《雨露の恵みに》

瀬谷こけし

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 昨日からずっと、昼頃まで雨が降っていた。時に激しい風、時に糠のような雨。そうして、それらの雨や露の恵みを受けて山の樹々はこんもりと一段と盛り上がってきた。『朗詠集』を見れば「雨露の恩」という言葉があるらしい。わたしも聖代の恩を受けてきたのだろう。万里(マロ、藤原、懐風藻)のようには歌わない。平成の世は今日で終わりになる。


*《僕は聖代の狂生ぞ》(『懐風藻』藤原万里)

《メドューサと太陽》

瀬谷こけし

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 メドューサの盾と砲身の太陽、どちらもパリの「アンヴァリッド」と呼ばれる博物館(Musée de l’Armée Invalides)で見つけたもの。並べて見ればますます砲身の太陽模様がメドューサの像を含んでいるように見えないだろうか? 盾の方は1585-90年の作、砲身は1688年の作で、砲身の太陽模様の中にメデューサ像を組み込もうという発想の方が後から生じたように見える。だがまたメドューサ像を浮き彫りにした盾で防ごうとしたものは何なのだろう。強力な敵に違いない。ひょっとしたら、この盾でもってメドューサその者を石にしようと思ったのではないだろうか。防具に見えるものが最強の兵器になることを望んだ誰かが。-どこか最近改造されたというヘリコプター(やF35B)搭載の空母なるものも似たような発想なのかもしれない。
 (FBに先に掲載しました。また画像はインスタグラムに掲載しています)




《隠れ里》

瀬谷こけし

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 わかる人にはすぐわかるはずのところだが。何年か前にこの里から見た花山が、高いところまで花と緑が豊かで驚いたことがあった。それでまた行ったのだが。
 今回はかなり調子よく撮れた。もっとシャープなレンズで撮ればもっと鋭い撮り方ができたかもしれないが、今回はこれでとても満足した。そしてここに深いものを残した人、相応和尚にわたしはとても惹かれている。


《霧湧く村》

瀬谷こけし

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 葛川村はむかしこの地で相応和尚が不動明王を刻んだ木が桂だったことによる名称だといわれる。その木に不動明王自身が顕現したというその木である。そうしてその木に抱きつくべく滝に飛び込んだといわれている。ひとつの激しい出来事を起源にしているのである。彼が千日回峰行を創始したのも、その出来事を発端としている。大津市葛川はその激しさを伝える村である。わたしも山登りをする体力を回復したくて、今日はその下見のために行ったのだが、今日葛川は霧湧く村だった。
 例年欠かすことなく行っていた芹生花山や黒田百年桜は、今年は見に行くことができないかもしれない。忙しい日々と天候との折り合いがつかないのである。山の様子はここと芹生の花山とはだいたい同じぐらいだろう。今日葛川に行けたことはとてもうれしく有難いことだった。

《山色整う》

瀬谷こけし

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 こんな季語があるのかどうか知らないが、最近の山を見ていると、ようやく山の色が整ってきたと感じる。「整ってきた」とは新しい葉を出す木はどれも新芽を出し始めているように見え、常緑のものは常緑のままに、葉を着けずに枯れてゆく木々は裸木のままに、そして遅速はあっても葉を出す木々はそれぞれそれ自身で葉を出してきたことが山色にうかがえるということだ。結局どうなったかと言うと裸木の赤い枝先の色がもう山に(比叡山に)見えなくなったということだ。これでどうやら、山の木々にも春が来た。---「山笑う」などといういい加減なコピペで山の春を語るのはどうかやめにしてほしい。(写真は夕方の光の赤い色温度のせいで赤っぽく見えるが、肉眼ではもう少し穏やかな色だ)

