《流れ Stroeme:『ツァラトゥストラ』第四部を読む》

瀬谷こけし

OMD01256aami.JPG

 『ツァラトゥストラはこう言った』第四部19「酔歌」-4に次の言葉がある。氷上英廣訳で「もうわたしは死んだのだ。終わったのだ。…[中略]…ああ! ああ! 露がおりる。時が来た--- (Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt—)」と言われているところにすぐ続くところである。

>  —die Stunde, wo mich fröstelt und friert, die fragt und fragt und
 fragt: „wer hat Herz genug dazu?
   —wer soll der Erde Herr sein? Wer will sagen: s o sollt ihr laufen,
 ihr grossen und kleinen Ströme!“

試みに訳しておくと、
> ---わたしを凍えさせ氷らせる時が来た。時は問い、問い、さらに問う:「だれがそれに十分な心を持っているか? と。
  ---だれが大地の主であるべきか? だれが、おまえたちは そ う 走るべきだ、お前たち大小の流れたちは! と言おうと欲するだろう?」と。

 「流れ」(Ströme)が問題であり、大小の流れがどう「走る」(laufen)かが問題である。ここで「走る」については第三部2「幻影と謎」-2の中の「およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか?」(氷上訳)(Muss nicht, was laufen kann von allen Dingen, schon einmal diese Gasse gelaufen sein?) の「laufen」(走る)を思い起こすべきである。「走る」とは時間の中を走ることであり、生成するということを意味する。またここで「Ströme」(流れ)においては、ヘルダーリンの「... Wenn nemlich über Menschen/ Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig/ Die Monde gehn, so redet/ Das Meer auch und Ströme müsssen/ Den Pfad sich suchen. ..」(MNEMOSYNE、 Zweite Fassung)の詩句を思い出すべきではないだろうか? ヘルダーリンは(天上で熾烈な争いがおこる危機的な状態で)数々の「流れ」がそれぞれ自らのための道を探さねばならない必然を語っていた。ニーチェは、瞬後に真夜中が訪れる危機の瞬間に、何者かが大地の主として流れにこう走れと命ずる事態を思考している。その命ずる者、大地の主はだれか? それは一神教の神ではなく、流れを構成する多元的な要素の意志であり、多元的なすべての意志の名前であるディオニュソスであるというべきである。ということはここでニーチェが言おうとしていることは、ヘルダーリンの歌う、溢れた流れがみずからここを走ろうとして見出す流路(Pfad)を走りゆくことと違うことではない。流れみずからが大地の主になって、みずからはこう流れるべきだと決定してゆくのである。選ばれた流路が、意志され、肯定された流路になるのである。そのように、意志され、肯定された流路になることこそが唯一重要なことだとニーチェは語っている。



《静原晩秋の草地》

瀬谷こけし

 12月20日、 大原里の駅での買い物をしたあと静原によった。バイクで行ったが、この日は装備をしっかりして行ったので寒いことはなかった。静原ではたいていK字路のところでひとやすみする。ベンチがあり、自販機がある。たいてい自販機で何かを買って、そこのベンチで飲みながら休憩する。静原がこんなに気に入ってしまったのは、「七彩の風」に行ってからだ。もちろん普段は「七彩の風」まで行かないし、その奥にも行かない。だが一度訪ねたことで、村の生活の形が少し見え、そして土地の生産的な力に立脚した生業の形が見えてきたからだ。例えばK字路の近くにもビニールハウスがあって、三色スミレなどの鑑賞用の花を育て、それを出荷して経済を成り立たせている。「労働はひとを自由にする」という思想は誤用さえされなければ深い真実を捉えているだろう。

 一枚目の写真は、そこのベンチからいちばん正面に見える植物だ。それをちょっと近づいて撮った。そしてそこの小川の隣の草の道を奥の方へ少し入って行った。10mか20mか、そんなところだ。そして何枚か撮っているうちに、この景色の中のエッセンスが見えるようになってきた。サヌカイトのような楽器をいじっていていい音が出るポイントが分かって来るのと同じ感じだ。そこからの撮影は悦楽としか言いようがない。次から次に美が見えてくるのだ。レンズはキャノンEF135㎜一本だけ。このレンズが驚くべき合焦の点々を捉えてくれる。息をつかさぬような映像の連続。撮影の醍醐味を味わう時間だった。
 
 クライマックスの一定の持続の後にはアンチクライマックスのものの見え方になってくる。そこにある葉や花が、ひとつずつ、隣接するものたちの中でおのれを語りながら見えてくる。この風土の中で、この風土を形成しながら、それぞれ生命の時をもっている。


01DSC00619ami.JPG

02DSC00621ami.JPG

03DSC00623ami.JPG

04DSC00628ami.JPG

05DSC00630ami.JPG

06DSC00633ami.JPG

07DSC00636ami.JPG

08DSC00637ami.JPG

09DSC00638ami.JPG

10DSC00640ami.JPG


11DSC00641ami.JPG

12DSC00643ami.JPG

13DSC00644aaami.JPG

14DSC00646ami.JPG

15DSC00647ami.JPG

16DSC00654ami.JPG

17DSC00655ami.JPG

18DSC00658ami.JPG

19DSC00660ami.JPG

20DSC00661ami.JPG

21DSC00663ami.JPG

22DSC00668ami.JPG

23DSC00669ami.JPG

24DSC00670ami.JPG


《小さな耳と繊細な耳 『ツァラトゥストラ』を読む》

瀬谷こけし

DSC00132ami.JPG

 ニーチェの思考の中の「小さな耳」については、ドゥルーズが取り上げたこともあったからなのか、かなり知られている。それは『ディオニュソス頌歌』(Dionysos-Dithyramben) のなかの「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne) の
 

