《京都造形芸術大学の大学院の教科書》

瀬谷こけし

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 京都造形芸術大学通信教育部の大学院の教科書として『芸術環境を育てるために』とう本が平成22年3月20日に角川学芸出版から発行されていて、わたしもその一部を書いていた。第1部第2章「作られる場所2---芸術・環境・地域学」というものだ。わたしはそもそも大学院に教科書があるということに納得が行かず、むしろ学部学生に与えている教材よりも平易なものをと思って書いたのだった。内容は芸術とその根との関係を素描したもので、主としてルソーとデューイと宮沢賢治を扱った。この度それを電子書籍とオンデマンドブックとして新しく制作することになり、その再掲載の許可をもとめて依頼が来たのだった。そこで、脱稿して以来一度も目を通したことのない自分の書いた章を読んでみたのだが、その最後の賢治について書いたところをみると、なかなかいい。この本は鶴見俊輔さんにだけお送りして、「芸術環境の試みに参加していることに敬意を感じる」というようなご返事をいただいたものだった。鶴見さんの賢治論(『限界芸術論』のなかの)を取り上げ直して、賢治の「復命書」の中から新たに「浮立」という概念を芸術の源として取り出したものだった。それは「浮き立つ心」のようなものだ。わたしは地域開講の「環境文化論演習」などの科目の授業を、この浮き立つ心を引き出すようなものにしたいと思って努力してきたのだった。わたしにとってはその実践の理論的裏付けのような意味のある一章を書いたものだった。

 それで修正したいところがあったら修正してくれという注文があって、書いたところをはじめから読み直したのだが、修正したいのは、今はhtppからhtppsになっている二か所の修正と、大正一三年と表記されているところを大正十三年という表記に修正してほしいというその二点だけだった。ルソーやデューイなどにわかづけの勉強で書いたところが、意外ときちんと書けていて、特にデューイのものは訳者の訳文をだいぶ変えているのだが、それで破綻は見つからなかったのだ。
 そのほか『土佐日記』について書いたところともとてもよい。ここに何故かはわからぬがひとは貫之の慟哭を読み取ることをしてこなかったのだ。土佐の地で娘を失ったその慟哭が貫之を国家の役人から異人に変質させ、土地の霊と交わるひとにしていたのだ。
 多言はやめよう。読み直してみたら結構いいことを書いていた、というはなしだ。
 この「浮立」の精神は、今も毎年続けている「お月見会」の基本精神でもあるのだ。---わたしはそれを沖浦和光さんから学んだのだった。