《この砲身の模様》

瀬谷こけし

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 この砲身の模様は単に太陽を表すのかそこにはメドゥーサのイメージも含まれているのか? この砲身は説明によると1688年Douai(ドゥーエ)で鋳造されたものだ。当時ドゥーエはフランス領になっていたから、フランス軍が使うために造られたものだろう。向ける相手はいわゆる「大同盟」(Grande Alliance)の相手国たちだ。ルイ14世の戦争であるから砲身の模様に太陽が造形されていることに何の疑問もないが、ここには同時にメデゥーサのイメージも彫り込まれているのではないだろうか? 敵国を凍りつかせ石に化すべき武器として。乱れた髪はそれを暗示しているように見える。「Canon de 12」という表示は12cm砲ということだろうか。
 この大砲が展示されていたのはいわゆる「Invalides」と呼ばれる戦争博物館で、この施設もルイ14世が作ったものだ。砲身の造形には興味深いものが多かった。威力を増すべき呪術の一種として。

《Niel通り84番パリ》

瀬谷こけし

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 このときわたしは彼が引っ越しをしたということを知らなかった。知っていたら朝から訪ねていただろう。この旅行の最大の目的は彼にわたしもかなりのページを書かせてもらった『人間の美術』第7巻(学研)をお渡しすることだった。健康上の理由で第8大学を辞めたことは風の便りに知っていたが、引っ越しのことまでは知らなかったのだ。そして旧宅のあるところを訪ねたのだが、そこのコンシエルジュが引越しのことと、そして新しい住所を教えてくれたのだった。---そういうことは滅多にないことだと、友人のジャン・ピエール・Bさんから後から聞いた。ともあれ新しいアドレスを教わって、そこへ急いだ。Bizerte通りに着いたときは、もう夜の7時も近かった。そしてNiel通り84番へ。

 10階建てぐらいのそのアパートの男性のコンシエルジュは、戸を開けて応対はしてくれた。そして彼の奥さんに電話を繋いでくれた。拙いフランス語で一生懸命に、彼にこの本を直接お渡ししたくて日本から来たのだと語ったが、彼はもう床についていると言った。それでも是非にとお願いしたところ上がってきなさいと言ってくれた。わたしはその奥さんの言葉をコンシエルジュに伝えた。しかしその男性は、少し余分に警戒心を持っていて、自分一人で、そしてわたしの持ってきた本を受け取って、彼と奥さんのいる部屋に行った。---戻ってきてその男が伝えたのは、彼の方から明日朝ホテルに電話する、ということだった。---今晩無理して会うことはないという結論は、むしろそのコンシエルジュの男の提言ではなかっただろうか。しかし致し方ない。その、10階建てぐらいの大きなアパートの見る限りすべての部屋はG.D.と記されていた。ほとんどすべての部屋を彼一人で借りていたのだ。それだけの本をもち、必要としていたということだ。

 わたしは翌朝早く発たねばならなかった。だから彼の電話は受取れなかった。

 その後シュトックハウゼンの直観音楽について日本語とフランス語で書いた「Le dispositif caosmique de transformation」という小論を彼にお送りしたのだったかどうか。ともあれ彼のファニー夫人は、わたしに特別な配慮をしてくれて、彼の逝去を知って書いた詩と、その小論と手紙を、奥様にお送りしたのだが、奥様及び一族の方々からの会葬のお礼状に、「心打たれました、あなたの手紙とテキスト、かくも美しく」と記してくれていた。

 わたしがそのシュトックハウゼン論をフランス語で書きながら彼にお送りしなかったのは、それが彼の高名な著書『ミルプラトー』の中の「リトルネロ」の章の内容を十分に理解して書いたものではなかったからなのだ(その小論はシュトックハウゼン出版のホームページではトップページに載せてくれたこともあったものだったが)。

 今やわたしは、「リトルネロ」を消化した上で、シュトックハウゼンの直観音楽についてものを書かねばならない時だ。カールハインツ・シュトックハウゼンとジル・ドゥルーズと、この二人の期待にこたえなければならない。