 Sei klug, Ariadne!...
 Du hast kleine Ohren, du hast meine Ohren:
 steck ein kluges Wort hinein! –


に言われていることだ。ここを簡単に訳しておくと「賢くなれ、アリアドネ! /お前は小さい耳をもっている。おまえはわたしの耳をもっているのだ。/賢い言葉をひとつその耳の中に入れておけ!」というところだ。
 しかし『ツァラトゥストラはこう言った』第四部の「酔歌」(Das Nachtwandler-Lied) 4にはそれと少し違った、しかしより深い言葉が見いだせる。そこをまず氷上英廣訳で紹介しておく。
 

> ---時は近づいた。おお、人間よ、「ましな人間」よ、しかと聞け! このことばは良い耳のためのもの、あなたの耳のためのものだ、---深い真夜中は何を語るか?(岩波文庫)。
  
ツァラトゥストラは良い耳のもちぬしであろうと想定される「ましな人間」たちのひとりひとりに対して、深い真夜中が語ることをしっかりと聞けと命じているのである。だがここのところ原典はこうである。
 

 --- die Stunde naht: oh Mensch, du höherer Mensch, gieb Acht! Diese Rede ist für feine Ohren, für deine Ohren --- was spricht die tiefe Mitternacht?  (KSA, Bd. 4)
 

 拙訳を示しておくと、
 

> ---時が近づいている。おお、人間よ、お前ましな人間よ、注意して聴け! この語りは繊細な耳のためのもの、お前の耳のためのものだ、--- 深い真夜中は何を語る?
 

ここで「深い真夜中の語ること」(was die tiefe Mitternacht spricht)と「このことば」(diese Rede)(拙訳では「この語り」)は同一のことを指していると考えられる。真夜中が何かを語る、何事かを語る。そしてそれをツァラトゥストラは、その響きの通り、ましな人間たちに語る。ましな人間は自分の耳で真夜中の語ることを聞き得るのか? ただ繊細な耳(feine Ohren)だけが、真夜中の語りを聴き取りうるのだ。ツァラトゥストラのように。そんな耳をましな人間たちは備えているのだろうか? アリアドネのもつ「小さな耳」(kleine Ohren)はディオニュソスの耳であると言われている。また聴くべきものもいくらかは違う。『ツァラトゥストラ』において問題なのはまさしく真夜中そのものが語ることなのだ。それは秘密に満ち、危険に満ち、そして暖かさに満ちている。その真夜中がする語りは、永遠回帰の思想のもっとも深い選別の働く場所でもある。つまり、聴き取れない耳は、暗い(昏い)ところにとどめ置かれる。最大の危険もここにある。それゆえにこそ「注意をはらえ!(gieb Acht!)」、と言われている。それは「用心せよ」でもあるのだ。







《西垣正信クリスマスリサイタルに行ってきた》

瀬谷こけし

OMD60992ami.JPG
OMD60993ami.JPG
OMD60994ami.JPG
OMD60996ami.JPG
OMD60997ami.JPG
OMD60998ami.JPG
OMD60999ami.JPG
OMD61001ami.JPG
OMD61007ami.JPG
OMD61009ami.JPG


 彼の音楽、彼の演奏については、その精細な技をはじめ、調べれば数々の賞讃が適切になされていることと思う。音の出し方の多彩さについても驚くばかりのものを示してくれた。ギター一台でオーケストラに匹敵する音響空間を作り上げようとするのだから、当然多くの超人技が要求されるだろう。『ラプソディ・イン・ブルー』の演奏など、まさにそういうものだったのだ。 だが私が驚き、またこころに残ったのはまたもうひとつ違ったことだったのだ。朗読の合間に二曲目に引いた曲、彼がスカルラッティ(ドメニコ)を弾くとは思っていなかった。私の記憶に間違いなければK.491のニ長調の曲。彼はスカルラッティのこの曲から、わたしの思いもしないものを引き出していたのだ。それは誤解を恐れずに言うならば暗さ。スカルラッティにわたしは天上に抜けてゆく狂気を感じることはしばしばだが、彼の曲に内的な暗さを感じることは全くなかったのだ。だがこの曲の後半から西垣さんは底知れぬ暗さを引き出して見せたのだ。こんなことはスカルラッティの演奏史上にないことではなかっただろうか? この演奏にわたしは西垣さんが本物の音楽家であることをはっきりと聴き取ったのだった。媚びない、迎合しない。純粋な音楽への献身だけで演奏する演奏家。どれだけ稀になったことか。
 演奏曲目にラインハルトの「雲」があった。そこで今日の夕空の写真と、会場の京都文化博物館別館ホールの写真。