《野田清一郎・愛子》

瀬谷こけし

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 わたしの母方の祖父母だが、いつ撮ったものかわからない。わたしの家(藤沢の)には何度も来てくれたが、祖父母というイメージをしっかりと与えてくれた人たちだ。わたしが小学校の4年生ぐらいの時、わたしひとりでこのお二人を江の島にご案内したことがあるが、三人だけでどこかに行ったのはその一回だけだったと思う。その時も江の島の島内で、もしかしたらあるいは片瀬の西浜の水族館の近くのところだったかもしれないが、当時わたしが大好きだった子供用の自分で運転する電気カートに乗せてくれた。江の島の案内と言ったが、もしかしたら島の中までは行かず(島の上り坂は高齢者にはつらかっただろうから)、西浜あたりを散歩しただけだったかもしれない。わたしも無事大役を果たせてほっとしたような覚えがある。
 祖父は京都大学の電気の助教授をしていたが、学術上の問題をめぐって真偽を正すべく、コーネル大学に行きそこの教授と対決し、祖父の主張の正しさが認められたと聞く。そしてそこで客員教授を拝命し、研究環境の良さに月日を忘れて研究に勤しんでいたが、京都大学からは二年間の出張期間しか与えられていなかったためにもう京大には戻れなくなってしまったと聞く。それからは随分と苦労したそうだ。先の苦労を恐れない冒険心のあるひとだったようだ。
 わたしの家に来られた時は、食事はいつも蜂蜜をかけてナイフとフォークでパンを細かく切って、スープにひたして食べておられた。写真はわたしの藤沢の家ではないが、どこの家で撮られたものかはわからない。


 祖父野田清一郎についてこんな紹介があった。
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E7%94%B0%20%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E-1652166#0.E4.B8.96.E7.B4.80.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E4.BA.8B.E5.85.B8


===== 2018.1.0.29 追記 =====

 母は何度も、祖父(清一郎)は長男(克彦)ができるだけ生き延びられるようにと海軍にやったと語っていた。私はそれを「海軍兵学校に行かせた」ということだと思っていた。だがそれは私の思い違いだったかもしれない。たまたま見つけたある資料によると、1943年9月に「海軍技術士官(2年間)」と書かれている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/isciesci/43/6/43_KJ00003974524/_pdf/-char/ja
 江田島に行っていたことは聞いている。この時期は、5月に山本五十六も戦死し、日本軍の退勢がはっきりと見えだしてきたころだ。父親としては長男をどういう所に進ませるかは大いに悩んだことだろう。海軍技術士官であれば戦地に派遣させられることはまずないと読んだのだろうか。もちろん陸軍と海軍の気質の違いは十分に理解していただろう。戦艦武蔵が沈没させられた時はたまたま上船していなかったという話も誰からか聞いた。叔父(克彦)は、戦後は電気試験所に勤め、国産のコンピュータの開発に携わっていた。私の藤沢の家族にとってはいちばんよく訪ねてきてくれる叔父であった。



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