《『ツァラトゥストラ』を読む(1) 第三部から》

瀬谷こけし

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 『ツァラトゥストラ』第三部のここのところを訳してみよう。箇所は『ツァラトゥストラ』第三部1「Wanderer(放浪者)」の第二段落から。ツァラトゥストラが自分を放浪者」であり「山に登る者」であると自己規定するところからである。
 テキストは以下:

> Ich bin ein Wanderer und ein Bergsteiger, sagte er zu seinem Herzen, ich liebe die Ebenen nicht und es scheint, ich kann nicht lange still sitzen.
> Und was mir nun auch noch als Schicksal und Erlebniss komme, - ein Wandern wird darin sein und ein Bergsteigen: man erlebt endlich nur noch sich selber.
> Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was könnte jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!
> Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.
(テキストはGutenbergプロジェクト提供のものを利用)

  拙訳:

> わたしは放浪者で登攀者なのだ、とかれは自分の心に言った、わたしは平地が好きではなく、また長いことじっと座っていることができないようだ、と。
> そして今後はわたしに運命として、体験として、なにごとが降りかかろうと、その内には放浪がありまた登攀があるだろう。ひとは結局は自分自身をさらに体験するだけなのだ。
> わたしの身に偶然がふりかかるという時は過ぎ去った。いまやさらに何がわたしにふりかかろうと、それはすでにわたしの固有のものでないようなものではありえないのだ!
> わたしの固有の自己、それが戻ってくるだけだ、それが結局わたしに帰郷してくるのだ。つまり自己から出て長く異郷にあって、そうしてあらゆる物事や偶然のもとに散らばっていたものが。

  解説:
 ここのところ、構文的にとても難しい。
第一段落の[sagte er zu seinem Herzen,]の所は、ここだけが過去時称で書かれていて、それを取り囲む現在時称で書かれている内容はすべてこの「彼は自分の心に語った」に従属し、その内容となっている。わざわざ接続法一式を用いていないが、そうした配慮なしにでも自然に読み取れるところだ。
そして簡単な文章だが、ここでは怠りなく[Wanderer][ Bergsteiger]の概念規定がなされている。[Wanderer](放浪者)とは「長いことじっと座っていることができない者」のことで、[ Bergsteiger]とは「平地が好きでない者」のことなのだ。

 第二段落の[was ... auch noch]は認容的な強調。「何が...来ようとも」([komme]は接続法一式)。[was...komme]は定動詞が語末に来ているので従属文であり、[was]は関係代名詞だと理解される。とすると[was...komme]は一個の[das]に相当すると考えられるが、そうすると次の[- ein Wandern wird darin sein und ein Bergsteigen]の[ein Wandern wird darin sein]の定動詞の位置の解釈が少し難しくなるが、そこのところは手前のダッシュ[-](Gedankenstrich)が思考の「長めの休止」(*1)を置くことで救っていると考えるのがよいだろう。上の引用の[darin]の[da]は上述の「一個の[das]」を受けている。
(*1) Dieter Berger, Kommma, Punkt und alle anderen Satzzeichen, Dudenverlag,1968, S.189 und f.

 第三段落は後半の[was]ではじまる二つの文の関係がむずかしい。だが二つ目の[was]は前の[was]の内容を限定しているように感じられる。第二の[was]は定動詞後置で、従属文の形式をとっており、もし前の[was...fallen]の文が[könnte]という接続法二式による不確定的な文でなかったならば、定関係代名詞[das]を使った指示の明確な文を用いていたのではないかと思われる。しかしこのような文法を説明している文法書を知らないので、今後も研究を進めたい。

 第四段落もやや読み解きがたいが、それは何を指しているのかわからない[es]が冒頭に立っているためだろう。しかしこの文の場合、[es]を主語にする二つの文が続いた後、ダッシュ[-]があって、[mein eigen Selbst](わたしの固有の自己)が登場し、これを[es]が先行して指示していたのだと理解することで基本的に疑問は解決する。あとはその後の[und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle]が[mein eigen Selbst]と同格の補足語であることを把握すれば問題は解決するはずだ。なお、文中の[ihm]は[Selbst]を受けていることも容易に把握できると思われる。

