F・ニーチェの〈circulus vitiosus deus〉という思想  研究発表資料(3)

瀬谷こけし

 標記の発表で配布した資料を4つに分けて公開します。配布した資料には下線等の強調を付してありますが、ここでは強調の手間を省いています。必要を感じた場合には追々付してゆくかもしれません。ニーチェ研究、クロソウスキー研究、あるいは宗教哲学研究の役に立てていただければ幸いです。


F・ニーチェの〈circulus vitiosus deus〉という思想  研究発表資料(3)
          日本宗教学会 第77回学術大会 2018年9月8日 於 大谷大学


2.ピエール・クロソウスキーの解釈
2-1-1.ピエール・クロソウスキーは「永遠回帰の体験」(『ニーチェと悪循環』所収)という試論の中でニーチェのこの〈circulus vitiosus deus〉という表現を独自にきわめて鮮明に解釈している。まずはじめに、試論中のその箇所とその拙訳を紹介する。(文中のイタリックは原著者によるものであり、その他の強調はすべて引用者によるものである。)
テキスト
> Les hautes tonalités nietzschéennes ont trouvé leur expression immediate dans la aphoristique : là même, le recours au code des signes quotidiens se présente comme un exercice à se maintenir continûant discontinu à l’égard de la continuité quotidienne. Quand les Stimmungen s’épanouissent jusqu’en des physionomies fabuleuses, il semble que ce flux et reflux de l’intensité contemplative cherche à créer des points de repères à sa proper discontinuité. Autant de hautes tonarités, autant de dieux : jusqu’à ce que l’univers apparaisse comme une ronde de dieux: l’univers n’étant qu’un perpetual se fuir soi-même, qu’un perpétuel se retrouver soi-même de multiples dieux...
Cette ronde des dieux se pourchassant n’est encore qu’une explication, dans la vision mythique de Zarathoustra, de ce mouvement de flux et reflux de l’intensité des Stimmungen nietzschéennes dont la plus haute lui advint sous le signe du Circulus vitiosus deus.
Le Circulus vitiosus deus n’est qu’une dénomination de ce signe qui prend ici une physionomie divine à l’instar de(*) Dionysos : par rapport à une physionomie divine et fabuleuse, la pensée nietzschéene respire plus librement que lorsqu’elle se débat au-dedans d’elle-même comme dans le piège où la fait tomber sa vérité propre(**). Ne dit-it pas en effet que l’essence véritable des choses est une affabulation de l’être qui se représente les choses, sans laquelle l’être ne saurait rien se représenter?
La haute tonalité d’âme, en laquelle Nietzsche éprouva le vertige de l’Éternel Retour créa le signe du Cercle vicieux où se trouvèrent instantanément actualisées l’intensité la plus haute de la pensée refermée sur elle-même dans sa propre cohérence et l’absence d’intensité correspondante des designations quotidiennes; du meme coup se vidait la designation même du moi auxquelles(***) toutes se ramenaient jusqu’alors.
Car en effet, avec le sign du Cercle cicieux en tant que définition de l’Éternel Retour du Même, un sign advient à la pensée nietzschéene comme un événement valant pour tout ce qui peut jamais arriver, pour tout ce qui jamais arriva, pour tout ce qui pourrait jamais arriver au monde, soi à la pensée en elle-même.
(Pierre Klossowski, Nietzsche et le cercle vicieux, Mercure De France,1969, p.102)

注:二重下線をつけ( *)(**)(***)の記号を付したところはフランス語表現としてやや特異な箇所であり、十分注意して解釈する必要がある(通常のフランス語表現では(*)のdeは不用であり、(**)はsa propre véritéとなるだろう。(***)は対応する複数女性名詞が文中になく、万人によって使用される多数のmoiの指示作用が含意されていると解される)。

