《船引に 2011年10月22日》

瀬谷こけし


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船引の民画家、故渡辺俊明氏の邸宅《蓮笑庵》の裏にある小山


 船引(福島県田村市)に行った。縁があってのことだ。何か復興に役立てることはないか、何が復興可能かということを見て調べて知って考えたかった。放射能測定器も直前に手に入れて行ったが、それはかなり精度の悪いものだった。船引は山に囲まれていて福島原発には30km程度と近いが、却って郡山市や福島市より放射能汚染は少なかった。発表される値でも約六分の一ぐらい。わたしが考えていたのは、高度な教育によるまちづくりのようなことだったが、市としてはすぐにそちらを向くということはしてくれなかった。まず原発事故によって変化した土地と人の現状を知るための市民大学講座のようなものから始める可能性はあったと思うし今もあると思うのだが、なかなか簡単には進まなかった。引き合わせてくれたひとはみな山に懐かれた場所のおかげということを強く感じているようだった。山はとりわけ片曽根山。
 この船引、あるいは田村という土地はわたしが初めて土着の文化、土着の芸能のすばらしさに目覚めさせられたところだった。祭りが生きていた。郡山に住んでいて、住み始めて三年をすぎてやっと目覚めた内発的な文化だった。片曽根山には何度も登り、京都からの来客があればまず連れてゆきたい場所だった。
 この原発事故の年の訪問でも片曽根山に(車で)連れて行ってもらった。だが山の上(特に東側)は測定してみるときわめて放射線濃度が高く、長居することなく急いで下に降りた。放射能汚染はとても無視や冗談や信心や楽観で片付くものではなかった。そして今もそうだろう。ある農園経営者は福島原発から風の通り道になっているところにだけ大きな異変があって、そこの山茱萸の木が枯れたと言っていた。測定してみるとそのあたりとりわけ数値が高かった。その農園経営者も、そして出会ったどのひとも、放射線計測器をもっておらず、自分で自分の住む土地の汚染の度合いを自分で測定する手段を持っていなかった。そしてそういう測定機器をみずから持とうとすれば持てるのだという認識にも欠けていた。その当時すでに安積女子高校では構内の汚染度を(教師の指導の下)生徒自ら測定し信頼性の高い汚染マップを作り世間に公開していたのだが。田村市ではみずから測定し、認識するという行動の話をまったく聞かなかった。---そういう市民による自己認識のために市民大学を開くことができただろうと思うのだが。わたしの提案はその後役立てられたのだろうか。その結果を聞いていない。
 ひとびとの頑張って生きてゆこうとする強さは感じられたものの、つらいことの多い旅になった。




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