氷上英廣訳(岩波文庫)の紹介。
> わたしは漂泊の旅びとだ、登山者だ、とかれは自分の心に向かって言った。わたしは平地が好きでない。わたしは長いこと腰をおちつけてはいられないらしい。
> これからさきも、いろんな運命や体験がこの身をおとずれるだろう、---だが、それもきっと漂泊と登攀というかたちになるだろう。われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。
> 偶然がわたしを見舞うという時期は、もう過ぎた。いまからわたしが出会うのは、なにもかもすでにわたし自身のものであったものばかりだ!
> ただ戻ってくるだけだ。ついにわが家(や)にもどってくるだけだ。---わたし自身の「おのれ」が。ながいこと異郷にあって、いろんな物事と偶然のなかに撒き散らされていたこの「おのれ」が。



ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)
岩波書店
ニーチェ

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《サンタンジェロ城博物館前の頭像》

瀬谷こけし

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 今日サンタンジェロ城(Castel Saint’Angelo)と呼ばれる要塞状の建物はもとはAC.135年にハドリアヌス帝によって自分の廟として造られ、後に他のローマ皇帝の墓や要塞等の役に使われたものだという。今は国立博物館になっていて、歴代の武器や施設、実際に使われた拷問道具なども示され、歴史をリアルに感じさせる施設になっている。中世以降はバチカン守護の要をなす施設になったのではないだろうか。そんな位置にある。この博物館の入り口にわたしにはローマ風に見える頭像が三体ならんでいる。いずれも戦士のきわめて強い力強さを感じさせる。


《グレン・グールドの語っていること》

瀬谷こけし

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>History, thank God, should not and does not work that way. The process of historical selection is notoriously insensitive to who got where first but deeply involved with who did what with most sensitivity. (The GLENN GOULD Reader, Tim Page, Vintage Book, p.220)

>ありがたいことに、歴史はそのようには動くはずはないし、現にそうは動いていない。歴史の選択手続きは、だれがどこへ一番乗りしたかということにはあきらかに無関心である。そうではなくて、だれが、何をもっとも鋭敏な感覚をもってしたかに深い関心を示す。(野水瑞穂訳『グレングールド著作集1』みすず書房、p.329)

>さいわいなことに歴史はそういう仕方で働くべきではないし実際働いていない。歴史の選択のプロセスは周知のように誰がどこに最初に達したかには無関心であり、逆に最も深い感受性をもって誰が何をしたかということに深く関わっているのである。(拙訳)


==追記 2019.3.29==
 グールドの言葉の最後のところの「with most sensitivity」はちょっと変わった表現になっている気がする。もちろん「most」の使い方のことだ。「sensitivity」が名詞だからこの「most」は形容詞最上級だが、とすると原級は(sensitivityが不可算名詞なので)「much」のはずだ。だがそういう場合には「with sensitivity」を様態の副詞としてその全体を副詞最上級の「most」を使って「with sensitivity most」にするのが普通の書き方ではないだろうか? ---だがそうではないのである。ということはつまりグールドは「sensitivity(感受性)」に深いとか鋭いとかいう別の「質」を持った形容詞で示されるようなものを考えてはおらず、ただもっぱら「量的な」問題として語っているということなのである。とはいえ「最も大なる感受性」を持った者が「最も深く最も鋭い感受性」をもった者になるのも明らかなことであろう。

