだ。あるいは言い換えれば、ヘルダーリンの言う詩人=バッコスの司祭とは、聖なる夜の覚醒的な本質を保ち続ける者のことではないかと思えるからだ。それはニーチェの語る「Rausch(陶酔)」とは微妙に違う。大変デリケートな概念化が要求されるが、それをやってゆきたい。




ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック