《「歓喜」について シラーの頌歌の》(2)

瀬谷こけし

 シラーの「歓喜への頌歌」の第3節を若干のコメントとともに訳してみよう。第1節、第2節はトピックが人間的なものの範囲の中に収まるので、それほど顰蹙を買うこともなく引用したり利用したりできるが、しかしこの先はシラーは自然について、動物的な自然について語ってゆくので、それを引用したり利用したり翻訳したりするのに少なからぬ覚悟がいるかもしれない。自然的なものへのまなざし。この関門こそシラーが踏み石として人類に差し出しているものなのだ。ベートーヴェンはそれを避けず、素直に従うようにみえる。ニーチェはそれを創造者から引き離し、ディオニュソス的なものへと引き付けて読み替えてゆく(『悲劇の誕生1』)。それではヘルダーリンはどうなのだろう? ヘルダーリンもそこから屈曲して自然へ、そしてディオニュソスの方に近づくのだが、しかしその際彼はこの屈曲の核になるものを見出しているように見える。それが「酒」だ。酒、酒による酩酊や陶酔、ヘルダーリンのバッカス(ディオニュソス)への傾倒は、酒による酩酊のリアリティーに基づいて着実に踏み進められているように見える。わたしにはヘルダーリンが酒に酔い、ディオニュソスに酔った詩人に見えるのだ。かの「酔いたまえ」と誘いかける詩人ボードレールに思いのほか近いように。他方でニーチェのディオニュソスへの屈曲は、いったい何をリアルな根拠としてなされているのかが非常につかみにくい。しかしそれはきっと「音楽」と言うべきものなのだ。音楽こそが自然の根底にまで達するリアリティーをニーチェに与えているものなのだ。そしてそれは多分にワグナー的な音楽なのだ。そしてそこには「苦悩」についての真正面からの考察があるのである。

 その原文と訳を提示してみよう。まずは第3節の原文から。

An die Freude.
3.
Freude trinken alle Wesen
  An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
  Folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben,
  Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
  Und der Cherub steht vor Gott.
                      Chor.
Ihr stürzt nieder, Millionen?
  Ahnest du den Schöpfer, Welt?
  Such' ihn überm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

次いで、責任ある訳者の訳が見つかったのでそれを引用する

手塚富雄訳
(『世界文学大系18 シラー』1959年、筑摩書房(節番号は引用者)
喜びをうたう

3.
ありとあらゆる存在は
 喜びを自然の乳房から飲む、
善人も悪人も
 そのバラ色の足あとを追う、
それはわれらに
 接吻と葡萄と
水火を辞せぬ友とをさずける、
 肉体の快楽は蛆虫どもにあたえられたもの、
だが喜びの天使は神のまぢかに立っている。

   合唱
ひざまづくのだね 君たちは? 千万の友よ。
 世界よ きみは造物主を予感するのだね、
 星空の上に彼をもとめよ、
星々の上に彼は住む。


拙訳

3.
すべての存在は歓喜を飲む、
  自然の乳房に口をつけて。
善なるものたちも悪なるものたちすべて、
  自然の薔薇の臭跡を追う。
自然はわれわれに口づけを与え、葡萄酒を与え、
  死のなかで試した後、ひとりの友を与えた。
官能の歓びが虫けらにも与えられたが、
  神の前にはケルビムが立っている。
                   合唱。
百万の人々よ、お前たちはくずおれるか?
  世界よ、お前は創造者を予感するか? 
  探せ創造者を星々の天幕を超えたところに!
星々を超えたところに彼は住んでいるはずだ。


 シラーの詩のこの第3節は、自然の存在すべてが自然によって歓喜の味わいを与えられると説くが、しかし種による歓喜の違いについては明瞭に語ってはいない。口づけに連なる歓楽、葡萄酒に連なる陶酔、そしてひとりの友をもつことの歓喜と、およそ三つの歓喜が語られていると見えるが、しかし天使ケルビムによって神に近づくことを妨げられる歓喜も考えられているようだ。そして抱擁の歓喜が切り離された者たちを再び結びつけるにしても、「ひとりの友」という個別性は存続し、したがってわたしという個体性は存続しているのである。いわば根源的一者のようなものの中への個別性の解消が問題になっているわけではないのである。とすればニーチェがその若書きの書の中で書いているような個別性の解消は、シラーの詩から導き出されるものではないと言うべきだ。しかしまた、シラーもまた自信なさげで、星々の天幕を超えたところに神が存在するとは言わず、ただ「いるはずだ」という仮定にとどまっている(*)。その半端さはいったい何なのだろう? この確信のなさはその後にも禍を残すことになるだろう。

(*)手塚訳は「星々の上に彼は住む」と訳すが、手塚がなぜ「Über Sternen muß er wohnen」の「muß」(~に違いない)を省いて訳したのか、理解に苦しむ。


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