《出町の柳》

瀬谷こけし

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 昨日は友人が最近出したハイデガー研究の本の出版祝の気持ちで出町のあたりで一緒に飲んでいたが、ちょっとした聖夜のような気持のよい夜だった。出町柳で別れたが、わたしはそれからずっと自転車を引いて川端通を歩く。その歩きながら見える景色、光景が、ジェノヴァの夜ととても似ている気がした。もう10時を回っているだろうに行き来の人が少なくはなく、そしてそれぞれが自分の雰囲気を持っていた。カナートの少し南の道端の暗がりのベンチに、サンタクロースのような風貌の小父さんが座っていて、ちょっとその気になって声をかけた。そして少時話をした。彼は自分はそう大した人間じゃないと言っていたが、あの相貌であの場所に坐っているだけで何か大したことなのだ。こういう夜の口の時間が、少なからずあやしく、物事が解き放たれて自由になってゆく時間、そんな時間が京都にもまだ残っているのだ。その小父さんとは、握手をしてもらって、それから「お達者で」「おたくも気を付けて」と言葉をかけあって別れたが。ものごとが解き放たれた時間でなければ(商売用でない)本物のミスターサンタクロースに話しかけたりはできない。ただの酔歌、酔狂のたぐいかもしれないが、そういう時間が開かれること自体が神聖なことではないだろうか。いまや「たそがれ時が」十時半とか十一時とかになったようだ。川端通は歩くのがよい。
 家に戻ると、眼鏡と帽子をどこかに忘れてきたことに気づく。それで昨日の出町の酒肆に行ったが店は開いていない。あたりを見ると出町の柳が新しい芽を出していた。桜より柳の方が早い。これが京の季節感だ。


追記:
後刻にまた探しに行ったが、帽子はロッテリアに、眼鏡は酒肆にあって、それぞれすぐに手許に戻った。二軒の店でそれぞれ一つずつ忘れ物をしてくるとは念の入ったことだ。

《八月、ベルリンのある美しい野原》

瀬谷こけし

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2016年8月撮影。わたしが一番得意なのは野原の撮影のようだ。日本でもドイツでもスイスでも、日の当たる野原を見つければ、美しい景色をたくさん発見できる。
こういう写真はドイツ人が撮った方がよいのだ、とは思う。

(インスタグラムに掲載したものに写真2枚を追加)


《グリューネヴァルト2016年3月15日》

瀬谷こけし

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 イタリア旅行の中でベルリンに行っておこうと思ったのは、一つにはグリューネヴァルトを見ておこうと思ったからだ。もうひとつはペルガモン美術館を見ておきたかったから。グリューネヴァルトはニーチェが1882年の共同生活の候補地と考えていたところだが、いざ行って見るとニーチェの眼には光線が強すぎたようだ(6月18日のレー宛の手紙他)。その場所を確かめておきたかったのだが、雰囲気は高級な別荘地。3月15日に行った時はひどく寒く、この時期に住んでいる人もごく少ないように見えた。また、かの17番ホームのプレートも一つ一つ見て、確認した。寒く体がとても疲れていたので、駅舎にあった喫茶店でコーヒーと「球形」の菓子とを食べて休憩した。その球形のものは驚いたことにほとんど全部がチョコレートだった。
 その後ベルリン大学の前に露店を出していた古本屋で本を見ていたが(そして多分何かを買った)、グリューネヴァルトの画本を見つけて買ったのはその時ではなかったかもしれない。哲学系思想系の本が多く並んでいるのに驚くとともに美しさもあって、写真を撮ったら、店のお姉さんに多少苦情を言われたが、美的な置き方に感じて撮ったのだと言ったら一応納得してくれた(他に客もなくただ話したいだけだったかもしれない)。予め断ればよかったのだが。ペルガモン美術館にはその足で博物館島に渡って見学してきた。陳列品の多さには心底驚いた。
 グリューネヴァルトについてその年の8月に行った時親しくなったトムが話してくれたのは、多分20世紀になってからだが(グリューネヴァルトという名の)有名な作家の殺人事件があったところだということだった。

