《ニーチェの「神への永遠の鎮魂曲」(FW.125)への反歌》

瀬谷こけし

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 „Der tolle Mensch."というタイトルの“Die fröliche Wissenshaft“の第125番のアフォリズムの、とりわけ最後のラテン語《Requiem aeternam deo》への反歌である。その最後の箇所だけ、ドイツ語と日本語拙訳で紹介しておきたい。

>Man erzählt noch, dass der tolle Mensch des selbigen Tages in verschiedene Kirchen eingedrungen sei und darin sein Requiem aeternam deo angestimmt habe. Hinausgeführt und zur Rede gesetzt, habe er immer nur diess entgegnet: "Was sind denn diese Kirchen noch, wenn sie nicht die Grüfte und Grabmäler Gottes sind?" –

>さらにこんなことが語られている。このおかしな人間はその同じ日に、いくつもの教会の中に入り込み、そこで神のための永遠の鎮魂曲を歌いはじめたそうだ。外へ連れ出され詰問されると、彼はいつもただこう答えたそうだ:「これらの教会はいったい何なのだろう、神の墓や墓碑でないならば?」と。

 この箇所の原文も拙訳も前に紹介したとおりだ。反歌は次のもの:


> 安らかに眠れと神に歌ひたり永遠(とは)の眠りを安らけくこそ


 短くコメントを付けておきたいのだがこのラテン語《Requiem aeternam deo》を管見訳者はみな「神の永遠鎮魂(弥撒)曲」のように訳している。しかしこの「神の」という訳は一体何なのだろう? わたしの訳は上に示したように「神のための永遠の鎮魂曲」である。問題はこの[deo]という与格(dative)/奪格形(ablative)(ドイツ語では3格形に対応)である。この与格/奪格形を属格形(genitive)のように「神の」と訳すことにはどのような根拠があるのだろうか? わたしにはよく理解することができない。ちなみにそれに先立つ[requiem]は対格(accusative)(ドイツ語では4格に対応)であり次の形容詞[aeternam]も同じく対格に置かれ、ここは「永遠の安らぎを」としか読めない。とすればここの三語は全体として「神に永遠の安らぎを」と読むのが([deo]という与格の読み取りとして)当然と見える。言うまでもなく、この《Requiem aeternam deo》という表現において特異であり、重要なのは神へのレクイエムであり、「永遠に死んだ神」に対して「安らかな眠り」を祈祷しているというところなのである。神は永遠の眠りについた。その眠りが安らかなことを、ニーチェの描くこの男は祈っているのである。神に永遠の安らかなねむりを、と。
(蛇足ながらラテン語の[requiem]は女性名詞であるが、ドイツ語では中性名詞であり、そこはニーチェも地の文のドイツ語を生かして[sein Requiem]と中性名詞として扱っている)






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