2-1-2.上掲箇所の拙訳
>  ニーチェのさまざまな高い調子(tonarités)はその直接の表現をアフォリスティックな表現(la aphoristique)のうちに見出した。そこおいても日常的記号のコードへの訴えは日常的連続性とのかかわりでみずからを連続して非連続的に維持する練習として表われている(*1)。諸々の気分が諸々の神話的な相貌に達するまで花咲く時、冥想の強度の満ち引きは己に固有な非連続性に相応する指標点を創造しはじめるようにみえる。高い調子の数と同じだけ神々がいるのだ。そしてついには宇宙が神々の輪舞と見える地点にまで至る。宇宙は複数の神々が、絶えることなく繰り返し互いから逃れ去り、そして絶えることなく繰り返し互いを見出すこと以外のことではないのだ…(*2)
  神々が互いを追いかけ合うこの輪舞は、いまだニーチェの諸々の気分の強度の満ち引きの運動を、ツァラトゥストラの神秘的ヴィジョンの領域において説明したものに過ぎないが、その最高の強度は「悪しき円環・神(Circulus vitiosus deus)」という記号のもとでニーチェに訪れたのである(*3)。
  「悪しき円環・神」は、ここでディオニュソス的なものを導入するために神的な相貌をまとった記号のひとつの名称に過ぎない。こうしてひとつの神的で神話的な相貌とかかわることで、ニーチェの思考は、思考自身の内側で、いわば思考の真理そのものが陥れる罠の中で格闘するときより、より自由に呼吸する。実際ニーチェは諸事物の真の本質なるものは諸事物を表象する存在という作りごとであって、それ(=作りもの)なくしては何ものも表象されえないのだ、と言っていないか?
 魂の高い調子においてニーチェは永遠回帰の眩暈を体験し、悪しき円環という記号を創造したが、そのとき、思考の一貫性のなかで思考自身の上で閉ざされた最高の思考の強度と、諸々の日常的指示作用における対応する強度の欠如とが一瞬のうちに現実化される(actualisées)のを発見する。そのとき同時に自我(私)という指示作用そのものが空っぽになった。そのときまで、すべての指示作用は自我にもとづく指示作用に帰着していたのだ。
  というのも実際、同じきものの永遠回帰の定義としての悪しき円環という記号によって、ニーチェの思考には、世界に、すなわち思考そのものに、まことに到来しうるすべてのものと、つまり過去にまことに到来したすべてのものそして未来にまことに到来しうるすべてのものと等価なひとつの出来事としての記号が到来しているのである。

注:*1 ここの文章は『善悪の彼岸』56を念頭において理解しなければならない。
*2 ここは『ツァラトゥストラ』3-12「新旧の板」2からの引用。ここでクロソウスキーはニーチェが「世界」(Welt)と記しているところを「宇宙」(l’univers)と訳している。適訳だろう。原文は(mich [...] dünkte [...] die Welt […]als ewiges Sich-fliehn und –Wiedersuchen vieler Götter,…)。またここの〈Sich〉をそれぞれの神が単独で隠れたり自らを見出したりすると訳す向きがあるかもしれないが、ここは神々の相互的な関わりと考えねばならない。氷上英廣(岩波文庫)は「(世界は)あまたの神々が永遠の追いかけっこを演じているところと思われた」と訳すが、これが正しい。
*3 〈Circulus vitiosus deus〉というラテン語の表現において形容詞[vitiosus]は円環ないしは循環を意味する男性名詞[circulus]を修飾していると取るほかはない。男性名詞[deus]はその後ろに置かれている。これが[Circulus vitiosus deus.]という文であるなら、[deus]の後ろに[est]が省略されていて、「悪しき円環が神である」と取るのが普通の解釈だがJGB 56におけるニーチェの意図は掴みやすくない(FW 339の[vita femina]は後ろに[est]を補って解釈する普通のラテン語の読み方で問題ないであろうが)。何より彼は「神」を実体化して考えてはいないからだ。クロソウスキーはというと、そのニーチェの〈circulus vitiosus deus〉を文としてではなく記号として捉えている。クロソウスキーの理解に合わせるならばこれは「悪しき円環・神」という風に、同格の名詞を並列して置いたもの、あるいは「悪しき円環即神」と表現できるものであろう。ここでは同格名詞の並列を示す表現として「悪しき円環・神」と表記しておく。ニーチェに戻れば[vitiosus]をどう捉えるのがよいかが重要な問題になる。


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