《インスタグラム》

瀬谷こけし

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 ここのところインスタグラムに熱中している。以前は10人ぐらいの仲間とほどほどに写真を楽しむ場所にしていたのだが、最近は見てもらう対象を万国の人に広げた。するととても面白くなった。はじめは、タウテンブルク(ドイツ)の写真を見てもらっても、日本人はほとんど何の関心も持ってくれないし何の知識もない。ところがインスタでは#tautenburgというタグまでできていて、それを通じて、タウテンブルクやそこを訪れた人たちと交流ができる。それがわたしが世界向けにインスタを使うようになったきっかけだ。そうなると海外で撮った自慢の写真なども見せたくなる。それにインスタではきちんとしたプロが何人もいる。というより、写真家でなくてもきちんとした目的意識をもって参加している人が多い。例えばモデルをしていて、モデルとして使ってもらう客を増やすのを目的に参加している人も少なくない。またいろいろな道具、例えばつけまつげから空撮用の飛行機までいろいろなものを提供すべく参加している人も多い。もちろん写真家と名乗る人がとても多い。そのなかで自分は何の為に写真を撮って閲覧に供しているのかを明確にすることを求められ、またその狙いの共通性の中で深い共感を持ち、深い共感を示してくれる人もいる。素直な共感のメッセージをもらうととてもうれしい。メッセージはたいてい英語でくれるので大した語学力は要らない。非常にまっとうな意味で仲間に誘ってくれる人もいる。そういう誘いにはわたしも受けさせてもらっている。ふやけた日本人を相手にしなくていいことが逆に大きな救いだ。この目覚めた感覚は後戻りが利かないものだと思う。安倍総理もよく「インスタ(ばえ)」を勧めてくれたものと思う。写真のよしあしの判断は世界のだれにでもできる。そして世界インスタには鍛えられた批評力をもっているひとも多い。日本人も、写真を表現手段に使うなら、日本語をやめてでもそこへ出てゆくべきだと思う。英語のハッシュタグを使うや否やインスタグラムはひとを国粋主義的な誘惑のすべてから解放してくれる。


 わたしのインスタのトップページは以下:
 https://www.instagram.com/ookinashomotu/
 お立ち寄りいただければ幸いです。




《ヒバリの回り討ち》

瀬谷こけし

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 山中智恵子の歌集『黒翁』に雲雀を食べるということが何度か歌われているので、その民俗的な基盤はなにかということをすこし探しているのだが、当面川口孫治郎の『飛騨の鳥』ぐらいしか探すものをもっていない。しかし川口の本にも雲雀食の話は出てこない。だがヒバリに関しても面白い話はいくつか出てくる。ひとつは「コマドリの囀り方を骨にして、ヤマガラやメジロやウグヒスなどの啼き方を加減して肉にしたような啼き方」をやっているヒバリの話だ。それは幼くして親と別れ急斜面の杉林の中で育てられたヒバリの例だ。山崎勝安の話として紹介している。
 また東農には昔「ヒバリの回り討ち」という捕り方があったという(付知町米屋旅館三尾主人の話として)。回り討ちとは「先づヒバリの所在を認めて、之を中心として睨みながら遠巻きに其周囲を大環を描くやう廻はり、漸次にその環を縮めて、以てヒバリ即ち中心と射手との距離、即ち回はりの半径が、易々と雲雀を射取るに十分なるに至って、最後の宣告を下すのである」と記されている。「射とる」と書かれているのはどうやら弓で射てとるものと見える。そして、話は生きて捕るわけではないので、獲られたヒバリは食用にされたのだろう。
 であれば、丹念に探せば雲雀食の民俗も見つかることだろう。

 川口はこの後少し続けていて、ヒバリは眼力と保護色で、「鈍き眼をもつてゐる人々からは、安全に保障されてゐるのであるが、其代り所謂回り討ちのような遣り方に遭ふと、大切の武器が却つて身に累して自滅せねばならぬ破目に陥るのである」と付け加える。ヒバリは「最も著しく人の眼に注目する」小鳥で、そのため自縄自縛に陥ってしまうという解釈だ。

