《夕焼け 9月13日》

瀬谷こけし


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 今日の夕焼けは特別だった。それはしかし明日への希望に燃えた空というものとは少し違って、また禍々しいことの予兆に見えるというのとも少し違って、また不思議というのでもなく美しいというのでもないようなものだった。確かに壮麗なのだが、喜びをもたらしてはくれない。何なのだろう?
 色合いが特別だった。赤っぽい色が多かった。花で言えば何の花と言えばいいのだろう。思いつかない。台風18号の接近が関係しているのだろうか。
 ところで夕焼けの写真を撮るのは苦手だ。最近はカメラのカラーバランスを変えるよりも、どれだけ露出をアンダーにするかというところを変えるだけで、まずまず目で見たとおりに近い色が出せるようになったが、その上にそれぞれのディスプレイのカラーバランスの調整によって少なからず見え方は違ってくるはずだ。ともあれわたしが見た夕焼けはこんなものだった。撮り始めるのが遅く、華々しいころのものは一枚もないが。写真三枚。

 今日は久しぶりに進々堂で勉強をした。というか、学会発表の準備を。最近自宅以外でよく使う勉強場所は京大の付属図書館なのだが、そこよりも進々堂の方がしっくりくる。人文学なのでテキストをどう読むか、どれだけ正しく深く読み切るかということが勝負なのだが、思考のために場所としてはわたしには進々堂が一番だ。多くの論文をここで書いている。聞こえてくる話もそれぞれの本業のアクチュアルな問題についてのものが多く、いい刺激になる。読んでいたのはニーチェの「救済について」(Zar)だが、その凄まじいリアリティーに驚嘆しながら、これをどうまとめれば人に適切に伝わるかを考えながら読む。問題の肝心なところ、解決法のところで、彼は(ドイツ語の)接続法2式を使っていて、彼にまだ見えていないか、ここではまだ言わないでおくのか、保留をつけた言い方なのだ。翻訳ではそういうところは全く見えない。そして「ewig wieder」(永遠にくりかえして)とういう言葉を、「(行われた)行為をなかったことにはできない」ということに対して使っているのも、驚くべきところだ。氷上英廣さんは「人間存在もまた所業とその罪の負い目を永遠にわたってくりかえすものだ」と訳している(これは適切な翻訳だ)。---これをだれか否定できるだろうか? ミシェル・フーコーが映画《去年マリーエンバートで》を「起こったことと起こらなかったことの区別がつかない」世界の描写として読み取るのも、このニーチェの論点の応用として、そこからの脱出の試みとして、よく理解できるようになる。
 進々堂は、わたしにはきちんとした思考をするのに向いた場所だ。


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