 山中智恵子の『黒翁』のなかで気になった雲雀食にかかわる歌は以下の三首。いずれも「流星の瀧」の段。

> 春の日は雲雀のパテにオニオンのスープのあらばさくら散るとも
> 恋はうらなき 揚雲雀そらに料理(れう)るとききてはかなかりし
> わが淚湖のほとりに来り揚雲雀一身(いつしん)ここに殺のよろこび

二首目は雲雀が「料理する」ということだろう。

 これは「食」や「殺」に直接かかわる歌ではないが、ひばりの歌もう一首紹介しておく。
> ひばり落つる野を失ひてわれもまた恋の奈落になだれゆかむか
   『黒翁』 「泣く土偶」


《遠里小野の》

瀬谷こけし

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 上高野あたりは昔は小野と呼んでいたようだ。小野郷の一部という認識か。小野と言えば、小野道風、篁、妹子、毛人など錚々たる人物がつらなるが、東北にも行っていて、福島県には小野町という感じの良い町があった(そこの山に独りで登ったことは前にどこかに書いたか)。登ったあとは近くの温泉に入って帰った。また『性霊集』に小野の某かに宛てた空海の書簡があり、これについてはいずれきちんと論じないといけない。沖浦和光さんのしっかりしてかつ周到な批判論文があり、それで十分なのだが世に膾炙していないらしい。私が書けばもう少し何かが書けるかもしれない。何で書記のコピーみたいなことしか空海は書けなかったのか。その怠慢のあたりのことを。ともかくいずれ書かなければならない。

 上高野は小野郷なのだ。その知識は上高野村の散歩を一層楽しいものにしてくれる。遠里小野の桃はいつ咲いてくれるのか?

 拙詠一首

> 桃の花か咲きてみゆれど上高野遠里小野は竹にまぎれて




《写真に写らないほど薄く虹が立つ》

瀬谷こけし

 3時過ぎににわか雨があって、夕食に決めたピザの材料を買いに出かけようとしていたのをやめた。結局そう長いこと降っていなかったので、やみかかったところで出かけた。光線がきれいだった。
 帰路、普段と違う道に入った。流れがあって、ひとが野菜を洗っていたのだろうか、邪魔をしていると思って恐縮していた。そこは通れるということだった。ただし踏切のないところで線路を渡らなければならない。昔はふつうに通り道だったのだろう。畑中の道を進むと、東側にうっすらと虹が見えた。ほんとに薄く、しかも片足の一部だけ。慌てて写真を撮ったがうまく写らなかった。虹の橋のあるべきところをたどってみると月が出ていた。10日月ぐらいの肥えた月。これは縁起がよさそうだ。叡山の上にかぶさる厚ぼったい雲も京都ならではの見ものだ。雨後に光が射し出すと、霧がかったような不安定な雲の様子もとても面白くなる。




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《煙り出し》

瀬谷こけし

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 上高野村を歩いていて、こんな煙り出しのある家を発見した。この辺でももう滅多に見なくなってしまったが。茅葺ならともかく、囲炉裏を使って瓦葺にするならこうした煙抜きの窓のようなものを装備しておくことは常識的なことだっただろう。だが、わたしが郡山で聞いた話では、ある家系、つまり渡辺家ではこうした煙り出しの窓を造らないということだった。その理由は、渡辺綱の家系なので、(復讐のために)鬼が入ってこないようにとそうした出入り口を造らないということだ。そんな伝えも、もう郡山の方でも知っている人が少なくなってしまっていることだろう。京都ではどうなのだろうか? 綱の家系の家では屋根に煙り出しの口を造らなかったのだろうか? 古い大工さんなら知っている人もあるだろう。


《久しぶりの八瀬》

瀬谷こけし

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 払ったつもりの税金が払えてなくて、散歩もかねて八瀬のセブンイレブンに行った。帰路はこれも久しく八瀬に行っていないので、歩行もかねて歩いてみた。最初に気づいたのは去年の台風21号で壊れたと見える建物があること。平八かとも思うがよくわからない。あとはそれぞれ。既に桜と見える花が咲いていたこと。ここは、普段なら町の桜よりも遅く咲くのだが、日当たりによるのか。八瀬の駅は吹き溜まりに迷ってやってくる駅かとも思う。そんな小説の舞台にはなるだろう。
 前に書いたかもしれないが、ここ一週間ばかり、インスタグラムに熱中している。海外からのストレートな反応がうれしい。


《詩人とは誰か? 『ツァラトゥストラ』の「救済」のテキスト》

瀬谷こけし

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 ちょっと長く引用してみよう。

>  Ist er ein Dichter? Oder ein Erfüller? Ein Erobender? Oder ein Erbender? Ein Herbst? Oder eine Pfugschar? Ein Arzt? Oder ein Genesener? ①
  Ich wandle unter Menschen als den Bruchstücken der Zukunft: jener Zukunft, die ich schaue. ②
  Und das ist all mein Dichten und Trachten, dass ich in Eins dichte und zusammentrage, was Bruchstück ist und Räthsel und grauser Zufall. ③
  Und wie ertrüge ich es, Menschen zu sein, wenn der Mensch nicht auch Dichter und Räthselrather und der Erlöser des Zufalls wäre! ④
  Die Vergangenen zu erlösen und alles “Es war” umzuschaffen in ein “So wollte ich es!” --- das hiesse mir erst Erlösung! ⑤
(Zar, II-20 Von der Erlösung, KSA.下線強調並びに各パラグラフの後ろにつけた番号は引用者)

 次いでここの箇所の日本語訳を紹介しておく。

> 彼は詩人なのか? それとも真実を語る者なのか? 解放者なのか? それとも束縛する者なのか? 善人なのか? それとも悪人なのか? ①
 わたしは未来の断片たる人間たちのあいだをさまよっている者なのだ。わたしが予見するあの未来の断片たる人間たちのあいだを。--- ②
 こうした断片であり、謎であり、残酷な偶然であるところのものを、ひとつのものに凝縮し、総合すること、これこそわたしの努力の一切なのだ。 ③
 もし人間が、創作者でもあり、謎の解明者でもあり、偶然の救済者でもあるのでなければ、どうしてわたしは人間であることに堪えられよう! ④
 過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること---これこそわたしが救済と呼びたいものだ。 ⑤
 (氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(上)2-20「救済」、岩波文庫。下線強調とパラグラフ番号は引用者)

 こうして日本語訳を見ると、訳者もまた苦労をして訳していることが感じられる。それはとりわけ四カ所の[dicht-]を核に含む語の捉え方、訳し方に関してである。ニーチェはここで[dicht-]を核に含む二様の語をきわめて接近させている。その二様の語とは動詞[dichten]という語にして見ると、大きく見て1)「濃厚にする」と2)「詩作する、創作する」という語の二つである。ニーチェはここで語源説を説いているとまでは言わないが、「詩作する、創作する」の意味の[dichten]の本質を「濃厚にする」という意味から捉え直そうとしているように見えるのである。詩作するとは、凝縮することではないのか? 生成のただなかにある偶然的なものを取り集め、加速し、濃縮して決定的なところにもたらすことではないのだろうか? 詩作の本質について、そして詩人の本来的な使命について、このような解釈をこのニーチェのテキストは示唆しているのである。そのわたしの解釈をテキストを細かくたどり示すことは難しいことではないが、今はその煩瑣を避けておきたい。ただ上記の③段落だけを訳して、目下の任を果たすことにしたい。以下である。

> そして、未来の断片であり、謎であり、おぞましい偶然であるものを、担い集めて一つのものに凝縮すること、このことこそわたしの詩作と奮励努力のすべてなのだ。
(拙訳)

 どうだろうか。「in Eins」がやはり難しい。



ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)
岩波書店
2014-12-18
ニーチェ

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